第四話
いくら仲が良くったって、喧嘩になることぐらいはある。それは仕方のないことだし、そんなものなんだろう。
ただ、ひとつ思うことがある。
――― なんで女って急に怒るんだ?
前から何度も言っている。どうして気付かない? 等々……。だったらその時行ってほしい。そう言い返せば「何度も話してる。聞いてないのはそっちでしょ?! やんわり言っても気付きもしないから今こうして言ってるんじゃない!」だ、そうだ。分からん。さっぱり分からん。
ぷりぷりしている嫁さんを宥めるべく、僕はコーヒーを二人分淹れる。甘いもの何かあったかな? 仕事関係で貰ったお菓子がなにかしらあるはずだ。甘いものを飲み食いしたら落ち着きもするだろう。
「ねえ? 話、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「キッチンごそごそしてて聞いてないよね? 今私なに話してた?」
「だから、何度も話してるって、俺が聞いてないって」
「…………もう、いい」
「は?」
嫁さんは握っていたクッションをソファーに放り投げて、すたすたとリビングを横切って行く。
「ちょ、部屋いくの?」
「……散歩」
は? コーヒー淹れてんの知ってんじゃないのか?
「今」と、嫁さんが低い声で言ってきた「コーヒーどうするの? とか思ってる?」
え? だってせっかく淹れたのに。
「そーいうところが何にも考えてないっていうの!」
言い捨てて嫁さんは苛立ちをドカドカという足音に変えて、本当に出て行った。
そーいうってどーゆうの? で、コーヒーどうすんの?
女が怒るポイントがまったく分からん。コーヒーに怒っていたんじゃないはずなのに、なんで最後コーヒーに怒ってんだ?
僕はどこか呆けながら手にしたコーヒーをずずずっと啜った。
にがいな……。
***
土曜日だというのに、もしかして明日も喧嘩続行なんてことになったら嫌だな。昔のようにお菓子食べさせてれば良いってわけじゃないし。まあ、さすがに覚えていないだろうけど。
冷めてしまった二杯目の、嫁さんの分のコーヒーを飲みほして、僕はごろんとラグの上に転がった。
見るともなしにテレビのチャンネルを変えて、面白いと思わなくて消して。ラジオをつけてみるけれど、やっぱり面白いと思えなくて消して。
「…………」
休みの日に、嫁さんがいないのは珍しい。なるほど、けっこう二人でいたんだな。
散歩に行った嫁さんは少しは落ち着いたかな?
スマートフォンをいじくって【帰ってきてよ。迎えにいこうか?】と嫁さんにメールする。
しばらくして嫁さん専用の着信音が鳴る。右手の親指を滑らせて受信したメールを開く。
【コーヒー気にして追いかけてくる素振りもなかったね。気分転換に本屋に行ってきます】
「…………」
コーヒー放り出して追いかけろと? 散歩行くって出てったのに? 意味がわからん。てか、喧嘩の原因なんだったっけ? コーヒー淹れたのがいけなかったってことだよな?
「…………わからん」
女の怒り方は謎だ。
そいうえば会社の飲み会で、誰かの彼女と別れたって話から堪忍袋の男女差の話になった時に。
『男はコップが水で満杯になったら中身を捨てるけど、女はコップを大きくする』
『捨てるから男は水を無かったことにする。だから一回で終わる』
『捨てないから女は古い水を忘れない。だから何度もある』
男にとって『終わった過去のこと』は、女にとって『二度目はないこの間のこと』でしかない。と。
分かったような分からないような。
だいたい、女が溜めてる水の意味ってあるのか? 成分が不明だ。
「…………。喧嘩の原因、ホントなんだったっけ?」
コップの水で無かったのはたしかだ。
あと多分、女は男の『こーいうところ』を怒るんだろうな。うーん、どうなんだろうね?
寝転びながらつらつらと考えていたら寝そうになったけど、さすがに嫁さんが帰って来たときに寝てるのは益々不機嫌になるだけだろうから、僕は腹筋して上体を起こした。
このまま家にいても仕方がないだろうな。
僕はコートに腕を通し、ポケットに財布とスマートフォンを突っ込んで家を出た。
マンションのエントランスを抜けて、薄暗くなり冷たい風の吹く外へと足を踏み出す。
僕はまたスマートフォンをいじる。今度はメールじゃない。
『……。はい』
コール三回で拗ねた口調の嫁さんが出た。
「今どこ?」
『もう、帰るから……。』
尋ねたことと違う返答に少し苛ついた。
「今、どこ」
きつい言い方になったのは仕方ないと思う。
『……たこ焼き屋の前の道。もう家に着くよ』
まだ拗ねた風な口をきく嫁さんに、僕は努めて柔らかく言った。
「俺もそっち向かってるから、一緒に帰ろう?」
休日に喧嘩して別行動は寂しいじゃないか。
僕は足を早めてたこ焼き屋に向かった。
歩いて数分で、少し俯き加減に歩いていた嫁さんを発見。隣に並んで手をつないだ。冷えきっていた嫁さんの手を、握ったままコートのポケットに突っ込む。
「ごめんな」
何が? とか言わないでくれよ。
「……うん」
願いが通じたのか、感情論を止めたのか……嫁さんはうなずいた。
ほっとして、僕は握っていた手に力を込めた。
***
帰宅したらすぐに風呂の湯を溜めはじめたる。
嫁さんはちょっと意固地になっているのか、あまり喋ろうとはしなかった。
「麻紗子。体冷えてるから風呂入ってきな。その間にラーメンでも作っとくから。夕飯他に食べたいのあるか?」
「ん……ラーメンでいい。お風呂入ってくる」
「ん。温まっといで」
よしよしだんだん不機嫌じゃなくなってきたぞ。
嫁さんが風呂から出るのを見計らってラーメンを仕上げて、テーブルにでんっと出す。嫁さんはまだ髪が濡れたままだったけど、パジャマの上にはんてんを着込んで席に付き「いただきます」と食べ始めた。
ラーメンを啜って腹の中も温まってきたからか、嫁さんの纏う空気から険が取れた気がする。
「話、ちゃんと聞くようにするから。コーヒー淹れたりしない」
「…………。うん」
う……険のけの字が出た気がする。なぜだ? 嫁さんは細い息を吐いて、しょうがないなという風にうっすらと笑った。
ええっと、機嫌治ったと思っていいのかな? 良いよな、うん。 ラーメン鉢の片づけは嫁さんがして、僕は風呂に入った。あとはお互いパジャマ姿でのんびりするだけだ。
スポーツニュースを見終わると、嫁さんを誘って寝室へと引き上げる。
手触りの良い嫁さんの髪を指ですく。少しとろんとした顔を見せたから、そっとキスをした。
拒否はない。よし。本当に機嫌は治ってるな。
僕は嫁さんの身体に腕を回して、キスを深くしていった。
夫婦喧嘩で休日が終わるなんて事にならないで良かった。
そんなことになれば、月曜からの仕事も気うつになるところだ。
嫁さんを背中から抱きしめて、僕は気だるい身体に睡眠を与えようと目をつむった。
寝かけた頃に、腕の中で嫁さんが身動いだ。
僕は寝ぼけ眼ながらも声をかける。
「寒い? パジャマ着る?」
三月だもんな、まだ。
「ぅん。たぁくんは?」
「ん~」
ん? たぁくん? って、え?
僕のことだ。それはわかる。ただ、二十数年ぶりの呼び名に僕は戸惑った。
「麻紗子、覚えてたのか?」
「覚えてるわよ。忘れてると思ってた?」
思っていたので、僕は素直に肯定した。
「なんか……今そう呼ばれると変に照れるな」
ああでも、僕が大学生の時に偶然再開した時、気づいて呼びかけてきたのは嫁さんからだった。
顔がわかったのだから、あだ名を覚えていても不思議はないのか。
もっともあの時の呼びかけは、たぁくんではなく。
「おにいちゃんのがよかった?」
「止めてください。お願いします。ほんと頼むから勘弁してください」
僕は本気で拝み倒した。
罪悪感というか、いたたまれなさにヘタレる。
ああ、そう……僕らは昔、一年くらいの間きょうだいだった事がある。
当時まだ三歳だった麻紗子は、あまり覚えていないだろうと思っていたのだが、意外と憶えているのかもしれない。三つ子の魂百までって言うし。
もわっと湧いてきた居たたまれなさに、僕はこそこそとトランクを穿き、パジャマを着こんだ。
一瞬、嫁さんがどこか満足げな笑みを浮かべたのが見えた。
もしかして、喧嘩の仕返しだったんだろうか……?
勘弁してくれ。燃えるより萎える。




