第一話
当時の僕はまだ中学生で、そんな僕からすれば、三歳児なんて宇宙人みたいなものだった。
機嫌良く遊んでいたはずなのに突然、鼻の下をぐっと伸ばして「今から泣くぞ」と顔中で表現して甲高い声で泣き始める。
無視するわけにはいかなくて、僕は抱っこしてあやそうと試みるが、手足をバタバタして完全拒否されて……。中学生の僕は途方に暮れて、かなりうんざりもして、それでも何とか泣き止まそうと台所をゴソゴソ漁って。三歳児が食べていいのか分からなかったけどチョコレート菓子を見つけて、これ幸いと封を切って袋ごと渡した。
一瞬泣き止んだけど、またすぐにわぁわぁ泣き出して、それでもお菓子をもぐもく食べて、今度こそ泣き止んだかと胸をなで下ろしたのにまた泣いて。
本当に、当時の僕にとって、いもうとになって三日目の三歳児は宇宙人そのものだった。
なぜいもうとが泣いていたのか僕はわかっていなかったし、親から理由を聞かされていたとしても、二十年以上経った今では覚えているわけがなかった。
ただ、その日から―――。
***
就業時間をニ時間ほど過ぎてから、その日の業務は終わった。休日前は残務処理で残業することが多い。
僕は同期の前山と野球の話をしながら更衣室へ向かった。
戸が少し凹んでいるロッカーが僕が使っているものだ。戸を開けるのにちょっとコツがいる。
ガコンッと音をたてて開けたロッカーに脱いだ白衣を仕舞い、セーターを着てダッフルコートを羽織る。着替えは以上だ。
ジャケットもネクタイもない。とは言っても念のためにジャケットとネクタイは常にロッカーにおいてある。勤務中に必要になることはまずないので、本当に念のためにだ。
焦げ茶色の合成革のカバンをたすき掛けにすれば、僕の帰宅準備は万端だ。
前山も似たようなものだが、こっちは車通勤だからコートどころかカバンすら持っていない。財布とスマートフォンと鍵をズボンの尻ポケットに突っ込んでるだけ。身軽でいいなと思う。
「広瀬、駅まで乗ってくか?」
「いや、いいよ。嫁さんに買い物頼まれてるから」
会社と駅の中間にあるケーキ屋で売っている抹茶プリンを熱望されている。一度土産にしたら気に入ったようで、またに食べたがるので買って帰っている。
駐車場へ行く前山とは更衣室前で別れた。
僕はそこそこ広い玄関ホールを抜けて、人がいなくなった受付けの前を通り、表玄関から正門へと向かう。
一月のキンと冷えた空気に背筋がブルッと震えた。自然に歩調が速くなる。
GLB食品株式会社、と書かれたガラスアクリルの社名版を横目に、僕は嫁さんを喜ばせるためせっせとケーキ屋へと足を動かした。
***
家に帰れば美味しいものがあるから、無駄な寄り道はしない。
仕事の気晴らしに一杯引っかけて帰ることは付き合いでたまにある程度だ。
帰宅ラッシュの中、潰れないよう気をつかって持っていたケーキ屋の紙袋を片手に、マンションの玄関ロビーのオートロックを解除して、嫁さんが待つ我が家へ帰るべくエレベーターに乗り込んだ。
「おかえりなさい。太一さん、寒かったでしょう?」
玄関の鍵を開けたらすぐに嫁さんが出迎えてくれた。
見慣れた青いエプロンにオフホワイトのセーターにジーンズ姿。染めていない黒髪は肩甲骨あたりまで長さがあり、サラサラとして手触りがとてもいいことを知っている。特別美人ではないけれど、僕にとってはかわいい容姿をしてる。
僕より十歳年下の嫁さんは、笑顔で仕事の疲れを癒してくれた。
「ただいま。はい、麻紗子の言ってたやつ」
抹茶プリンを渡したら二十五歳とは思えない、ふにゃっとした顔をした。
かわいかったので取りあえずキスしておく。
僕らが住むマンションは3LDKのオーソドックスな間取りをしていた。ベランダは幅広で、ちょっとした家庭菜園を嫁さんがやっている。去年の夏に三十五年ローンで購入した狭いながらも楽しい我が家だ。住宅ローンのプレッシャーは、いい感じで仕事への意欲になっているとおもう。
夕飯と風呂を済ませたら、夫婦そろってリビングでまったりタイム。
休み前の寝る時間を気にしなくていいこのひと時に幸せを感じる。
仕事柄よく貰う試供品のスナック菓子をつまみにビール、と言っても発泡酒だが、みんな結構ビールと言ってると思う。まあ、その馴染みの青い缶を飲みながら、スポーツニュースを見る。
CMに入った隙に耳かきを嫁さんに渡して、ごろんとその膝に頭を乗せた。
暖かそうなフリースのパジャマ越しに柔らかい太ももの感触がする。
嫁さんは僕の耳を覗きながら。
「大きいのないよ」
と言って耳かきに付いてる綿みたいなので、こしょこしょとそうじしてくれている。
「麻紗子、耳そうじうまいよな。寝そう」
「こんなところで寝ないでよ。はい。反対向いて」
僕は素直に嫁さんのほうを向き、ついでに腕を腰に回した。
耳そうじ気持ちいいな。本当に寝そうだ。
「そういえば今日太一さんの会社に小学生来てたでしょう?」
「ん? ああ、職業体験だとかで受付けと、確か冷食のレシピ開発のほうに何人か来てたな」
「太一さんの部署には来なかったの?」
「ああ」
僕は食品会社の研究開発室に勤務している。ここ二年ほどはビスケットの商品開発に携わっていた。部外秘が多い部署だから、毎年ある職業体験でもうちの部署には子供たちは来ない。
パフォーマンスでこんな行程で商品を作り出していく、と見せることはあるがその程度だ。
「そうなんだ。はい。耳そうじ終わり」
「ん、ありがとう」
の、気持ちを込めておしりを撫でたら怒られた。
「なんで急に触るの、びっくりするじゃない」
なんでと言われても男が彼女とか嫁さんの身体触るのは、なんというか意味はあるんだけど説明は難しい。
それでもわかりやすく言うのなら。
「マーキング?」
としか言いようがないよな。
「なにそれ……」
ものすごく呆れられた。
けど、まあ夜だし。明日は休みだし。夫婦だし?
「テレビもういい? 消すよ?」
「うん。ゲーム? 寝るの?」
「寝ますよ奥さん」
「うん」
入籍してからは五年半経つけれど、夫婦になってからはまだ半年程度だから、今がやっと新婚みたいなものだ。
リビングの電気を消して寝室に行こうとしたら「お菓子食べたんだから歯磨きもう一回!」と叱られたので、急いで磨いて寝室に行った。
越してくるまでは寝室は別だったからか、反動でデカいベッドを買ったら部屋の三分の二がベッドに占領されることになった。ウォークインクローゼットだから荷物はすっきり収納できるし困りはしないからいいかと思ってる。嫁さんは置ける鏡台を探すのに苦労していたようだけど。
先に布団に入っている嫁さんの傍に潜り込む。
足元にある湯たんぽに愛を感じた。
「おやすみ。太一さん」
「寝るの?」
「……寝るんじゃないの?」
「うん。寝る」
ニアンスの違いにやっと気づいた嫁さんが、恥ずかしさとほんのり沸いた期待とで眉尻を下げる。
かわいかったので、夜のマーキングは眉毛へのキスから始めた。
入籍してから夫婦になるまでの五年間を埋めるように、僕は嫁さんを抱きしめた。




