(8)
その晩、智浩は夕食を終えて、用意された部屋へと案内された。
もともとは弟子たちの使う部屋のひとつだったらしいその部屋は、四畳半ほどの広さしかなく、家具もベッドのほかには小さな机といすが備え付けられているだけだった。寒くなるはずなのに暖房設備は見あたらず、代わりにベッドの上には布団が山積みになっている。
「ちょいちょいは掃除しておきましたから、ほこり臭くはないと思いますよ」案内してくれたヤノさんがそういった。その言葉どおり、いまは使われていない部屋のはずだが、ほこり臭くもカビくさくもない。
「ああ、ありがとう」
智浩は礼をいってから、首を傾げた。「しかし、いつの間に掃除まで……」
ヤノさんは智浩たちを師匠の居室に案内してからは、ずっと夕食の準備をしていたはずだ(智浩を風呂へ案内したときをのぞいて)。ほかに人員はいないようだし、食事もコース形式でこそなかったものの、前菜にサラダ、スープ、メインディッシュにデザートとずいぶん豪勢なものだった。小麦のパンも焼きたてで、智浩は彼女の腕前に感服したばかりだった。あの手の込みようだと、ほかのことをしている余裕はなさそうだったが──。
「あらあら、野暮なことを聞いたらいけませんよ」
しかしヤノさんはころころと笑って、智浩の疑問には答えてくれなかった。机の上に持っていたランプをおいて、それじゃまた明日、といって部屋から出ていった。
その後ろ姿は、腰のあたりの不自然なふくらみがゆらゆらと左右に揺れているように見えて、智浩はヤノさんに尻尾があるのか聞いてみたかった。が、昼間ミュールに失礼だといわれていたこともあり、結局なにもいわずに見送った。
「不思議なひとだな」
ある意味、この世界で出会った生物では今のところ彼女がいちばん神秘的な存在かもしれなかった。
「さて」
部屋にひとりになった智浩は、ヤノさんが机の上においていったランプを見やった。
ランプは光量がしぼられていて、室内は少々薄暗い。もうあとは寝るだけなのでそれはいいのだが、先ほどから油の燃えるにおいが気になっていた。燃料は灯油ではなく獣油なのだ。
この世界では精製された油はなかなか手に入らないのだ、と食事の席でウィズダムがこぼしていた。
「君も気になるようなら、この呪文を唱えてみるといい」
と、その場で老人に簡単な呪文を教わっていたのだ。
──試してみるか。
智浩は目を閉じ、精神を集中させた。それから、頭の中でイメージを固める。
魔法を思いどおりに使うには、イメージが大事──イメージが明確であればあるほど、呪文を唱えた結果もそのイメージに近づいていく。屋敷へくるまでの道中でミュールに教わった魔術の基礎である。
右手をかざし、言葉を紡ぐ。
「co,di,reste」
右手の先が一瞬だけあたたかくなるが、その熱はすぐに消え去った。
ゆっくりと目を開くと、智浩の頭よりほんのすこし高い位置にちいさな光の珠が浮かび上がっていた。
ランプを消してみると、明るさは魔法を使う前とさほど変わらない。智浩は満足してうなずいた。ほぼイメージどおりだ。
老人の話では、放っておけば一時間ほどでこの光は消えるとのことだった。
「しかし、せっかく教わったからと使ってはみたものの、正直もう寝るだけなんだよな……」
ミュールは当然別の部屋だから話し相手はいないし、暇をつぶすようなものもない。
明かりがないと眠れないということもないし、ちょっと余計なことをしたかもしれない。発動した魔法を消す方法というのも教わっておくべきだったかもしれない。
光の珠はふよふよと空中を漂っている。ランプの光とも、見慣れた蛍光灯のそれともどこか違うその光を、智浩はベッドに腰掛けたまま、しばらく眺めていた。
「ふあっ……」
十分か二十分か、そのくらいの時間がたった頃、智浩の口からあくびが漏れた。
今日も半日は馬に乗っていたのだし、昨日は野宿だ。疲れていないはずはなかった。光の珠はまだ消える気配がないが、布団をかぶってしまえば気にならないだろう。
「寝るか」
そう口にしたとき、ドアがちいさく二回ノックされた。
「はい?」
ベッドに腰掛けたまま返事をする。
「あ、あのー、ミュールですけど……」
ドアのむこうから聞こえてくる声は、確かにミュールのものだった。
「なんだ、こんな時間に」
「は、入ってもいい?」
しかしその声は、普段の彼女のものからするとやけに弱々しく、頼りない。
「構わないが──」
智浩の返事とほとんど同時に、ドアが薄く開かれ、ミュールが首から上をのぞかせてきた。
「あれ? 明るい……あ、魔法を使ったのね」
「ああ、消し方がわからなくてな。なにか相談ごとでもあるのか?」
ミュールは智浩の問いには答えず、いくらか逡巡するような素振りを見せたあと、すべるように室内に入ってきた。
彼女は風呂場で見たときとおなじ、白い無地の浴衣のような服を身につけていた。
もちろん、ずっとその格好をしていたわけではない。すくなくとも食事のときはいつもの格好だった。
となると、あの服は寝間着もかねているのだろうか。
「え、えーと」
「どうした、明かりも持たずに」
すでに外はすっかり日が落ちて暗い。廊下も当然真っ暗だから、ランプも持たずに歩くのはちょっと危ない。
ひょっとして、久しぶりにきたせいで自分の部屋がわからなくなったのだろうか?と智浩は考えた。
ミュールは下を向いたり横を向いたり、なんだかもじもじしている。胸元の合わせが甘く、身じろぎする度に肌色の部分が見え隠れするのがどうしても気になってしまう。
──確か風呂場では、あの下にも何か身につけていたと思ったのだが……。
そう思い至ったとき、ミュールが唐突に声を上げた。
「あの!」
「な、なんだ?」
「よ、夜伽のお相手」夜伽の「と」の部分で、盛大に声が裏がえった。「に、きました……」そのせいで、せっかく威勢良くはじめたものの、最後は尻すぼみになってしまう。
「……は?」智浩は目が点になった。
夜伽、という言葉は聞こえたし、それ自体やや古めかしい言葉ではあるが、意味が分からないということはない。
要は、男女が夜の床を同じにして寝るということだ。もちろんただ寝るだけではなくて、その先の行為も含めての言葉だ。
智浩に理解できなかったのは、どうして目の前のまだ幼い──と、智浩は考えている──少女がそんな言葉を口にしたのか、ということだった。
「なにをいっている、ミュール?」
「だ、だからその……」智浩が思いのほか鋭い目つきをしてそう聞き返したので、ミュールはすこしたじろいだが、それでももう一度口にした。「夜のお相手に、その──」
「言葉の意味が分かっているのか?」智浩の語調が厳しくなった。「大人をからかっているのか。自分の部屋に帰りなさい」
「う、ううっ──」
ミュールは言葉に詰まってしまった。しかし次の瞬間、驚くべき行動にでる。
突然、身につけている服の帯を解いてしまい、そのまま服を脱ぎ捨ててしまったのだ。
「なっ」
智浩の目が今度はまるくなった。
ミュールは服の下になにも身につけていなかったのだ。
一糸まとわぬ裸身が、智浩の創りだした光の珠によって照らしだされる。ちいさな肩も、控えめなふくらみとその先端も、いくらか女らしくくびれた腰も、その下も──すべてがさらされていた。
からかっているにしては行きすぎた行為に、智浩は言葉を失った。
ミュールは身体を隠さずに、そのまま智浩へ走って近づいた。ほとんど体当たりに近い形でベッドに押し倒してしまう。
智浩は意表を突かれて抵抗できず、ミュールが自分の身体の上に馬乗りになるのを許してしまった。
「おねがい、トモヒロ──」
光の珠が背後からミュールを照らすため、その表情は影になって見えない。
「なにもいわず、わたしを使って」
裸の女性に馬乗りにされるのは、新婚時代を含めてもほとんど経験がなかった。
「使えだなんて、いうものじゃない」
しかし、どういうわけか智浩は落ち着いていた。あまりにも突拍子もない事態すぎて、理解が追いついていないのかもしれない。風呂場で背中を流してもらったときのほうが、まだしも緊張していた。
「この世界では、女性がこうやって男性に迫るのは一般的なのか?」
ミュールは首を振った。
「君が本気なのだということはわかった。だが本心からではないように見える。なぜこんなことをする?」
今度は答えない。
「──君の師匠に、何かいわれたのか?」
智浩がそう考えたことには特に根拠があるわけではなかった。だがミュールは肩をびくりと震わせて、顔を背けた。
「そうなのか」
ミュールは否定しなかった。
智浩は目を閉じ、ひとつ息をついた。それから目を開いていった。
「とりあえず、話をしよう。──この体勢はなんとかしてくれ」