(7)
浴場の脇には、いすのようにでっぱった石があり、智浩はそこに腰掛けた。むろん、腰回りはしっかりと隠したうえで。
その背後では、無地の浴衣のような衣服に身を包んだミュールが、木桶のお湯の中で石鹸と海綿をもみ合わせて泡を立てている。
智浩は振り返ることもできず、会話をしようにも話題が思い浮かばず、ただせいぜい背筋を伸ばしてその気配を感じていた。
──まあ、娘ができたとでも思えば……。
そんな風に考えて、むりやり気持ちを落ち着かせる。誰かに身体を洗ってもらうなんて新婚時代以来だ。
「じゃ、いくよ」
ミュールが合図をする。
スポンジの感触を想像して身構えていた智浩だったが、その前にミュールの左手が肩にのせられた。吸いつくようなその感触に、身体がびくりとはねてしまう。
「あ、ごめん。手、冷たかった?」
「いや、大丈夫……」
智浩は赤面しながら答えた。幸いにも背中をむけているので、その様子はミュールには伝わらなかった。
今度こそ泡にまみれたスポンジが背中にあたり、肩甲骨のあたりから下にむけて身体をこすられていく。
背中を流してもらうのは、智浩の思い描いていた以上に気持ちがよかった。
智浩が自分で身体を洗うときに比べれば、だいぶやさしい力加減だったが、むしろそれがここちよい。
「どう、気持ちいい?」
「ああ、いい感じだ」
だいぶ気持ちがほぐれて、ミュールの問いかけにも自然と答えられた。
「そういえば、さっきは師匠とふたりで、なんの話をしていたんだ?」
その流れで会話もスムーズに運ぶ……と思ったのだが、ミュールの返答は一拍遅れた。
「──怒られてたの」
「浩一のことか?」
「うん、まあね」
ミュールは自分の感情を覆い隠すかのように、いそがしくスポンジを動かした。
「それは、すまなかったな」
背中をむけたまま、智浩はわびた。
「おじさんが悪いんじゃないでしょ」
「だが、息子の不始末を父親がわびるのは当然だ」
智浩がいうと、ミュールの手が束の間、止まった。
「ううん、そうじゃなくて、コーイチよりもわたしが悪いのよ。わたしが未熟だったから、魔女につけこまれる隙をつくったからいけなかったの」
「そんなことはないだろう。結局、誘惑されて、それに乗ってしまったのは浩一だ。まだ中学生とはいえ、あんな風に世間知らずに育ってしまったのも、結局は私の責任だ。それなのに君が師匠に怒られてしまったというのはなんだか申し訳ないな。夕食のときにでも私が事情を説明して──」
「い、いいよ、いいよ! そんなことしなくて」
ミュールはあわてて智浩の言葉をさえぎり、また智浩の背中をこすりだした。
「お師匠さまがわたしに厳しいのは仕方がないの。わたしは、お情けで置いてもらっているようなものだから」
「それはどういう──」
「もともとは、わたしのお父さんがお師匠さまの弟子だったの。お師匠さまは召喚術を確立したあと、それを広めるために一時期はたくさん弟子をとっていて、その中のひとりだったのよ。でもこの世界の人間はみんな魔力が低かったからうまくいかなくて、最終的にはお父さんを含めてほんの数人しか残らなかった」
語りながら背中を洗いおえたミュールは、そのまま左肩から腕を洗いはじめた。
「お父さんはけっこう優秀で、お師匠さまにも見込みがあるっていわれていたみたい。でも魔法の実験中に事故を起こして、そのときに負ったケガがもとで死んじゃったの。お師匠さまもそれを境に残っていた弟子もみんな返してしまって、お手伝いとしてヤノさんが残っただけになった」
左腕を洗い、ついでにわき腹もこすったミュールは、すこし身体を移動させて今度は右側を洗う。
「わたしはお父さんの跡を継ぎたくて、ムリをいって弟子にしてもらったの。お師匠さまが認めてくれたのは、お父さんのことで負い目を感じているからなんだと思う。わたしの魔力も、召喚師として一本立ちするにはやっぱり足りなくて、でも、その──うまくすればなんとかやっていけるかもしれないから、ってことでなんとか破門にならずにすんでいるのよ」
ミュールが一瞬言葉に詰まった。彼女がなにかをはぐらかしたように聞こえて、智浩は違和感を覚えた。
「いま──」
「はい! うしろから洗えるところはだいたい洗ったよ」
ミュールが会話は終わり、とばかりに元気よくいい、智浩の言葉を断ち切った。
ミュールの身の上を聞いているうちに、背中、肩、両腕に両わき腹とひととおり洗われていたのだった。
「やっぱり、前も洗ってあげようか?」
「いや、結構。あとは自分でできる」
智浩は振り返り、ミュールからスポンジを受け取った。彼女の着衣はほとんど濡れていないが、腕や膝下はいくらか水を吸い、その奥の肌色が透けていた。
「じゃあ、わたしは戻るね。ごゆっくり」
ミュールは立ち上がるとそう告げた。
「君は入らないのか?」
智浩は素朴な疑問を口にしたつもりだったが、ミュールはきょとんとしたあとで、胸を両腕で隠しながら意地悪な笑みを浮かべた。
「もしかして、一緒にはいりたいの?」
「ち、違う!」
とんだ失言をしたと気づき、智浩は顔を真っ赤にして否定した。
「あはは、冗談よ。わたしはあとでヤノさんと一緒にはいるの。それじゃ、あとでね」
ミュールは屈託のない笑顔になって手を振ると、布をくぐって浴場を出ていった。
ミュールが着替えて脱衣所をでると、ウィズダムが待ちかまえていたかのように立っていた。
「ずいぶん早かったな。ちゃんとやったのか?」
「──背中を流してあげただけです」
ミュールは目を合わせずに答えた。
「それじゃあ大した誘惑にはならんぞ。まあ泡踊りならもっと肉の柔らかい女のほうがいいがな。おまえじゃスポンジと変わらん」
侮辱といっていい言葉にも、ミュールは言い返さなかった。
「忘れるなよ。今夜中にモノにできなければ破門だ。どのみちおまえの魔力では、父親の研究を引き継ぐことなど夢のまた夢かもしれんがな」
ウィズダムはいいたいことをいってしまうと、ミュールに背をむけて立ち去っていった。そのちいさな背中が見えなくなるまで待って、ミュールはゆっくりとため息をついた。
お読みいただきありがとうございます。
文字数が……。四〇〇〇字前後を一話の目安にしているつもりなんですが、ちっとも思い通りにならないですね。
このあたりはもっとベタベタな展開にしたかったんですが、まだ気恥ずかしさがあるなあ。もっと精進が必要ですね。
ご意見ご感想などありましたらぜひお聞かせください。