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(6)

 智浩が部屋を去ると、室内にはにわかに沈黙がたちこめた。

 ウィズダムは無言で紅茶をすすり、ミュールは肩を縮めてその様子をうかがっている。

「あの──」

「話は聞いているぞ、ミュール」

 意を決して口を開いたミュールにかぶさるようにウィズダムが重々しくいった。

 先ほどまでとは声のトーンが違う。

「異世界人を魔女にとられるとはな。とんだ大失態だったではないか」

 ミュールはなにかいおうと口を開けたものの、ウィズダムのいったことは厳然たる事実であり、結局なにをいってもいいわけになってしまう。

「申し訳ありません」

 なんとか言葉にできたのは、それだけだった。

「運良く次の異世界人が来たからよかったものの、あのままだったらわしのところに依頼が回ってくるところだった。この老いぼれにまだその青い尻を拭かせる気なのか?」

 ミュールは無言で下をむいている。

「それにしてもよりによってシトラにしてやられるとはな。ありゃ女としては上玉でも、魔女としては三流だぞ。まあその女の武器を使ってとられちまったんだからな。おまえじゃ分が悪すぎる」

 ウィズダムは席を立ち、ミュールへと近づくとおもむろに杖先を持ち上げて、ミュールの胸のあたりをついた。

「んっ──」

 ミュールは小さく息をつくような音をたてただけで、その仕打ちに耐えている。

「だからここを出るときにいっておいただろう。異世界人を見つけたら、まず自分のモノにしてしまうんだと。おまえみたいな貧相な身体でも、いちど抱いてしまえば情がわくんだ。先手をとることが重要だとあれだけ教えたのに、どうせ誘惑しようともしなかったんじゃないのか?」

「それは……」

「まさか、本気で惚れちまってたんじゃないだろうな」

 口ごもっていたミュールだったが、ウィズダムの指摘に顔を赤くした。

「なんだ、図星か?」

 ウィズダムはおおげさに呆れてみせた。「まったく……魔法だけじゃなくて、男のこともしっかり教えておくべきだったな。現地人にしては魔力があるし、女の特性を使えば召喚師として使えるかと思ったんだが、これじゃどうにもならん」

「こ、今度は」ウィズダムの態度に、ミュールはあわてていいつのった。「今度は、大丈夫です。トモヒロは奥さんを大事にしているみたいだし、あんなことには──」

「そんなことをいっているからダメなんだ」

 しかし、ウィズダムはそれをさえぎって一喝した。

「あの年頃ならまだまだ男として機能するんだぞ。女に興味がないんじゃない、おまえに興味がないんだ。その程度もわからないから魔女なんぞにとられるんだ」

 ミュールはまた、下をむいてしまった。

「今夜だな」

 ウィズダムは柱時計を見やりながらいった。

「ここにいる間は、魔女も手出しはできん。今夜中に、モノにしてしまえ。この世界へ来て四日目か。そろそろ溜まってるころだろう」

「そ、そんな」

「できなきゃ、破門だ」

 ぴしゃりといいつけられて、反論は封じられてしまった。


「さあさあ、こちらが脱衣所ですよ」

 犬──ではなくてエルフのヤノさんは、とても働き者だった。

 大人数相手でも十分サービスできそうな広い台所でひとり、せわしなく動き回っていて、智浩は声をかけるかどうか迷ったほどだ。

 それでもむこうから智浩に気づいて「あらあら、ご用はなあに?」とにこやかに近づいてくる。

 風呂の場所をたずねると、行き方を教えてくれればいいのにわざわざついてきてくれた。

「はいはい、替えの服はここね。荷物は部屋に運んでおきますから。それじゃ、ごゆっくりね」

「すみませんね、忙しいのに」

「いえいえ」

 ヤノさんは去り際に振り向いて、「そうそう、身体、洗って差し上げましょうか?」といった。

 つぶらな瞳で智浩を見上げるヤノさん。その鼻の頭はつやつやと濡れて黒光りしていた。

「それは、結構です」

「あらあら、残念」

 ヤノさんはころころと笑うと、脱衣所から出ていった。

「……あの服の中、どうなってるんだろうな」

 果たして全身シー・ズーなのだろうか。

 おそらく、智浩には一生明らかにされない謎だろう。


「おお……」

 入り口にかけてある布をくぐって風呂場にはいると、智浩の口から自然と声が漏れた。

 そこはかなり広かった。旅館の大浴場といってもいいくらいだ。床はタイル張りになっていて、光沢のある石材で造られた湯船が部屋の奥、三分の一ほどを占めている。

 ただよう湯気から、かすかに硫黄のにおいも嗅ぎとれた。

「本当に温泉なんだな」

 滑る足下に注意しながら湯船まで行く。指先を入れてみると、想像していたよりはぬるいようだ。

 そばにあった木桶で湯をすくい、二回掛け湯をしてから湯につかる。

 腹の奥底から自然と深いため息が出た。

 温度がぬるいのが残念ではあるが、久方ぶりのまともな風呂だ。そもそもこんな広い風呂は、智浩には二年前に社員旅行で行った旅館の大浴場以来だった。

 湯は透明だが、こころなしかとろりとしていて、なにかの薬効もありそうだ。だが、さすがに日本の温泉旅館ではないので、薬効の書かれた立て札はたっていなかった。

 湯船は深くなく、ふつうに座ると腰のあたりまでしかこない。ほかに誰もいないのをいいことに、智浩は首から上だけを湯から出して大胆に寝そべってみた。やはり、肩までつかりたいものだと思ったのだ。

 大の字になって身体の力を抜くと、身体は自然と浮き上がってしまい、足の先やら股間の一部やらが湯の外に出てしまったが、智浩は気にせずそのまましばしたゆたった。

 やはり湯の効能はてきめんで、智浩はこの世界に来て初めてこころからリラックスできていた。

 すると、自然と妻子のことが思い出される。

 ここしばらくは仕事にかかりきりで、気づけば家族旅行も長いことしていなかった。遠出といえばせいぜい実家の墓参りくらいだったのだ。

 ──無事家に帰ったら、みんなで温泉に行くのもいいな。

 この広い浴場を独り占めしていることが申し訳なく思えてきて、智浩はそんなことを考えながら湯にからだを任せていた。

 やがて存分に温泉を満喫した智浩は身を起こすと、浴場内をきょろきょろと見回す。

 身体を洗いたいのだ。

 実際気候の問題なのか、ここへ来て数日は簡単に身体を拭くことしかしていないし、昨日はそれすらしていなかったのだが、とくに垢が出るわけでも頭がかゆくなるわけでもなかった。しかしそうはいっても長年の習慣として、ほぼ毎日風呂に入って頭と身体を洗ってきたのだから、せっかくこうして立派な風呂に入ったときくらいはなんとかしたい。

 だが室内には木桶はあるものの、やはりシャンプーもボディーソープもないし、タオルもスポンジもない。

 落胆した智浩は、こうなれば小さな手ぬぐいでも持ってきて身体を拭くか、と湯船からあがった。

 入ってくるときは、風呂の様子が気になって脱衣所のなかになにがあるかなど気にしなかったが、まあ身体を拭くものがないということはないだろう。

 ぺたぺたとタイル床を歩いて脱衣所の前まで行き、仕切りになっている重い布を持ち上げる。

 当然、誰もいない空間を想定していた智浩だったが、事実は違った。

 そこにはミュールがいて、着替えをしていた。彼女が普段身につけている衣服は棚にしまわれ、彼女自身は白い薄布の装束を身につけている。智浩がみたのは、ミュールが服の前をあわせて帯を締めようとしているその瞬間だった。

「あれ、トモヒロ、もうあがるの?」

 ミュールはさほど驚いた様子もなく、そう声をかけた。

 一方の智浩は、その声でようやく我に返った。

「おわっ」

 短く声を発して、持ち上げていた布を戻す。

「す、すまない!」

 とにもかくにも布越しに謝罪をする。はだかを見たわけではないが──というか、智浩の方が隠すものもない状態なのだが──、こういうときはとにかく男が謝るものだというのが智浩の常識である。

 しかし、浴場はここひとつしかないようであったし、男女別に分かれている風でもなかったから、よく考えるとここは混浴であったということだ。

 前を隠すものくらい最初から持っておくんだった、と後悔は先に立たないものである。

「いいよ、気にしないで」ミュールの声は落ち着いている。「わたし、トモヒロの身体を洗ってあげにきたんだけど、遅かったかな?」

「身体を?」智浩はなかなか動揺から立ち直れない。「いや、そんなことまでしてもらわなくても──」

「でも、お風呂で身体洗うの、楽しみにしてたんでしょ? ここに来るまでもよくいってたじゃない」

「確かにいったが、手伝ってもらわなくとも大丈夫だ」

「でも、石鹸、ここにあるし」

「うっ」脱衣所に石鹸があったとは。

「はじめてきた場所だし、ものの場所とかよくわからないんでしょ。手伝うよ。召喚した対象が不自由しないようにするのも召喚師の仕事だって、いったでしょ」

 ミュールの口調がいつもと変わらなかったおかげで、智浩も次第に冷静に考えることができるようになっていた。彼女は仕事の延長でこうしてきてくれたのだ。他意があるはずもない。だいたい、息子と変わらない歳の少女相手にこんな風に動揺してみせるのは、大人としていかがなものなのか──?

 そう考えた智浩は、ひとつ息をつくとミュールに告げた。

「……それなら、背中だけ流してもらおうか」

「わかった」

 ミュールの元気のよい答えが聞こえ、すぐに布が持ち上がる気配がする。智浩はあわてて付け加えた。

「入ってくる前に、腰に巻ける布をよこしてくれ」



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