(4)
森を抜けると、ようやく屋敷が間近に見えるようになる。
屋敷は西洋の城塞をおもわせる堅牢な作りだった。背後にそびえる岩山とあわせて見れば、なかなかに荘厳な景色である。
だが、広い庭園は荒れ放題だった。おかげで知らずに来たら廃墟だと思ってしまうかもしれない。
「昔はわたしみたいな弟子がたくさんいて、みんなで手入れをしていたんだけど……。今はもう隠居しているようなものだから、お師匠さまとヤノさんしかすんでいないの。お師匠さまはお年だし、ヤノさんひとりじゃ屋敷の中だけで精一杯ね」
ミュールがすこし寂しげな顔でそう教えてくれた。
まずは屋敷の脇にある厩舎へ行き、ゲイロンとポルカをつないだ。智浩もミュールの見よう見まねで、ポルカの馬装を解いてやった。さらに水と飼い葉も用意してやらなければいけない。
厩舎の中にはもう一頭馬がいた。この屋敷で使っている馬なのだろう。ミュールはその馬にも親しげに挨拶を交わし、ゲイロンと同様に水と飼い葉を用意してやった。彼女は智浩がポルカ一頭の世話をするのに四苦八苦している間に、二頭分の世話を終えてしまった。
「ありがとうございます、勇者さま」
あまりにも手際が悪いので隣のゲイロンにさんざん笑われたものの、ポルカは智浩に丁重に礼をいった。
「あ、ああ。しかしその勇者さまっていうのはなんとかならないかな」
「お気に召しませんか?」
「なんというか、恥ずかしいんだ」
「そうですか……」
ポルカはつと考えるような仕草を見せる。
「おじさん、こっちだよ」
ミュールから声がかかった。
「まあ、無理に変えてくれともいわないが。今日はありがとう。よく休んでくれ」
智浩はポルカの首筋をぽんぽんとたたくと、ミュールについて厩舎を後にした。
「なんというか、馬にもいろんなのがいるんだな」
「そりゃそうだよ。人間だっていろいろいるでしょ」
「たしかにそうだが……。そういえば、しゃべらない馬というのはいるのか?」
「見たことないかな。野生の馬だったらいるかもね。言葉を知らないってことだけど」
「ほかの動物はしゃべるのか? 犬とか、猫とか」
「犬はしゃべらない。猫は、しゃべることはできるはずだけど、あんまり聞いたことないかな。あんまり人と関わるのが好きじゃないみたい」
「へえ、犬はしゃべらないのか。なんだか意外だが……」
馬や猫がしゃべるのなら、犬だってしゃべって良さそうなものだ。
「そう? わたしには想像できないけどな。犬がしゃべってるところなんて」
「私もこの世界にくるまで、そんなことを想像したことはなかったよ」
「あはは、そうだよね」
などとやりとりを交わす間に、ふたりは屋敷の玄関までたどり着いた。智浩の身長の二倍はある立派な観音開きの扉が、なんだか威圧的に感じられる。
ミュールが進み出てドアの取っ手をつかみ、二回ノッカーにうちつけたあと、そのまま取っ手を引いた。
重くきしんだ音を立てながら、ドアがゆっくりと開いていく。途中からは智浩も手伝った。
ある程度開いたところで、ミュールにうながされてまず智浩が中に入り、それからミュールが滑りこむようにして中に入った。
「ふう、重くてやんなっちゃうわ、これ」
手にさびでもついたのか、ぱんぱんと手を払いながらそんなことをいっている。
屋敷の中は、外観同様西洋風のホールになっていた。二階分の吹き抜けになっており、中央には階段が据え付けられている。床には赤いじゅうたんが敷きつめられ、いくつか調度品もおかれていた。
見上げた天井にはシャンデリアも吊り下がっていたが、そちらは明かりがともっておらず、ホールはやや薄暗かった。
そうはいっても、2LDKのマンション暮らしである智浩からすれば、十分に立派で豪華な建物だった。彼の稼ぎではまずこんな住宅は建てられないだろう。
智浩が感心しながらホールを眺め回していたとき、一階の奥の扉が音を立てて開いた。
「ヤノさん!」
「まあまあ、ミュールちゃん!」
ふたりの声が響いて、智浩はそちらをみた。ミュールとヤノさんは再会を祝して抱き合っていたが、ヤノさんはずいぶん身体が小さいらしく、智浩の位置からはミュールの背中しか見えなかった。
「お久しぶりです」
「うんうん、本当に大きくなったわねえ。おばさんびっくり」
「ヤノさんは、すこしやせたんじゃないですか?」
「おやおや、うれしいこといってくれるじゃないの」
そうやってしばらく旧交を温めていたが、智浩がこちらから声をかけようか迷いだしたころ、ようやくミュールが思い出したようにこちらを振り返った。
「そうそう。今日は契約に来たんです。彼がトモヒロ。トモヒロ、こちらがヤノさんよ」
「あらあら、そうだったの」
ミュールの陰から、ヤノさんがひょいとばかりに顔を出した。
「あ、これは、どう……も……?」
あいさつをしようとした智浩は、その顔を見て固まってしまった。
「あれあれ、どうかしまして?」
ヤノさんは首を傾げている。
「いや、その──」
智浩は二の句が継げない。
「おじさん、どうかした?」
ミュールも智浩が固まった理由がわからないらしい。
「ミュ、ミュール」
智浩はミュールを手招きすると、小声でいった。
「犬はしゃべらないんじゃなかったのか?」
「犬って──」
智浩はヤノさんの毛むくじゃらなその顔を凝視していた。
「ヤノさんは犬じゃないわよ」
「しかし、あれはどうみても──」犬だった。
智浩の様子を不思議そうに眺めているヤノさんは、ミュールの胸あたりまでの身長があり、女物の服を着て、二本足で立っている。
が、その身体は、少なくとも服の外にでている部分はもれなく長い毛に覆われていた。もちろん顔も例外ではなく、くぼんだ目とつぶれた黒い鼻と唇のあたりをわずかに露出させているほかは、白と黒と茶色をミックスした毛並みが覆っている。
──思い出した、あれは確かシー・ズーとかいう犬種だ。
むかし動物番組でみた知識があたまにひらめいた。
「智浩の世界だと、犬は服を着て、二本足で歩くの?」
「いや──」
服を着ている犬はけっこういるが、あれは着させられているのであって、自分で着ているのではない。二本足で歩くこともしこめばできなくもないが、それは芸の範疇である。
「そんなことはない、が」
「でしょ? しっかりしてよ」
ミュールは腰に手を当て、ため息をついた。
「でも、智浩が驚くのも無理はないか。ヤノさんはね、エルフなのよ」
「……エルフ?」智浩はぼんやりと繰り返した。
「知らない? 本当は森に住んでいる妖精なの。ヤノさんは魔法の修行をするためにお師匠さまに弟子入りして、そのまま住み込みでお師匠さまの面倒を見ているのよ」
「おやおや、なんだか恥ずかしいねえ」
ミュールに紹介されてヤノさんは照れている。
智浩も、エルフという言葉は聞いたことがあった。森の妖精という情報も覚えがある。だが、目の前の人なつっこそうな犬(にしか見えない)とはどうにもイメージが一致しなかった。
「ま、まあいいさ」
理解が追いつかないことなど、ここに来てから山ほどあるのだ。ミュールがエルフだというからには、ヤノさんはエルフなのだろう。
「早乙女智浩です、よろしく」
強引に自分を納得させて、右手を差し出した。
「あらあら、なかなかかっこいいじゃないの」
つぶらな瞳で智浩を見上げながら、ヤノさんも右手を差し出した。
握手をする。犬のそれよりは大きく、指もしっかり分かれているように感じたが、手のひらには肉球がしっかりついているのを智浩は見逃さなかった。
「お師匠さまは、いまはお部屋ですか?」
握手が終わると、ミュールがたずねた。するとヤノさんは少々あわてた様子で手を打った。
「そうそう、そうなのよ。そろそろお茶をお持ちしないと。ちょうど準備をしていたところにあなたたちが来たものだから。あの方ってば時間に正確だから、遅れてしまうと大変だわ」
そういい残すと先ほどでてきた扉の奥へ引っこんでいく。そして程なくしてティーポットとカップをのせたお盆を持ってまた現れた。
「ほらほら、あなたたちの分も用意したから、いっしょにおいでなさいな」
ヤノさんは階段を先立って上っていく。智浩はその様子をまじまじと見てしまい、ミュールに小突かれた。
「ちょっと、失礼よ」
「あれは、尻尾か?」
ヤノさんの腰はロングスカートに隠されているが、腰の部分が不自然に盛り上がっているように見える。
「まだいってる」
「驚かないように先に聞いておきたいんだが、君のお師匠さまは人間なのか?」
「もう、お師匠さまは人間です」
ミュールはあきれた顔でそう答えたあと、つと視線をそらせた。
「どうした? なにかあるなら、先にいっておいてくれ」
「あ、そうじゃないのよ」
ミュールは否定したが、その笑顔はぎこちない。
それは久方ぶりに恩師に会うというわりには、どうにも腑に落ちない態度だと智浩には感じられた。純粋に敬愛しているというようには見えない。
──屋敷の中でいたずらされるんじゃないかって心配で──。
唐突にゲイロンの言葉が思い出された。