(2)
ミュールの師匠の屋敷へとむかうのは、智浩とミュールのふたり──ゲイロンとポルカを数に入れるならふたりと二頭である。
「ポルカは乗りやすい馬だけれど、おじさんはまだなれていないし、いそがず行くからどうしても途中で一度野宿をすることになるけれど、大丈夫かな?」
「まあ、一晩くらいなら何とかなるだろう」
智浩はそう答えたものの、内心は不安もあった。そもそもインドア派の智浩は、キャンプの経験はほとんどない。
ゲイロンとポルカの鞍には旅の荷物もいくらか積まれてはいたが、大きなものではない。すくなくともテントや寝袋はついていなさそうだ。さて、どうやって眠るのだろうか?
ミュールは旅慣れているようなのでまかせておけば大丈夫だろうが、やはり年長者としてはあまり頼りない姿は見せたくないとも思うのだ。
「あ、そうそう。これを渡しておくわね」
そういってミュールが智浩にいくつかのものを差し出した。
まっさきに智浩の目についたのは、朱色のさやに収められた短剣だった。これといって装飾も入っていないシンプルなデザインだが、さやの大きさから推定すると刃渡り二十センチはありそうだ。
「これを、持ち歩けと?」
さすがに智浩は躊躇した。智浩は結婚前には料理もしていたから、包丁を握ったことならあるが、包丁を持ち歩いたことはない。
「べつにこれで戦えっていうんじゃないから。護身用だと思って。それに、野宿のときに枯れ枝をちょうどいい大きさの薪にしたりとか、けっこう役に立つのよ」
そういって押しつけられるように渡されたが、想像以上にずしりとした存在感がある。包丁とは比べものにならない。
ミュールにいわれたとおりに上衣とベルトの隙間に押し込んだものの、なんとも落ち着かない気分だった。
ほかには、手のひらに乗る大きさの巾着袋に、肩に掛けられるひものついた大きめの袋。
「これはお財布ね。ちょっとしか入ってないけど、基本的にお金の支払いはわたしがするから心配しないで」
ちいさな巾着袋をのぞいてみると、銀貨と銅貨が数枚ずつ入っていた。
「あと、これはポルカに持たせてもよかったんだけど──」
大きな袋に入っていたのは、智浩がこの世界へ着たときに身につけていた服の一式だった。
長旅ではないので、馬の鞍にはまだ余裕がある。しかし、智浩にはミュールがわざわざ気を使ってくれたのだと理解できた。
なにしろ財布も持たずにこの世界へととばされた智浩にとって、この服が元の世界へのつながりを感じられる唯一の所持品なのだ。
「いや、ありがとう」
「さあ勇者様、こいつを着てください。目的地はここからさらに北ですからね」
ミュールから荷物を受け取ったと思ったら、今度は男たちのひとりが智浩に、毛皮でできた外套、帽子、そしてブーツを持ってきた。
「お師匠さまのお屋敷は山奥で結構冷えるから、覚悟しておいてね」
そういうミュールも智浩のものと同じように外套や帽子を身につけている。外套の中は昨日までと同様、巫女服のような独特の上衣にミニスカートだが、よくみれば昨日までさらしていた生脚は白いタイツで隠されていた。
「かなり寒いのか?」
昨日聞いた話では、いまは季節的には夏を過ぎたあたりだという。しかし智浩からしたらこのリボーテの街でさえけっこう寒い。(なので毛皮のブーツを渡されたときは内心ほっとしたのだ。足の指がでる編み込みサンダルは彼にはつらいものがあった)
「本格的に寒くなれば雪も降るわよ。今の時期ならよほどのことがなければ降らないと思うけど」
「そうか……」
毎日空調のきいた部屋で仕事をしていた智浩は、暑いのも寒いのも得意ではない。わざわざ契約書を作るためだけに、そんなところへわざわざいくのかと思うと、自然と外套のひもを結ぶ手もゆっくりになる。
「あ、でもお師匠さまの屋敷には大きなお風呂があるわよ」
「なに、本当か?」
しかし、ミュールのひとことで智浩の目が輝いた。
なにしろこの街には風呂がなかったのだ。いやあるにはあるのだが、それは智浩からいわせれば風呂と呼べる代物ではなかった。
昨日宿屋のおかみであるリーニャに風呂に入りたいと訴えたところ、物置から大きな木の桶を引っ張りだしてきた。どうするのかと思ったら、それにお湯を注いでそこにつかれというのだ。しかもかこいもなにもない、食堂の裏の空き地で、である。
どうやらこの街の住民は風呂にはいるという習慣がないのだった。リーニャに聞いた話では、男は川に行って水浴びをすることもあるが、基本は身体をしめらせた布で拭くくらいで、お湯につかるのは病気のときだけなのだという。
「身体をつからせるほどお湯を沸かすとなると、費用もバカにならないしねえ。ああ、もちろんあんたはそんなこと気にせず好きにしたらいいんだよ!」
リーニャはそう笑い飛ばしたあと、「ごゆっくり」とその場を去っていったが、智浩からすればどこから見られているかもわからない場所でゆっくりできるはずもなかった。
そんな有様だったから、屋敷にちゃんとした風呂があるというのはなによりもうれしい情報だったのだ。
「ちかくの温泉から直接引いてるのよ」
なんと、源泉掛け流しである。
「そうか、それは楽しみだな」
「トモヒロの世界のひとって、お風呂が大好きなのね。そういえば、コーイチもここにいる間、毎日入ってたわ」
「……あの桶にか?」
「そうよ」
身なりが気になり出す年頃とはいえ、あそこで毎日裸で桶につかるのはなかなか根性のいることのように感じられた。
「私にはムリだなあ……」
智浩はほんのすこし、息子を見直したのだった。
「じゃあ、元気でね。魔女退治が片づいたら、元の世界に帰る前に一度はうちへよるんだよ。今度こそ、リーニャおばさんの名物料理を食べさせてあげるからね!」
リーニャのそんな言葉と、多くの住民の激励に見送られて、智浩とミュールはリボーテの街をあとにした。
道を知っているゲイロンとミュールが先行し、そのあとをポルカと智浩がついていく格好だ。
「勇者さま。乗りづらくはありませんか?」
「ああ、大丈夫だ」
ポルカはたびたび首を巡らせては智浩の様子をうかがっている。乗馬初心者の智浩が疲れないように気を使ってくれているのだ。智浩は目的地への道のりも知らないが、それもポルカが自分で先行するミュールとゲイロンを追ってくれるので、手綱こそ握ってはいるものの、本当にただ座っているだけでよかった。動物と意志疎通ができるというのは便利なものだと智浩は感心していた。
「こら、ゲイロン! 駆け足にしたらうしろがついてこれないでしょ!」
「せっかく街の外なんだから、思いっきり駆けまわりたいだろ。それにこんなゆっくりじゃいつまでたってもつかないぜぇ?」
気がつけばずいぶんと先に行ってしまっているミュールとゲイロンのそんなやりとりが風に乗って聞こえてきた。
──結局は性格によるのかもな。
ゲイロン相手では、言葉が通じたところでいうことをきかせるのも苦労しそうだった。
「ポルカ、もうすこし急いでもいいぞ」
「でも、揺れますよ?」
「だいぶなれたから、すこしくらいなら平気だろう」
智浩がそういうと、ポルカはわかりましたと返事をして、ペースを並足から早足に切り替えた。
彼女の言葉どおり揺れが強くなったが、耐えられないほどではない。ゆりかごのようだ、とまではいかないにしても、先日乗ったゲイロンの背中の上とは雲泥の差だ。
すでにリボーテの街は振り返っても視界に入らなくなり、農地も抜けた。智浩たちの進む、馬車二台がやっとすれちがえるほどの幅しかない道をのぞけば、まったく人の手のはいっていない草原が広がるばかりだ。進む道のはるか先には岩山がそびえるのが見え、その裾は森に覆われている。
ポルカがゲイロンたちに追いついたのは、草原が切れ、道が森の中へと続いているのが見えるようになったころだった。
「おせーぞ、こら」
「あんたがはやいのよ、もう。おじさん、身体は大丈夫?」
悪態をつくゲイロンを制しながら、ミュールがたずねた。
「ああ、これくらいならいい運動だ」
ここまで智浩の感覚では二、三時間ほどだが、実際には身体の節々がすでに痛みだしていた。ポルカのおかげでずいぶん乗りやすいはずだが、それでもただ座っているだけというのとは違う。
そういえば乗馬はオリンピック競技だったな、と思い出しながら、スポーツ扱いされる所以を身体で理解しているところだった。
だが、大人の男としてそうそう弱音は吐けない。意識して背筋を伸ばしながら、疲労を悟られまいとした。
「そう? それならよかった」
ミュールのほうは本当に馬には乗りなれているらしく、まったく疲れた様子は見えない。
「森に入ったらだんだん道が悪くなってくるけど、その様子なら平気かな。もうすこし行ったさきに水場があるの。今日はそこまで行って野宿しましょう」
(たしか、最初の日にもこんなことがあったな……)
どうやら、ミュールの「もうすこし」という言葉は信用してはいけないらしい。
森に入ると急激に道幅は細く、傾斜もきつくなった。
それだけでも智浩には堪えたが、結局水場があるところまでたどり着くには、森に入るまでとほとんど同じ時間、馬にしがみついていなければならなかったのだ。
疲労困憊の智浩は、ようやくたどり着いて馬から降りようとなったころには下半身がすっかり固まってしまっていて、あぶみからうまく足を抜けずにあやうく転げ落ちるところだった。
「きつかったんなら、いってくれればいいのに……」
「面目ない」
ミュールは口をとがらせながらも、智浩の足をマッサージしてくれた。外套を敷いた上に智浩を寝ころばせて、智浩の足を引っ張ったり押したりしてくれている。
「申し訳ありません、勇者さま。私が気づくべきでしたのに」
その脇でポルカも顔を寄せている。ひとりほったらかしのゲイロンはすこし離れた場所で桶の中に顔をつっこんで、汲まれた水を飲んでいた。
「いやあ、私が意地を張りすぎたのさ。あいたた」
「はい、あんまりやりすぎるのもよくないから、こんなものね」
ミュールが身体をはなすと、智浩は起きあがって礼を言った。
「ああ、すまない」
「さて、と」
ミュールは腰をまわして身体をほぐす仕草をした。
「わたし、ちょっと森の中をみてくるね。今の時期だと木の実とか果物とか、あると思うから。トモヒロは、火をおこしてくれる?」
いわれて智浩はきょとんとした。
「どうやって?」
「どうやって、って……魔法を使ってに決まってるじゃない」
「あ……そうか」
木の棒を板にこすりつけて火をつけている映像を頭に浮かべていた──もちろんおぼろげに覚えているだけで、自分で再現できるわけではない──智浩は、ミュールにいわれてはじめて自分の力がそうしたことにも使えるのだと思い至った。
「枯れ枝を集めて薪にすれば、智浩の力ならすぐに火がつくわ。むしろ威力を調整して、薪を吹き飛ばさないようにしてね」