(1)
智浩がこの世界へときて二日が過ぎ、三日目の朝をむかえた。
「くぁっ……」
伸びをしながらベッドから抜け出す。暗い足下に注意しながら窓際まで行き、窓を覆っている木の板を上げる。朝の太陽の光がさしこみ、室内が一気に明るくなった。
同時にさわやかな風も入ってくるが、少々ひんやりとしている。智浩は身体をぶるりとふるわせると着替えをはじめた。
寝間着としてきていた服も、これから着る服も、智浩がこの世界にきたときに身につけていた衣服ではない。それだと目立って仕方がないので、住民から服をゆずりうけたのだった。街の救世主となった智浩に衣服を提供したいという申し出は数多く、しかしそんなにたくさんもらっても仕方がないので受け取ったのはひと揃いだけである。しかし、彼ら住民のもちものとしてはかなり上等な服を提供されたのだということは智浩にも理解できた。
なめらかな毛織りの肌着の上に、こちらはややごわごわとした手触りだが、頑丈で動きやすいつくりのズボンをはいて、腰ひもを締める。そして胸元がV字に開いたシャツを着るのだが、これは胴回りがかなりゆったりしたもので、その上からベルトでまた締める。丈も太ももにかかるあたりまであるため、ワンピースのスカートをはいているようで、智浩はすこし落ち着かない気持ちになる。
さらにしっかりと編み込まれたサンダルをはけば、着替えは完了だ。
身体を回しながらおかしなところはないか確認する。鏡がないので、限界はあるのだが。
(なにしろ昨日はずいぶんと恥をかかされたからな)
智浩がこの服を最初に着たときの失態を思いだしていると、入り口のドアがノックされた。
「おじさん、起きてる?」
ミュールの声だった。
「ああ」
智浩が返事をするとき少しだけドアが開き、足が差しこまれた。両手にものを持ったミュールが、足と肩でドアを開けながら中に入ってくる。
「行儀が悪いな」
智浩が苦言を呈すると、ミュールはふくれた。
「手がふさがってるんだもん、しょうがないじゃない」
「入る前にそういえば、私が開ける」
「……なるほど」
ミュールが持ってきたのは水の入った桶だった。
「はい、顔を洗ってね」
智浩はミュールに礼を言ってから、両手を水の中に差し入れる。風も冷たいが、水も冷たい。ここリボーテはそこそこ標高が高いらしく、朝晩は冷えこむのだ。
「歯は磨く?」
「……ああ」
次にミュールが渡してくれたのは、少量の塩が入った包みと木の枝だった。
「まあ、しないよりはましだろう」
智浩は木の枝を桶の水で洗うと、塩をつけ、口に差し込んだ。
この世界には智浩が普段使っていたような、毛先の形状にこだわった歯ブラシは当然ないし、歯磨き粉なんてものもない。さきっぽの繊維がほぐれていくらかブラシっぽくなった木の枝と塩で歯を磨くのだ。
昨日はじめて渡されたときはバカにされているのかと思ったが、ミュールもリーニャも、実際これで歯を磨いていた。ほかの手段としては指に塩をつけてこするか、なにもしないかだ。
奥歯までまんべんなく木の枝でこすり、口をゆすぐ。すっきりともさっぱりともしないが、無い物ねだりをしても仕方がない。
本当ならひげも剃りたいのだが、もちろん安全カミソリもシェービングクリームもここにはない。昨日、念のために町の住民はどうしているのかとたずねたら、ある程度のばしてからはさみで整えるか、剃りたいひとはとなりの街までいって理髪師に頼むのだという。もちろん、簡単に行き帰りができる距離ではないので、何かの用事のついでということになるが。
「この街には理髪師がいないのよ。どうしてもっていうならわたしがやってあげようか? 自信ないけど」
ミュールの申し出は丁重に断った。会社人としては毎日剃りたいがこれも仕方がないだろう。
「それにしても、ずいぶんかいがいしく面倒を見てくれるが、君はここの従業員というわけじゃないのだろう?」
智浩が昨日今日と夜を明かしたこの部屋は、リーニャの食堂の二階だった。もともと宿屋も兼業しているのだという。
じつはミュールもこの宿の別の部屋に泊まっているのだ。彼女はもともとこの街の出身だが、すでに家族はおらず、召喚師になる修行のために街をでた際に家を引き払ってしまったため、もうこの街に彼女の家はないのだという。
「もちろん違うわよ。私だって一応お客さんなんだから。とはいっても、おかみさんは私がちいさい頃からよく知っているひとだから、あんまりそんな感じでもないけど……おじさんの面倒を見るのは、そういう決まりがあるからなの」
「決まり?」
「異世界人を召喚したら、その面倒は原則として召喚師が自分でみるの。無事に元の世界に返してあげられるまでね。ほとんど無理矢理呼びつけて協力してもらう以上、できるかぎり不自由を感じさせることがないようにって、契約書に必ず書かれる条項なのよ」
「契約書、ねえ」
そんなところだけ、みょうに会社的である。
「さあ、下に行きましょう。おかみさんが朝食を用意してくれているから。詳しい話もそこでするわ」
水桶などをまた両手に抱えてミュールが立ち上がった。そのままドアへむかおうとするが、ふと気がついて智宏をふりかえる。
「今日は服、ちゃんと着られたみたいね」
「おかげさまでな。なにしろ昨日は──」
いいかけて、智浩は口をつぐんだ。
昨日試しに着たときは腰帯が上すぎるといわれたのだ。ミュールが苦笑いしながら締めなおしてあげるといい、腰帯をほどいたとき、その下のズボンがすとんと落ちてしまった。ひもの締め方がゆるかったのだ。
腰帯を締め直そうとしていたミュールの顔はちょうど智浩の股の高さにあった。
もちろん下着をつけていたから現物をみられたわけではないが、ミュールは赤面して顔を逸らしてしまい、周りにいたリーニャや住民たちは大笑い。とんだ赤っ恥だった。
ふたりとも思わずその光景を頭に浮かべてしまい、そのときのように赤面した。
「と、とにかくいきましょう」
「あ、ああ」
なんとも微妙な空気のまま、ふたりは部屋をあとにした。
「正式な契約を交わすために、街をでる?」
「そう。ここには契約書を作成できるひとはいないから」
一階の食堂で食事をしながら、ミュールは智浩に今後の予定を語った。
ちなみに、食事ははじめて智浩がここを訪れたときに出されたのとおなじ、塩味のみの豆スープだった。干し肉も入っていない。アーロの肉はかなりの量があったはずだが、あの祝宴でほとんど食べ尽くされ、残った分も昨日一日ですべて住民たちの胃袋に消えていた。
封鎖が解除されたとはいえ、近くの街まではただ行くだけでも一日がかり。枯渇していた物資が届くにはすくなくともあと一日は必要だった。それまでは我慢を続けなければならない。
とはいえそれもあとすこしのことだ。終わりが見えていれば、我慢もさして苦にはならない。住民たちにもう陰鬱な空気は流れていなかった。
さて、ミュールの説明によると、現段階では智浩がミュールに協力して魔女を退治するという約束はいわば仮契約の段階で、正式な契約を交わすためにはある場所へ行かなければならないという。
その場所とは、ここよりもさらに北の山奥にあるというミュールの師匠が暮らす屋敷とのことだった。
「正式な契約を交わしたら、ペルメリカ王国の首都であるグルエンの街へ行って、そこで魔女の情報を集めようと思うの」
「シトラはいいのか? あいつの根城はこのあたりなんだろう?」
「アーロをやられて、しばらくはおとなしくしてると思うわ。それよりも、ほかの魔女たちはいまどこにいて、なにをしているのか。この街に閉じこめられている間、そうした情報はほとんど手には入らなかったから」
そこまでいって、ミュールはふと心配そうに智浩をみた。
「やっぱり、コーイチが気になる?」
シトラを放置するということは、そのそばにいる浩一のことも後回しにするということになる。
「いや……」すこし考えてから、智浩はいった。「たしかに、ほかの魔女のことは私はなにも知らないし、そのほうがいいのだろうな。どうも浩一は尻に敷かれているように見えたし、魔女のほうがおとなしくしている間はあいつも同じだろう」
「あはは……」
ミュールもふたりの関係を思い返して苦笑した。
「それで、その師匠の屋敷というのはどうやって行くんだ? さっきの話しぶりだと、けっこう距離があるようだが」
「歩いても行けなくはないけど、何日もかかってしまうから、馬を使うわ」
「馬、か……」
智浩はげんなりとした。この世界に来て、馬にはいい思い出がない。
「大丈夫よ。ゲイロンのほかにも、馬はいるから」
ミュールも智浩の表情の意味をすぐに察知したようだった。
「街のひとたちが旅支度を整えてくれているから、もうすこししたら厩舎へ行きましょう。おじさんの相棒を紹介してあげる」
食事を終えたふたりが食堂の裏手にある厩舎へ向かうと、数人の男たちが出迎えた。おととい、ミュールへ魔女シトラの襲撃を告げにきた若者アレクのほか、あのとき見張り台の上で顔を合わせた覚えのある男もいる。
「やあ勇者さま、お待ちしてましたよ!」
男のひとりがにこやかにそう挨拶してきたので、智浩は困ってしまう。
「あの、昨日もいったのだが……その呼び方は恥ずかしいのでやめてもらえないだろうか」
「へえ?」
智浩が街に来たときは露骨に警戒していた住民たちは、シトラを撃退したあと態度を一変させた。それは仕方のないことだと智浩も思う。
しかし、祝宴明けの昨日から住民のほとんどが智浩のことを「勇者様」と呼ぶようになってしまったのだ。
どうやら、異世界から来て魔女退治をするものは伝統的にそう呼ばれているらしいのだが、智浩からすれば恥ずかしいことこの上なかった。
そこで昨日から何度も普通に呼んでくれといっているのだが、聞き入れられた試しはなかった。
「そうはおっしゃいましてもねえ。じゃあ、救世主様、にします? 英雄様、とか。──でもやっぱり勇者様ってのがいちばん響きがいいんじゃないかと思いますがねえ」
「そういうことではないのだが……」
結局、ここでも智浩の主張は受け入れられることはなかった。
「セランさん、馬の支度はできてますか?」
「おっと、そうだった」
ミュールにうながされて、セランと呼ばれた男はぽんと手を打ち、奥へと引っ込んでいってしまった。
「ひょっとして、私はこれから行く先々であんな風に呼ばれるのか?」
「場合によってはね。実際ここでは大活躍したんだし、悪い気分じゃないでしょ?」
「うーん……」
たしかに気分を害されるわけではないが、圧倒的に恥ずかしさのほうが勝っているように感じられた。
やがて、セランが戻ってきた。その後ろから二頭の馬がゆっくりついてくる。智浩はこれまで馬の顔を覚えようとしたことはなかったが、大きいほうの馬がゲイロンであることは雰囲気でわかった。
「よう、大活躍だったらしいじゃねえか」
ゲイロンは智浩の前まで来ると、おもしろくもなさそうにそういった。智浩はそれには答えず、ミュールのほうを見た。
「──こいつのほかにも馬はいる、といっていなかったか?」
「ゲイロンにはわたしが乗るの。なんだかんだで、一番乗りなれてるからね」
ミュールがいうと、ゲイロンがぶひひひんといなないた。
「ミュールぅ、俺だっておまえがいちばんだぜぇ。でもどうせなら背中じゃなくって腹のほうに乗ってほしいのにさあ」
「だまってて。……おじさんが乗るのはこのコ。身体がちいさいし、ゲイロンみたいに乱暴に走ったりしないから安心よ」
ゲイロンの下ネタをぴしゃりとさえぎったミュールに手招きされて、もう一頭の馬がとことこと前にでてきた。ミュールのいうとおり馬にしてはずいぶん身体がちいさく、耳が大きいのでロバのようにも見える。
「名前はポルカよ。ポルカ、この人がトモヒロ。これからしばらく一緒だからね」
ポルカは、その目立つ耳をぱたぱたさせながら、つぶらな黒い瞳で智浩を見た。それから目を伏せて、人がおじぎをするようにおもむろに頭を下げた。
「よろしくお願いします、勇者さま」
「あ、ああ……」
ゲイロンを見ているので、ポルカがしゃべったことについてはもう驚くことではなかったが、ゲイロンとは違って礼儀正しい仕草に智浩は少々面食らった。
「ポルカは、ゲイロンのお嫁さんなのよ」
「えっ!」
ミュールがそういったので、智浩は今度こそ声を上げて驚く。
「へん、馬なんか嫁にしたってうれしくねえや。おっさん、ほしいならあんたにやるよ」
「──あんなことをいっているが」
「いまは発情期じゃないからね。発情期がくれば、ちゃんと子づくりするのよ」
「そ、そうなのか」
「俺がほんとに子づくりしたいのはミュールなのによぅ。春がくるとなんかこう普段と違う感情が沸き上がってきて、雌馬なんぞにムラムラしちまうんだよ。ああ、種族の壁がうらめしいぜ。本当なら俺のこのたくましい××でミュールのちいさな──」
「ゲイロン」
すっかり暴走をはじめたゲイロンを止めたのは、ポルカの静かなひとことだった。
「な、なんだよ」
ポルカはそれ以上何もいわず、ゲイロンを見つめているだけ。
だが、結局ゲイロンは圧力に負けたようにそっぽをむいてしまった。
「あんなこといっても、ゲイロンはポルカに頭が上がらないのよ」
ミュールが智浩にそっと耳打ちする。
結局ゲイロンは、ポルカが最後まで何もいわずに目をはなすまでそうしていた。
やはり、どの種族でも女が強いのは変わらないのである。
お読みいただきありがとうございます。
さて二章ですが、この章では魔女はあまり(というか、ほとんど)出てきません。智浩とミュールのやり取りがメインです。
もともと独立した章というよりは、幕間的な位置づけにしようかと思っていたのですが……。例によって長くなってしまいましたので……。
馬の話とか、書かなきゃいいんですけどね。でも書かずにいられないのです。
飽きられないうちにお話を動かさなくては。
ご意見、ご感想ありましたらぜひお聞かせください。