(1)
早乙女智浩は、いま、必死に走っている。
決して運動会の最中でもなければ、陸上の選手というわけでもない。むしろ、智浩は運動とは縁遠い生活を長く続けていた。
智浩は、追われていた。
理由などわからない。相手は智浩を視界に入れるなり、その牙を剥き出しにしてこちらを追いかけ始めたのだ。
「いったい、なんだって、いうんだ!」
理不尽さのあまり叫び、背後を確認する。
当然、そいつはまだ智浩の背後にいて、巨大なふたつの瞳をらんらんと輝かせてこちらへ迫ってきていた。
人間ではない。
大きく裂けた口と、そこに整然とならぶ鋭い牙。見るからに強靱な後ろ肢と、それに比べればだいぶ華奢な前肢。そして全身をおおう緑色のうろこ。
智浩の知識からすれば、それは恐竜と呼ばれるものに相違なかった。
全長三メートルほどで、恐竜なのだとすればその中ではちいさな部類だが、一七三センチメートルと日本人の平均身長ほどの背丈しかない智浩とくらべれば、倍近くはあるということである。
それが、さきほどから智浩に迫ってきているのだ。
「ひいっ!」
悲鳴を上げて、また正面をむく。彼の両足はだいぶ前からしきりに限界を訴えていたが、足を止めるわけにはいかない。
──これは夢か?なんだって私がこんな目に!
もはや叫ぶこともできない。すっかり顎があがってしまい、いくら息を吸っても酸素を取りこめた気がしない。
──そもそも、ここはどこだ?
智浩が走っているのは車一台がやっと通れそうな狭い道で、しかもまったく舗装されておらず、両側は森が広がっている。どこかの山奥だろうか? しかし、彼は直前まで自分の住むマンションにいたはずだった。
もう何年も旅行すらしていなかった彼には、こんな風景は記憶にすらないものだったのだ。
「うわっ!」
ついに足がもつれ、智浩はその場に突っ伏した。立ち上がろうにも、一度動くのを止めてしまった足はもう言うことを聞いてくれない。
振り向けば、恐竜がもうすぐそこまで迫ってきている。智浩がもう逃げられないと悟って走るのをやめ、一歩一歩ゆっくりとこちらへ迫ってきていた。
──呪文を、唱えて。
「?」
唐突に頭の中に声が響き、智浩はあたりを見回した。
だが、目の前に迫る恐竜のほかには誰の姿も見えない。
──私の言葉に続いて? em,avia,qian……。
透明感のある若い女性の声。はっきりとした指示の言葉に続いて、よくわからない、それこそ「呪文」というべきことばが続けられる。
見ず知らずの世界、突如おそいくる怪物、そして頭にひびく女性の声──。
もしも智浩が夢と想像に満ちた子供であったなら、理解できないまでも女性の声に従っていたかもしれない。
だが残念なことに、早乙女智浩は今年四十六歳になる中年だった。
「くっ、これはなんだ、幻覚、幻聴か?」
智浩は頭を振って、自らの意識をはっきりさせようとする。
望安濃商事で勤続二十四年、経理事務のエキスパートとして紙の台帳からパソコンへの切り替わりにも対応してきた経験豊富な社会人。
しかしそうして積み上げられた経験は、えてして想定外の事態に対する柔軟性というものを、知らず知らず削り取ってしまうものなのだ。
彼の常識では、気がついたら見知らぬ森の中にいるなどということも、映画か博物館の中にしかいないような恐竜におそわれることも、頭の中に直接声が響いてくるなどいうことも、まったくもってあり得ないことなのだった。
──落ち着いて、私の言葉を聞いて?
当然、首を振ったくらいで目の前の怪物が消え去るはずもなく、女性も頭の中で智浩を呼びかけつづけている。
「私は、どうしたんだ? 死ぬ間際になって、おかしくなってしまったのか?」
──ちょっと、いいから呪文を! 聞いてる?
そうこうしている間にも恐竜は近づいてきており、頭に響く女性の声からもこころなしか焦りが感じられる。
「呪文ってなんだ! 私は、そ、そんなもの知らないぞ!」
──だから、今言ってるじゃない! em,avia,qian,annu! ほら!
女性の声も当初の落ち着いたものからはほど遠くなり、智浩を怒鳴りつけるようなものになっている。
だが、智浩はそれすらわからないほど、完全に我を失っていた。
「くそっ、これは夢だ、夢に決まってる!」
──ねぇ、ほんとに言わないと、まずいんだって、ねぇってば!
「目を閉じろ、そうすれば、すぐにこんな夢──」
眼前に迫る恐竜の迫力に、歯を震わせながら智浩は目を閉じる。
──ちょっと、だめ! そんなことしないで、呪文を唱えて!
頭に響く声も大慌てだ。
「そして目を開ければ、元のマンションに──」
智浩が目を開く。
だがやはり、そこは先ほどまで自分がいたはずの見慣れたマンションの一室などではなく、森に囲まれた道の途上。
そして、眼前にはばっくりと開かれた恐竜の顎が、今まさに智浩の頭部にかぶりつこうとしていた。
「うわーっ!」
──きゃーっ!
智浩だけでなく、頭の中の声まで叫んだ。
そして、智浩の視界が真っ赤に染まった──。
「な、なんだ……」
智浩は呆然と、目の前の光景を眺めている。
視界が赤く染まったのは、彼の頭蓋が砕かれたからではなかった。
今まさにそうせんと、口腔をいっぱいに広げて見せていた目の前の恐竜は、しかしその口を閉じることがなかった。
恐竜は、燃えていた。
比喩ではなく、文字通りその全身から炎を吹き出していたのである。それが智浩の視界を染めていたのだった。
どうしてそうなったのかなど智浩には知る由もないが、とにかく恐竜が自分の意志でそうしたのでないことは明白だった。
智浩が尻を引きずりながら恐竜の口から離れるのとほぼ同時に、それはゆらめくようにして崩れ落ち、そのまま息絶えたのである。
恐竜は倒れた後も燃え続ける。頑丈そうに見えた緑色のうろこもあえなく焼け焦げ、全身がほぼ炭となった頃、ようやく鎮火した。
「た、助かった……」
智浩は恐竜が完全に動かなくなったのを確認すると、大きく息をついた。
そして、尻についた土を払い落としながら腰を上げる。
人生で初めてではないかと思うほどの距離を全力疾走したため、膝がわらってなかなかいうことを聞かなかったが、それでもなんとか立ち上がることに成功した。
それから、改めて辺りを見回す。
気持ちが落ち着いても、そこはやはり智浩の記憶にはない場所だった。どうやってここに来たのかも思い出せない。
今日の行動をいちから思い出してみる。今日は会社が休みだったので、起きたのは午前九時過ぎだった。それから軽い朝食をとって、そして……。
その思索を中断したのは、草を掻きわけるがさがさという音だった。
──もしかして、恐竜の仲間がいたのか?
智浩の背筋が寒くなる。再び逃げ出そうにも、足は限界だ。長い距離を逃げるのは不可能だった。
音は森の中から聞こえてくる。さっきのとは別の生き物だろうか?
智浩は動くに動けず、音のする方を注視した。
やがて、現れたのは──。
「あれっ、大人の人だ?」
人間だった。
若い、というよりも智浩の感覚からすると幼いといったほうがしっくり来る女性だ。
──息子と同じくらいだな。
智浩には妻との間にひとり息子がいる。今年十四歳になる息子の浩一の姿が頭に浮かんだ。
少女はとくに警戒する様子もなく、智浩のことを眺めまわしている。無遠慮な視線に面食らいつつも、とりあえず襲ってくる様子はないので智浩はすこし身体の力を抜いた。
「でも格好からしても、確かにあっちの人だよね」
少女のほうは智浩の観察を終えると、かたわらでまだ煙を上げている恐竜の死骸を見やった。
「うわ、アーロが黒こげに……まさか、呪文もなしで……」
なにやらぶつぶつ言っている少女を、今度は智浩が観察する。
少女は長い金髪を後ろでまとめており、瞳の色も黒ではなく、薄い茶色だ。染めているのでなければ、外国人だろう。だが、独り言も流ちょうな日本語をしゃべっている。両親は外国生まれだが、彼女は日本で生まれ育った。そんなところだろうか。
少女の格好は少々奇抜といえた。前合わせの白い服はところどころ赤いステッチが入っていて、上半身だけを見ると神社にいる巫女の格好のようにも見える。
だが、履いているのは袴ではなく、膝上の結構きわどいミニスカートだった。足下は素足にサンダル履きだ。
──最近の中学生は、こんな格好をするのか?
ふだん街で見かける子供たちの服装はここまで突飛でもなかったと思い、智浩ははたして声をかけていいものか、とすこし戸惑った。
だが、今の智浩はまさに、右も左もわからない状況である。ここがどこであれ、自宅に帰らなければならない。どっちに向かえば街へ出られるかくらいは教えてもらえるだろう。
「君、すまないが……」
「あなた! どうして人の忠告を無視したの?」
智浩の声は少女の怒声にかき消されてしまった。
「忠告? なんの話だ」
「さっき襲われてたときの話。わたしのいうとおりにしていればあんな危ない目に遭う必要なかったのに」
智浩はそう言われてはじめて、さきほど頭の中に響いていた声が彼女のものと一致していることに気がついた。
「あれは、君の声だったのか?」
「そうよ」
頭の中に直接響いているように感じたが、実際には彼女が近くにいて叫んでいたということだろうか。
「あそこまで言うことを聞いてもらえないなんて思わなかったわ!」
智浩は少女がなんと叫んでいたか思いだそうとした。細部は思い出せないが、呪文がどうとか言っていたように思える。
──助かるように祈れ、という意味だったのだろうか?
あの状況で祈ったところで助かるとも思えなかったが、智浩は謝罪することにした。彼女が自分のために叫んでくれたことにはかわりない。
「それはすまなかった。状況が状況だったから、さすがに動転してしまっていてね。──それで、これも君が?」
智浩はすっかり炭化した恐竜の死骸を見やった。
ものの数分でこの有様である。よほど強力な火力だったことは間違いない。
だが、少女は手ぶらだ。この恐竜を燃やした火器はどこかに置いてきたのだろうか。
少女の答えは、智浩にとって意外なものだった。
「なにいってるの。それはあなたが自分でやったのよ」
「──は?」
なかばあきれたような少女の返答に、智浩の目が点になる。
「私が?私はマッチ一本持っていないぞ」
智浩は嫌煙家である。
そのことに対する少女の答えは、智浩にとって全く理解不能だった。
「道具なんか必要じゃないわ。これは魔法。本当は呪文がなければ正しく制御なんかできないんだけど、極限の危機に瀕して例外的に発動したってところかしら」
「まほう?」
智浩は少女の言葉を反芻した。
彼は魔法、という言葉は知っている。その意味も。
だが、それは彼にとって映画や、彼の息子が遊んでいるテレビゲームの中のものだ。
「私は、子供じゃない」
しばらくまばたきを繰り返した後、智浩が口にしたのはそんな言葉だった。
「見ればわかるわ」少女は素っ気なく言ったあと、ため息をついた。「私も、大人の人を召喚するのは初めてだけど」
「しょうかん?」
智浩はまた抑揚なく繰り返した。少女の言葉についていけない。
「そうよ」
少女はうなずいた。それから大きく腕を広げて、言った。
「ここは、あなたの住んでいたのとは異なる世界。あなたはわたしに、この世界へと召喚されたの」
「召喚?」また繰り返した。「何のために?」
少女は智浩の目を真正面からのぞき込んだ。その目は真剣そのものだった。
「勇者として、この世界を救ってもらうために」
お読みいただきありがとうございます。
この作品については、あまり書き溜めをしていないので更新はゆっくりになると思います。
続きを気にしてくださる方は、どうぞ気長にお待ちください。
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