第9話 第一の鍵、青い欠片
朝の食堂は、いつもより少しだけ静かだった。湯気の立つ味噌汁の匂いに、昨日のココアの甘さがまだ混じっている気がして、春花は箸を置きかけて、また持ち直した。
窓の外では、雪が降るのをやめた代わりに、木の枝が重そうにたわんでいる。白い重みが、枝のしなりの音まで鈍くしていた。
「今日は、雪かき当番、だれだっけ」
ノブヤが壁の当番表を見上げて、わざと大げさに首を伸ばした。伸ばしている途中で、額を貼り紙にぶつけ、「いって」と小さく言う。
翔夏子が笑って、ペンで表の下に追記をする。
「頭ぶつけた人、五点減点。……冗談よ」
冗談だと分かっているのに、ノブヤは胸を押さえて椅子にもたれた。
「ここ、点数の亡霊が出る。俺、昨夜から見えるもん」
「亡霊が見えるなら、掃除の手も見えるはず」
智香里が淡々と言う。言ったあと、気づいたように自分のマグを両手で包み、熱で指先を温めた。昨日の紙片のことを、誰も口にしない。言わないまま、みんなは同じ湯気を見ている。
量大は、トレーの上でパンを二回たたいてから、横に置いた小さなノートを開いた。そこには、雪かきの手順だけじゃなく、朝の動きまで箇条書きで並んでいる。
「九時から十分だけ、図書館の整理をしよう。棚の裏、埃がたまりやすい。……えっと、これ、昨日の反省で」
「反省って言い方が、もう面白い」
孝太郎が笑い、量大は一瞬だけ耳まで赤くしてノートを閉じた。閉じる音が、紙の束の厚さを知らせる。
弥風は、パンをかじる手を止めたまま、視線だけを図書館の方向へ向けた。何かを考えるとき、彼はいつも、天井ではなく、遠くの一点を見る。
「整理……今日、やろう。年鑑も、出していい?」
「年鑑?」
春花が聞き返すと、弥風は「うん」と短くうなずいた。説明はその一言だけなのに、孝太郎がすぐに察した顔をする。
「いいよ。俺も手伝う。……鍵になりそうなもの、まだあるかもしれないし」
九時。図書館の暖房は効いているのに、棚の影だけ空気が冷たい。春花は、背の高い書架の間を歩くたび、床板が小さく鳴る音を数えた。数えると落ち着く。落ち着くはずなのに、昨日の「泣くな」が、耳の奥に残っていて、数えた音を一つ飛ばしそうになる。
「これ」
弥風が運んできた年鑑は、想像より重かった。表紙は濃い緑で、角が丸く削れている。春花が手を伸ばすと、弥風は一歩だけ近づけ、そっと机に置いた。置き方が丁寧で、紙への遠慮が見える。
「二十年前の。……時計塔が写ってる年がある」
「また、あの青い線の年?」
翔夏子が覗き込み、弥風は「たぶん」と言った。言い切らないのは、分からないことを分からないまま持っておく癖だ。
棚の裏を拭くのは、ノブヤが担当した。雑巾を振り回し、埃をわざと舞わせては、「ほら、雪より白い」と言って咳き込む。自分でやって自分で苦しんでいるのに、見ていると笑ってしまう。
孝太郎は脚立を押さえながら、春花の足元を見た。春花はいつも、狭いところで一歩遅れる。遅れるとき、目が床の線を探す。
「そこ、段差ないから大丈夫」
孝太郎が言うと、春花は「段差じゃなくて」と言いかけて、口を閉じた。言葉が迷子になりそうなとき、彼女は黙る。黙って、指先を自分の袖口に押し込む。
昼までの整理は、思ったより進んだ。最後に、弥風が年鑑を一冊だけ残して、他を元の箱に戻そうとしたときだった。
「表紙の裏……なんか、浮いてる」
弥風が、言いながら爪を立てないように紙の端を押した。ふわり、と薄い紙が持ち上がる。その下に、小さな欠片が挟まっていた。
青い。深い青。絵の具でもガラスでもない、冷たい色。
春花は、勝手に息が止まった。欠片の青が、昨日見た窓の青白さとは違う。違うのに、胸の奥が同じようにざわつく。ざわつきが、喉の奥まで上がってきて、言葉の出口を塞いだ。
「触ってみる?」
弥風が欠片を指先でつまみ、春花の前に差し出した。春花は反射で手を伸ばし――指先が欠片に触れた瞬間、身体の内側がひゅっと縮んだ。冷たい。冷たさが、ただの温度じゃない。
春花は思わず手を引っ込めた。指先が、自分の掌の中で震えているのが分かった。
「春花?」
孝太郎が名前を呼ぶ。呼び方はいつもと同じなのに、声の奥が少しだけ硬い。
「……ごめん。なんか、いやな感じ」
春花は笑おうとして、笑いの形だけ作った。唇の端が上がる前に、目が逸れた。
翔夏子が欠片を覗き込む。彼女は恐がるより先に、勝ち筋を探す。
「それ、時計塔の鍵の……欠片?」
「欠片って言うと、折れた鍵みたいだけど」
ノブヤが口を挟む。
「でも実際、鍵穴に入ったら、俺、感動して泣くかもしれない」
「泣くのは禁止」
智香里が即答し、言ったあと、昨日の自分を思い出したのか、視線だけを落とした。落とした視線の先で、彼女の手はマグの取っ手を探している。
量大が、年鑑の紙の質を確かめるようにページをめくった。
「挟まってた場所が、表紙裏っていうのが……わざとっぽい。誰かが隠した」
「誰かって、創立者とか?」
翔夏子が言うと、弥風は「可能性」とだけ返す。答えを急がない。急がないけれど、目だけは欠片から離れていない。
孝太郎は、欠片を一度だけ受け取り、手のひらに載せた。彼はすぐ笑った。
「うん、冷たい。……でも、図書館の机も冷たいしな」
軽口に聞こえる。軽い言葉の中に、みんなの肩の力を抜く細い糸が混じっているのが分かる。
春花は、その糸に手を伸ばせずにいた。欠片の青が、糸を切りそうで怖い。
「保管しよう」
孝太郎は続けた。笑ったまま、言葉をきっぱり区切る。
「誰かのポケットに入れて、落としたら終わりだし。……金属のケース、理科室にあったよな」
「ある。薬品の乾燥剤を入れるやつ」
量大がすぐに答える。答える速さが、彼の「順番」を守りたい気持ちを見せる。
「じゃあ、取りに行く。弥風、欠片はそのまま。……触る人は、いまは増やさない」
孝太郎が言い終える前に、春花は自分の手を握りしめていた。触れた指先の感覚が消えない。消えないのに、なぜか、消したくない気持ちもある。矛盾が、胸の中で小さく鳴る。
夜九時。図書館の丸テーブル。ホワイトボードの得点表は、もう七回書き直されて、線が太くなっていた。翔夏子がマーカーのキャップを「かちっ」と鳴らし、今日の語り手を指で示す。
「今日は、弥風」
弥風は年鑑を抱えて、いつもより少しだけ背筋を伸ばした。
「嘘ひとつ、ほんとうひとつ」
孝太郎がいつもの合図を言う。春花の指先が、膝の上で袖口を探した。昨日より震えは小さい。でも、欠片の青を思い出すと、また大きくなりそうだった。
弥風の話は、年鑑の中の一枚の写真から始まった。
「二十年前の卒業写真。時計塔の前で撮ってる。……この年だけ、先生の顔が全員、目を伏せてる」
「え、怖い」
ノブヤが言いながら、怖がり方がうれしそうだ。
弥風は首を振る。
「怖いのは嘘。ほんとうは、逆光で目を開けられなかっただけ」
いきなり暴露して、翔夏子が「ずるい」と笑う。
弥風はページをめくり、表紙裏を示した。
「もう一つ。ここに、青い欠片が挟まってた」
春花の喉がきゅっと鳴った。みんなの視線が、弥風の指先に集まる。弥風は欠片を見せない。見せずに続ける。
「嘘は――俺が、それを見つけた瞬間、勝つって決めたこと」
翔夏子が「うわ」と声を出し、量大がペンを落とした。
弥風は淡々と、でも少しだけ口角を上げる。
「ほんとうは、勝つって言葉が、いまはまだ重い。欠片を見たとき、まず思ったのは……落としたら怒られる、だった」
笑いが起きた。笑いの中に、安心が混じる。欠片が「怖い話」だけにならないように、弥風が先に逃げ道を作ったのが分かった。
孝太郎が手を上げる。
「嘘の場所、そこ? いや、勝つって決めたのが嘘、って言ったけど……本当は、決めてない?」
「決めてない。いまは、決めたふりも、しない」
弥風が答えると、翔夏子が口を尖らせた。
「私は決めてる。勝つ」
言い切ったあと、翔夏子は自分でも笑ってしまい、頬を指で押した。強い言葉の後ろに、照れが隠れている。
採点は、いつもより難しかった。弥風が早めに嘘を明かしたせいで、当てる楽しみがズレる。ズレた分だけ、みんなは欠片のことを本気で考えた。
最後に、孝太郎が得点を書き込み、マーカーの先でホワイトボードを軽く叩く。
「今日は……全員、同点。珍しいな」
「同点って、勝者どうするの」
ノブヤが言うと、孝太郎は肩をすくめた。
「勝者はひとり、って紙が出てくるまでは、ひとりにしない。……今夜は、そういう日でいい」
解散の前に、孝太郎は机の上に小さな金属ケースを置いた。乾いた音がした。量大が持ってきたケースは、手のひらより少し大きく、ふたの留め具が硬い。
孝太郎は弥風から欠片を受け取り、ケースの中にそっと入れた。欠片は底で小さく鳴った。青い音。そんな音がある気がして、春花は息を止めた。
孝太郎はふたを閉め、鍵をかけた。鍵穴に鍵が入る音は、妙に現実的だった。
「保管場所は、俺が決める。……みんなの前で言うと、盗みに来るやつがいたら困るから」
冗談みたいに言う。冗談みたいに言いながら、孝太郎の指先は鍵を握りしめていた。
春花は、ふと自分の指先を見た。さっきから、そこだけ冷たいまま。
孝太郎が、ポケットから小さなカイロを一つ出して、机の端に滑らせた。滑らせ方が、押しつけじゃない。
「……寒いだろ」
春花は一度だけ首を振って、すぐに首を縦に戻した。受け取る動きが遅れて、みんなに見られないよう、袖で手を隠しながらカイロを握った。
温かさが、欠片の冷たさを押し返してくる。押し返してくるのに、青いざわつきは消えない。消えないまま、春花は小さく息を吐いた。
消灯後。孝太郎は自室の机に金属ケースを置き、鍵を外さずに眺めた。笑って平静に「保管」と言った自分の声が、耳の奥で少しだけ遅れて響く。
「大丈夫、大丈夫」
誰にでもなく言って、孝太郎はもう一度だけ、ケースの角を指で撫でた。冷たい金属が、現実を思い出させる。
廊下の向こうで、誰かがスリッパを引きずる音がした。止まって、また動く。迷っている足音。春花の足音かもしれないし、違うかもしれない。
孝太郎は立ち上がりかけて、座り直した。行くのは簡単だ。でも、行って言う言葉がまだ見つからない。
その代わり、机の引き出しからメモ帳を出し、短い一行を書いた。
『青い欠片は、鍵じゃなくて、言葉の重みを増やす道具かもしれない』
書き終えた孝太郎は、破らずにページを閉じた。閉じる音は小さく、雪の重みの外に吸い込まれていった。




