第8話 強い言葉の裏側
旧校舎から戻った廊下は、昼間より暗く、窓の外の雪明かりだけが床を薄く照らしていた。八人の靴底が同じ音を鳴らさないように、伸篤が先に歩幅を落とす。自然と列がほどけ、肩がぶつからない距離が生まれた。
食堂の流しに着くと、翔夏子が蛇口をひねった。水が跳ね、青い粉が指先から流れていく。翔夏子は洗い流しながら、指を見つめて言った。
「消えた。……消えたけど、消えた気がしない」
「指紋の間に住み着いたんだろ。青い粉の寮生」
ノブヤがわざと怖がる声を作ると、量大が即座にメモを取り出した。
「寮生じゃなくて、付着物。洗う回数と水温で落ち方が変わるか、記録して――」
「記録するな。怖いの方向が変わる」
智香里が真顔で切って捨て、次の瞬間、喉を鳴らしてから短く笑った。笑ったのに、肩が少し固い。
孝太郎はその様子を見て、言葉を一度飲み込んでから出した。
「今日は、ここまで。夜九時、図書館。……行ける人だけでいい」
言い切ったあと、あえて付け足す。
「得点表は、逃げない」
それでも、皆の頭のどこかに、鍵穴の青が残っている。春花は手袋の指先を見つめたまま、結び直した靴ひもをもう一度引いた。ほどけていないのに、引く。落ち着くための動きだった。
夜九時。図書館の丸テーブルに、湯気の立つマグカップが二つ、三つと増えていく。弥風は校史のコピーを抱え、翔夏子はホワイトボードに得点欄を引いた。量大は線の幅を見て「一マスが狭い」と言い、ノブヤは「広げると負けそう」と言って笑わせようとする。
孝太郎は集計用のノートを開き、ペン先を揃えた。丸テーブルの真ん中に置かれた砂時計が、かすかに音を立てる。誰が置いたのかは、誰も言わない。
「じゃ、今夜の語り手」
翔夏子が視線を回すと、智香里が椅子を引いた。椅子の脚が床を擦り、いつもより大きく鳴った。わざとじゃない。力が入っただけだ。
智香里は背筋を伸ばし、マグの縁に指を置いたまま言った。
「泣いたら負け。……だから、今日は泣かない」
言い切ってから、深く一回だけ息を吸って吐いた。呼吸の音が、図書館の静けさに溶ける。伸篤が黙って、智香里の前に水の入ったグラスを置いた。置き方がやさしい。音がしない。
孝太郎は、ここで変に励ますと智香里が引っ込むと分かっている。だから、わざと咳払いをした。
「ごほん。……今の宣言、得点に関係ある?」
ノブヤが乗る。
「関係あるよ。泣いたらマイナス百点。笑ったらプラス一。差がデカすぎて、誰も勝てない」
「算数が暴走してる」
量大が突っ込み、春花の口元がふっと緩んだ。智香里の肩の固さが、ほんの少しだけほどける。
智香里は視線を落とし、語り始めた。
「中学のとき。十二月の放課後。私は、教室の窓を開けて、冷たい風を入れた。誰かが泣く声がしたから。……風を入れれば、涙が乾くと思った」
誰も笑わない。笑わせにいかない。智香里の話の入口は、冗談の形をしていない。
「泣いてたのは、私の隣の席の子。名前は言わない。言わないって決めてる。……その子は、家の事情で転校するって言ってた。今日言われて、今日が最後。そんなの、ずるい」
智香里の指が、マグの縁をなぞる。爪が当たって小さく鳴り、彼女はすぐ指を止めた。
「その子が泣いてたから、私は言った。『泣くな。泣いたら負け』って。……言い方は、今と同じ。強い言葉は、便利だから」
春花が息を吸う。便利、という単語が、胸に引っかかった顔をした。
「そしたら、その子は笑った。笑って、泣くのをやめた。私は勝った気がした。自分が強いって、思えた。……でも、その笑いは、教室のドアが閉まったら消えた」
智香里の声が、一瞬だけ細くなる。細くなったのに、無理に太く戻そうとして、喉がつまった。言葉が途切れた。
伸篤が、さっき置いた水のグラスを、指先で少しだけ近づけた。催促じゃない。そこにあるよ、という合図だけ。智香里はグラスを持ち、ひと口飲んだ。飲み終えて、グラスを戻すときの音も、伸篤がそっと受け止めたみたいに小さい。
孝太郎がもう一度、わざとらしい咳払いをする。
「ごほん。……今の、嘘? ほんとう?」
翔夏子が「まだ途中だろ」と眉を上げ、ノブヤが「咳払い、癖になるぞ」と笑わせにかかる。笑いは小さいけれど、灯りみたいに効く。
智香里は、口の端で少しだけ笑ってから続けた。
「私は、その子に手紙を書いた。『ごめん』って。『ありがとう』って。『転校しても、忘れない』って。……でも、渡さなかった。机の中に入れて、帰り道で破った。破って、捨てた」
春花が、机の下で靴先を揺らす。揺らしながら、止めようとして止められない。
「翌週、その子はいなかった。席が空いて、教室が広くなったみたいで、むかついた。私は強い言葉で、自分を守ってたのに、守れてなかった」
ここで、智香里は顔を上げる。目が少し赤い。でも、泣いていない。泣く前に止めた色だ。
「だから今日も言う。泣いたら負け。……ただし、これは嘘も混ぜる。私、あの日――」
智香里は息を吸って、言い切った。
「転校の話を聞いた瞬間、その子の机を蹴った。椅子も倒した。先生に怒鳴られて、廊下に立たされた」
翔夏子が目を丸くする。
「やったの?」
量大が首を傾ける。
「智香里、机が少しずれてたら黙って戻すだろ。蹴る前に、まず椅子を正面にする」
ノブヤが「戻すな、今は倒せ」と突っ込み、孝太郎が「倒したら当番で直す」と返す。笑いが少し大きくなって、空気が温まる。
智香里は、笑いに少しだけ乗りながら、最後を置いた。
「嘘ひとつ、ほんとうひとつ。……どこが嘘か、当てて」
答えの時間。孝太郎は、皆の顔を順に見てから、手を挙げないまま言った。
「机を蹴った、が嘘。……たぶん、智香里は蹴る前に、机の下の埃を見つけて、無言で拭く」
智香里が「何それ」と笑い、翔夏子が「拭くな」と乗る。ノブヤは「私は手紙を破った、が嘘」と言い、春花は迷った末に、ゆっくり言った。
「……嘘は、風を入れた理由。涙を乾かすためじゃなくて、……自分が泣きたかったから」
言った瞬間、春花が自分で驚いた顔をした。根拠はないのに、口が先に動いたみたいだった。
智香里は、春花を見て、いったん視線を落とした。それから、ぽつりと言った。
「……当たり。嘘は、机を蹴ったほう。私は蹴ってない。蹴りたいって思っただけ」
息を吸って、続ける。
「窓を開けたのは、泣く声を消すため。……自分の声が出そうだったから」
図書館の天井灯が、じんわりと明るい。誰も、急に慰めない。慰めない代わりに、孝太郎がノートに丸を付ける音だけがする。
「得点は……春花が一番」
孝太郎が言うと、春花は肩をすくめて、靴ひもをもう一度だけ引いた。
「当てたの、偶然」
「偶然でも当たりは当たり。……悔しい」
翔夏子が悔しがるときの顔は、分かりやすい。悔しさの奥に、安心が混じっている。
その夜は、時計塔の話を誰も持ち出さなかった。代わりに、マグの底に残った甘いココアの話や、雪かきの手順の話をして、笑って解散した。勝ちたい気持ちが消えたわけじゃない。けれど、今は「閉じた扉」より、「渡せなかった手紙」のほうが胸に残る。
消灯後。女子寮の廊下の窓は、雪明かりで青白かった。智香里は一人で窓辺に立ち、ポケットから小さなメモ帳を出した。ペン先が震えないように、深く息を吸って吐く。それから、文字を書いた。
『泣いたら負け、じゃない。泣いても、終わりじゃない』
書き終えた智香里は、紙を破らなかった。破る代わりに、きっちり二回折って、胸ポケットにしまった。窓の外で雪が落ちる音がして、智香里はその音にだけ、ほんの少しだけ目を細めた。




