第6話 春花は初めての廊下で迷う
昼前、雪かきの班が解散になったあと、寮の一階は鍋の匂いで満ちていた。食堂の扉が開くたび、しょうゆと生姜と、白い湯気が廊下へこぼれる。
弥風が「今日の汁は当たり」と言いながら腕時計を見て、量大が自分のノートを閉じる。ノブヤは配膳台の前で順番を守っているふりをしつつ、誰かの皿に唐揚げが多めに乗る瞬間を狙っていた。翔夏子は、その一部始終を見て「堂々と横取りするなら褒める」と笑う。
春花はその輪の外で、紙コップに熱いお茶を二つ注いだ。片方は自分、もう片方は誰かのため。誰かの名前は口に出さないで決めてしまうのが、この数日の自分の癖だった。
トレーを抱えたまま、春花は廊下の端に貼られた避難経路図を見上げる。色の薄い矢印が、食堂から寮の奥へ伸びている。今いる場所は分かる。けれど、その先の曲がり角が、頭の中で一度も同じ形に並ばない。
春花が紙コップを二つにしたのは、理由があった。雪かきの途中、伸篤が黙って差し出してくれた軍手は、指先が妙に温かかった。あのとき「ありがとう」が言えなかった。言えなかった分を、湯気に乗せたかった。
それに、量大は雪かきの手順を配り終えたあとも、食堂の隅でノートを広げていた。消しゴムのかすが白い雪みたいに机に溜まる。孝太郎はその横で、当番表の紙を指でトントンと叩きながら、みんなの動きがぶつからないように線を引いている。誰も「休め」と言わない。言わなくても、動いてしまう。
春花は、その二人の背中に、何かひとつ置いていきたかった。自分の居場所を「ここ」と言う代わりに。
「近道、あるよね」
春花は小声で言って、矢印の先に指を当てた。昨日から何度も通ったはずなのに、廊下の匂いだけが新しい。床のワックスが甘くて、窓の隙間から冷たい空気が細く入る。目を閉じると、自分がどこに立っているのかが、音で分かる気がした。
春花は、トレーを両腕でぎゅっと固定して歩き出した。足音が乾いた廊下に二回、三回と跳ねる。右へ曲がるとき、床が「ぎし」と鳴った。春花はその音を頼りにした。
「……今のは、食堂の近くの音」
根拠はない。けれど、直感が背中を押す。春花はもう一度同じ音を探して、次の角を左へ折れた。
廊下は急に静かになった。食堂のざわめきが遠のき、代わりに古い木の匂いが濃くなる。壁の掲示板には去年の文化祭の写真が貼られている。春花は写真の端を見て、指を止めた。青いにじみが、雪の上で見えた線と同じ色に見えたからだ。
胸の奥が、薄く冷える。春花は視線を外し、歩幅だけを小さくした。
廊下の途中、窓の外に時計塔が見えた。雪をかぶった屋根が白く、影の部分だけが青く沈む。弥風が言っていた「写真の端の青」が、現実の空気にも混じっている気がして、春花は窓ガラスに指先を当てた。冷たさが一瞬で皮膚を奪い、指がきゅっと縮む。
遠くで、どこかの扉が「カタン」と鳴った。自販機の前で聞いた音と同じで、春花の心臓が一拍だけ早くなる。嘘だと笑った話が、廊下の中で実話の顔をする。その変わり目が、春花は少し怖い。
そのとき、背後で小さく靴が擦れた。
振り向くと、伸篤がいた。いつものように言葉はなく、ただ一定の距離を保って、春花の後ろを歩いている。手には何も持っていないのに、そこにいるだけで通路が広くなる。
春花は「ついて来たの?」と聞きたくなった。けれど、声を出すと自分の迷いが確定してしまう気がして、口の中で言葉を丸めた。
春花は方向を変えるために、わざと床板を踏み分けた。きしむ場所、きしみにくい場所。音の地図を作るみたいに。量大の手順書を見たときと同じ気分で、春花は自分の中の順番を並べる。
「一番きしむ方が、厨房の近く。二番目が……」
自分でもおかしくて、唇の端が上がった。背後の伸篤は、笑ってはいない。けれど、春花が肩を落としそうになる瞬間にだけ、ほんの少し歩みを早める。
次の角を曲がると、突然、行き止まりになった。扉が三つ並び、どれも似た色で、取っ手だけが冷たく光っている。
春花は立ち尽くし、トレーの上のお茶が揺れるのを見つめた。湯気が薄くなっていく。
扉の上の札には「用具庫」「職員室」「洗濯室」と書かれていた。
「……食堂って、洗濯の隣だっけ」
思わず漏れた声が、廊下に反響した。自分の声の間抜けさに、春花は笑ってしまう。笑った瞬間、胸の中の張りが切れて、目の奥が熱くなった。笑いと一緒に出てきたのが、悔しさなのか安心なのか、春花にはまだ区別がつかない。
行き止まりの前で、春花は一度だけ深呼吸した。自分に聞かせるために、小さく言う。
「食堂、いますか」
返事はない。もちろん、廊下が返事をするわけがない。なのに、声の反響が思ったよりはっきりして、春花は笑ってしまった。笑いはすぐに喉の奥でしぼんだ。泣きそうな感じが追いかけてくる。
伸篤は、その様子を見ても何も言わない。ただ、春花のトレーの端が傾いた瞬間、指先だけで支えた。触れるか触れないかの距離で、こぼれないように。
伸篤が春花の横に立った。視線だけで札を読み、洗濯室の扉に手をかける。開ける前に春花を見た。問いかけではない、確認でもない。ただ「ここじゃない」と伝える、短い目線。
春花は小さく首を振り、伸篤も同じくらい小さくうなずいた。
そのとき、遠くの角から足音が弾んで近づいてきた。
「春花ー。あれ、ここまで来た?」
孝太郎の声は、迷路の出口みたいに軽かった。孝太郎は廊下の端に姿を見せると、まず春花の手元のトレーを見て、それから顔を見た。
「迷った?」
孝太郎は、笑うでもなく叱るでもなく、いつも通りの調子で言った。だから春花は、言い訳を探す前に、素直にうなずけた。
「……うん」
孝太郎は「そっか」とだけ言って、春花の隣に来る。トレーの端を指先で支え、こぼれないように角度を直した。その動きがあまりに自然で、春花はまた笑った。
笑いながら、目が潤んだ。恥ずかしいのに、助かったのに、どちらも本当で、どちらも嘘みたいだった。
「近道、探してた?」
孝太郎が聞く。
春花は目をこすらずにうなずく。伸篤が、少しだけ離れて歩き出した。先導するつもりではないのに、三人の並びが自然に決まる。
孝太郎は歩きながら、壁の角に貼られた小さな紙を指差した。「ほら、これ。弥風が朝貼った。『食堂→』って」
春花はその紙を見て、声にならない声で笑った。近道を探して遠回りした自分が、急にかわいく思えてしまうのが悔しい。
「……気づかなかった」
「気づかないように貼るのが上手いんだよ。弥風」
孝太郎は言って、廊下の角を曲がる。すると、途端に鍋の匂いが戻ってきた。音も戻ってきた。食器の触れる音、誰かの笑い声、湯気のざわめき。
春花は、その匂いと音に包まれながら、トレーの上のお茶を見下ろした。湯気はまだ残っている。誰かのための分も、ちゃんと温かい。
孝太郎が「誰に持ってく?」と軽く聞く。
春花は答えず、伸篤の背中をちらりと見た。伸篤は振り向かない。けれど、春花が視線を向けた瞬間だけ、歩幅が少しだけ遅くなった。
春花はその隙に、伸篤の手元へ紙コップをそっと差し出した。
伸篤は一度だけ春花の目を見て、受け取った。言葉はない。けれど、湯気が二人の間に立ち上がり、そこに短い返事があるみたいだった。
孝太郎はそれを見て、何も言わずに笑った。笑い方が、点呼を取るときと同じで、春花は胸の奥が少し軽くなる。
迷ったことも、笑ってしまったことも、今日の廊下の匂いと一緒に、ここに置いていけそうだった。




