第40話 冬が明ける、はじめての帰り道
一月七日、朝七時半。寮の窓の外は、白一色ではなかった。屋根の雪が、昨夜より一段、低くなっている。遠くの杉の枝から落ちた雫が、黒い幹を筋にして走り、そこだけ冬がほどけたみたいに見えた。
廊下に出ると、ストーブの匂いに混じって、湯気の匂いがした。台所から、鍋の蓋が小さく鳴る。食堂の入り口に貼られた紙には、昨夜まで「運休」と並んでいた赤い文字の上から、太い青ペンで「復旧」の二文字が書き足されていた。
「九時にバス、来るってさ!」
翔夏子が椅子を引く音みたいに言って、紙を指で叩いた。指先が震えているのは寒さだけじゃない。弥風がその横で、年鑑を閉じるときみたいに慎重に頷いた。
「道路の除雪、今朝で繋がったって。……校史に、こういう年もあったよ」
「へえ。じゃあ俺の靴下も、そろそろ繋がる?」
ノブヤがあくび混じりに言って、片方だけの靴下を振った。
「昨日から片方行方不明なんだよね。学園が、返してくれない」
「返すのは自分の部屋だろ」
量大が言い、すぐにノートを開いた。寮の点検表に、昨日の反省を一行足している。字の形が、昨夜より少し整っていた。
孝太郎は、紙の端を押さえながら、みんなの顔を順番に見た。ここ数日、夜九時に図書館へ向かう足音を、同じ順番で聞いていた。今日は、その足音の終わりが近い。
「……帰る前にさ」
孝太郎が口を開くと、伸篤が黙って毛布を畳む手を止めた。智香里が湯呑みを机に置く音が、控えめに響く。
「片付け、ちゃんとしよう。寮母さん、来るまでに」
「現実的だね」
弥風が笑って、校史を抱え直す。
「現実的で、助かる」
春花が小さく言った。言い終えたあと、自分の靴ひもに視線を落とす。結び目を指でつまみ直して、また結び直す。ほどけていないのに。
孝太郎は、その仕草を見て、笑いを作るタイミングを探した。探して、やめた。代わりに、春花の横へ立つ。
「結びすぎると、逆にほどけるよ」
「……今、ほどけたら、困る」
春花は言って、靴先を軽く床に当てた。音が二回。孝太郎はうなずいて、同じ回数だけ呼吸を整えた。
午前八時半。寮の玄関は、昨日より明るい。量大が掃除機のコードを伸ばし、翔夏子が「そこ、角!」と指示を飛ばす。ノブヤは見つかった靴下を掲げて勝ち誇った顔をしたが、智香里に「それ、私の」と言われて、黙って差し出した。弥風は図書館へ返すはずの年鑑を、最後にもう一度だけ開き、「創立者の手紙、写しておけばよかったな」と呟く。伸篤は、誰の分とも言わずに温かい麦茶を机に並べた。
孝太郎は自分の部屋へ戻り、リュックの底を叩いて確かめた。ポケットの内側に、ひんやりとした重みがある。深い青の石――ディープブルークォーツ。光らない。奇跡も起こさない。だけど、昨夜の電話の声と、図書館の丸テーブルの息づかいが、そこに沈んでいる気がした。
廊下で、春花がダンボールの口を閉じようとして、両手で押さえ込み、うまくいかずに眉を寄せた。孝太郎が近づくと、春花は顔を上げずに言った。
「……入れ方、わからない」
「どれ?」
孝太郎が覗き込むと、箱の中には、濡れた手袋、読みかけの文庫、そして紙片が一枚。八人が一行ずつ書いた“渡す言葉”の紙片だった。春花は、それを一番上に置いて、箱の角が折れないように指で支えている。
「これ、潰したくない」
「じゃあ、リュックの外ポケット。折れないように、硬い下敷きと一緒」
孝太郎が言うと、春花はゆっくり頷き、紙片を胸の前に引き寄せた。抱きしめるほどじゃない。でも、落とさない持ち方。
九時少し前。玄関前の雪は、踏み固められて灰色になっている。遠くから、エンジンの音が近づいてきた。白い息が、みんなの口から同時に出る。まるで合図みたいに。
「来た!」
翔夏子が一歩前に出て、手を振った。バスのフロントガラスに、雪の粒が滑っていく。運転手が窓を少し開け、「深蒼学園、乗る人ー!」と声を張った。声が、冬の山に跳ね返って、少しだけ大げさに聞こえる。
荷物を積み込みながら、ノブヤが孝太郎の肩をつついた。
「勝者、石、持ってんだろ?」
「持ってる」
「じゃあさ、最後に――」
「掲げない」
孝太郎が即答すると、ノブヤは肩をすくめた。
「だよね。……じゃあ、ポケットの中で、ちゃんと冷えてろって伝えといて」
「伝えとく」
孝太郎は言って、ポケットの上から軽く叩いた。石は返事をしない。でも、そこにいる。
バスに乗り込む直前、春花が孝太郎の袖を引いた。指先が、白い。寒さだけじゃない。
「……孝太郎」
「ん」
「また迷ったら?」
春花は、問いを投げたあとで、靴ひもを一度だけ触った。結び目の確認みたいに。
孝太郎は、昨日の自分の言葉を、今日の自分の声で言い直した。
「そのときは、迷ったって言え」
春花の目が、少しだけ丸くなる。笑う前の合図。
「……じゃあ今、迷ってる」
「何に?」
「帰ったら、全部、戻っちゃう気がする。……ここで言えたこと、言えなくなる気がする」
春花は、言いながら息を吸って、吐いた。言葉が逃げないように、胸の中で押さえている。
孝太郎は、冗談を探して、やっぱりやめた。代わりに、春花の目を見る。
「戻らないよ。……戻りそうになったら、俺に言えばいい」
「……電話?」
春花が、少しだけ口角を上げた。
「電話でも、手紙でも。図書館でも」
「図書館、遠い」
「じゃあ、途中の駅のベンチとか」
孝太郎が言うと、春花は小さく吹き出した。笑い方が、雪を踏む音より軽い。
「……ベンチで、嘘ひとつ、ほんとうひとつ?」
「それは、得点つけないで」
「つけないなら、ほんとうだけ言う」
春花は言って、紙片を指で押さえた。そこに書かれた一行を、孝太郎は見ない。見なくても、渡されたことだけはわかる。
「……孝太郎、昨日、泣いてた」
「見てたの?」
「見てた。……笑ってたのも」
春花は言い、視線を少しだけ逸らした。雪の上に落ちた自分の影を見ている。
「私も、そうしたい」
「じゃあ、そうしよう」
孝太郎が言うと、春花は頷いた。頷き方が、一回で足りるって知ってるみたいだった。
バスの座席に腰を下ろすと、窓がすぐ曇った。智香里が小さなタオルで拭きながら、「これ、帰り道だけで使い切るやつね」と言って笑う。量大は時刻表を開き、伸篤は何も言わずに隣の席へ温かいペットボトルを置いた。弥風は窓の外の時計塔を見つめ、翔夏子は最後まで手を振っている。ノブヤは靴下の片方をポケットからちらつかせて、なぜか勝った顔をした。
バスが動き出すと、深蒼学園はゆっくり遠ざかった。雪はまだ残っている。でも、道は通っている。窓の外の白が、少しずつ薄くなる。
孝太郎はポケットの中の石を指で押した。冷たい。確かに重い。奇跡じゃない重さだ。
その重さの上に、昨夜の「ありがとう」と、今朝の「迷ってる」と、これからの「言えばいい」が、静かに積もっていく。
春花が、隣の席で小さく息を吐いた。
「ねえ」
「ん?」
「帰り道って……はじめてだね」
「そうだな」
孝太郎は、窓の曇りに指で小さな丸を描いて、外の景色を一瞬だけ切り取った。
「はじめてなら、迷ってもいい」
春花は、丸の向こうの白を見て、ゆっくり頷いた。
冬が明ける音はしない。けれど、バスのエンジンの低い唸りが、八人の足元で鳴っている。
それで十分だと、孝太郎は思った。




