表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/40

第40話 冬が明ける、はじめての帰り道

 一月七日、朝七時半。寮の窓の外は、白一色ではなかった。屋根の雪が、昨夜より一段、低くなっている。遠くの杉の枝から落ちた雫が、黒い幹を筋にして走り、そこだけ冬がほどけたみたいに見えた。


  廊下に出ると、ストーブの匂いに混じって、湯気の匂いがした。台所から、鍋の蓋が小さく鳴る。食堂の入り口に貼られた紙には、昨夜まで「運休」と並んでいた赤い文字の上から、太い青ペンで「復旧」の二文字が書き足されていた。


  「九時にバス、来るってさ!」


  翔夏子が椅子を引く音みたいに言って、紙を指で叩いた。指先が震えているのは寒さだけじゃない。弥風がその横で、年鑑を閉じるときみたいに慎重に頷いた。


  「道路の除雪、今朝で繋がったって。……校史に、こういう年もあったよ」

  「へえ。じゃあ俺の靴下も、そろそろ繋がる?」

  ノブヤがあくび混じりに言って、片方だけの靴下を振った。

  「昨日から片方行方不明なんだよね。学園が、返してくれない」

  「返すのは自分の部屋だろ」

  量大が言い、すぐにノートを開いた。寮の点検表に、昨日の反省を一行足している。字の形が、昨夜より少し整っていた。


  孝太郎は、紙の端を押さえながら、みんなの顔を順番に見た。ここ数日、夜九時に図書館へ向かう足音を、同じ順番で聞いていた。今日は、その足音の終わりが近い。


  「……帰る前にさ」

  孝太郎が口を開くと、伸篤が黙って毛布を畳む手を止めた。智香里が湯呑みを机に置く音が、控えめに響く。

  「片付け、ちゃんとしよう。寮母さん、来るまでに」

  「現実的だね」

  弥風が笑って、校史を抱え直す。

  「現実的で、助かる」

  春花が小さく言った。言い終えたあと、自分の靴ひもに視線を落とす。結び目を指でつまみ直して、また結び直す。ほどけていないのに。


  孝太郎は、その仕草を見て、笑いを作るタイミングを探した。探して、やめた。代わりに、春花の横へ立つ。

  「結びすぎると、逆にほどけるよ」

  「……今、ほどけたら、困る」

  春花は言って、靴先を軽く床に当てた。音が二回。孝太郎はうなずいて、同じ回数だけ呼吸を整えた。


  午前八時半。寮の玄関は、昨日より明るい。量大が掃除機のコードを伸ばし、翔夏子が「そこ、角!」と指示を飛ばす。ノブヤは見つかった靴下を掲げて勝ち誇った顔をしたが、智香里に「それ、私の」と言われて、黙って差し出した。弥風は図書館へ返すはずの年鑑を、最後にもう一度だけ開き、「創立者の手紙、写しておけばよかったな」と呟く。伸篤は、誰の分とも言わずに温かい麦茶を机に並べた。


  孝太郎は自分の部屋へ戻り、リュックの底を叩いて確かめた。ポケットの内側に、ひんやりとした重みがある。深い青の石――ディープブルークォーツ。光らない。奇跡も起こさない。だけど、昨夜の電話の声と、図書館の丸テーブルの息づかいが、そこに沈んでいる気がした。


  廊下で、春花がダンボールの口を閉じようとして、両手で押さえ込み、うまくいかずに眉を寄せた。孝太郎が近づくと、春花は顔を上げずに言った。

  「……入れ方、わからない」

  「どれ?」

  孝太郎が覗き込むと、箱の中には、濡れた手袋、読みかけの文庫、そして紙片が一枚。八人が一行ずつ書いた“渡す言葉”の紙片だった。春花は、それを一番上に置いて、箱の角が折れないように指で支えている。

  「これ、潰したくない」

  「じゃあ、リュックの外ポケット。折れないように、硬い下敷きと一緒」

  孝太郎が言うと、春花はゆっくり頷き、紙片を胸の前に引き寄せた。抱きしめるほどじゃない。でも、落とさない持ち方。


  九時少し前。玄関前の雪は、踏み固められて灰色になっている。遠くから、エンジンの音が近づいてきた。白い息が、みんなの口から同時に出る。まるで合図みたいに。


  「来た!」

  翔夏子が一歩前に出て、手を振った。バスのフロントガラスに、雪の粒が滑っていく。運転手が窓を少し開け、「深蒼学園、乗る人ー!」と声を張った。声が、冬の山に跳ね返って、少しだけ大げさに聞こえる。


  荷物を積み込みながら、ノブヤが孝太郎の肩をつついた。

  「勝者、石、持ってんだろ?」

  「持ってる」

  「じゃあさ、最後に――」

  「掲げない」

  孝太郎が即答すると、ノブヤは肩をすくめた。

  「だよね。……じゃあ、ポケットの中で、ちゃんと冷えてろって伝えといて」

  「伝えとく」

  孝太郎は言って、ポケットの上から軽く叩いた。石は返事をしない。でも、そこにいる。


  バスに乗り込む直前、春花が孝太郎の袖を引いた。指先が、白い。寒さだけじゃない。

  「……孝太郎」

  「ん」

  「また迷ったら?」

  春花は、問いを投げたあとで、靴ひもを一度だけ触った。結び目の確認みたいに。

  孝太郎は、昨日の自分の言葉を、今日の自分の声で言い直した。

  「そのときは、迷ったって言え」

  春花の目が、少しだけ丸くなる。笑う前の合図。

  「……じゃあ今、迷ってる」

  「何に?」

  「帰ったら、全部、戻っちゃう気がする。……ここで言えたこと、言えなくなる気がする」

  春花は、言いながら息を吸って、吐いた。言葉が逃げないように、胸の中で押さえている。

  孝太郎は、冗談を探して、やっぱりやめた。代わりに、春花の目を見る。

  「戻らないよ。……戻りそうになったら、俺に言えばいい」

  「……電話?」

  春花が、少しだけ口角を上げた。

  「電話でも、手紙でも。図書館でも」

  「図書館、遠い」

  「じゃあ、途中の駅のベンチとか」

  孝太郎が言うと、春花は小さく吹き出した。笑い方が、雪を踏む音より軽い。

  「……ベンチで、嘘ひとつ、ほんとうひとつ?」

  「それは、得点つけないで」

  「つけないなら、ほんとうだけ言う」

  春花は言って、紙片を指で押さえた。そこに書かれた一行を、孝太郎は見ない。見なくても、渡されたことだけはわかる。

  「……孝太郎、昨日、泣いてた」

  「見てたの?」

  「見てた。……笑ってたのも」

  春花は言い、視線を少しだけ逸らした。雪の上に落ちた自分の影を見ている。

  「私も、そうしたい」

  「じゃあ、そうしよう」

  孝太郎が言うと、春花は頷いた。頷き方が、一回で足りるって知ってるみたいだった。


  バスの座席に腰を下ろすと、窓がすぐ曇った。智香里が小さなタオルで拭きながら、「これ、帰り道だけで使い切るやつね」と言って笑う。量大は時刻表を開き、伸篤は何も言わずに隣の席へ温かいペットボトルを置いた。弥風は窓の外の時計塔を見つめ、翔夏子は最後まで手を振っている。ノブヤは靴下の片方をポケットからちらつかせて、なぜか勝った顔をした。


  バスが動き出すと、深蒼学園はゆっくり遠ざかった。雪はまだ残っている。でも、道は通っている。窓の外の白が、少しずつ薄くなる。

  孝太郎はポケットの中の石を指で押した。冷たい。確かに重い。奇跡じゃない重さだ。

  その重さの上に、昨夜の「ありがとう」と、今朝の「迷ってる」と、これからの「言えばいい」が、静かに積もっていく。


  春花が、隣の席で小さく息を吐いた。

  「ねえ」

  「ん?」

  「帰り道って……はじめてだね」

  「そうだな」

  孝太郎は、窓の曇りに指で小さな丸を描いて、外の景色を一瞬だけ切り取った。

  「はじめてなら、迷ってもいい」

  春花は、丸の向こうの白を見て、ゆっくり頷いた。


  冬が明ける音はしない。けれど、バスのエンジンの低い唸りが、八人の足元で鳴っている。

  それで十分だと、孝太郎は思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ