第39話 勝者の席、譲らない渡し方
時計塔の外壁に、風が当たって鳴る音がした。木の扉がきしむ。雪は細かく、頬に刺さらない程度の速さで降っている。
孝太郎はスマホを両手で包み、画面に息を吹きかけた。白い息が一瞬、ガラスの上で曇って、すぐ消える。
「寒いとさ、指が親の言うこと聞かない」
ノブヤが肩をすくめて言い、手袋の上から指を一本ずつ曲げ伸ばしした。
量大は懐中電灯を消し、代わりに灯りの残る校舎の方向を見た。帰る道筋を頭の中で引いている顔だ。
春花は、孝太郎の手元を覗き込む。
「……指、貸して」
「貸すって、指のレンタル?」
孝太郎が言いかけた冗談は、途中でほどけた。春花が、自分の手袋を外してしまったからだ。冷えた指先が赤くなっている。
「そのままだと、電源落ちる。ここ、冷たい」
春花はそう言って、孝太郎のスマホを自分のマフラーの内側へ押し込んだ。胸元で布がふくらむ。
翔夏子が、吹き出しそうになって、喉で止めた。
「それ、石よりあったかい扱いだね」
弥風が小さく頷いた。
「石は冷える。布は人の熱を覚える」
孝太郎は、笑って「たしかに」と言い、目を一度だけ閉じた。開けたとき、目尻に残っていた赤みが、雪明かりで目立つ。
「……電話、する」
春花が「うん」とだけ返し、スマホを戻した。画面はまだ生きている。電池の残りは、頼りなく細い線だ。
孝太郎は番号を押す指を、ゆっくり動かした。間違えたら言葉が引っ込んでしまいそうで、ゆっくりしか押せない。
呼び出し音が一回、二回。
その間に、ノブヤが小声で言った。
「もしもしの前に、『こちら、雪の中継です』とか言う?」
翔夏子が肘で叩いた。叩き方は軽い。
「今、余計なこと言うと、落ちる」
「電波も心も?」
「両方」
三回目の呼び出し音の途中で、繋がった。
『……もしもし?』
受話器の向こうの声は、少し眠そうで、それでもすぐ目を覚ます音だった。
孝太郎は息を吸って、吐いた。息の白さが、スマホの下で揺れる。
「父さん。……俺」
『分かる。今、どこだ』
「学園。雪で、帰れなくて」
『そうか。ニュースで見た。食べ物はあるか、寒くないか』
質問が、矢みたいに続く。矢は痛くない。守るために飛んできている。
孝太郎は「大丈夫」と短く答え、そこで一度、黙った。
黙った隙間に、時計塔の風の音が入り込む。
春花は、胸元の手紙に触れた。紙の角が、指先に当たる。
量大が、雪を踏む位置を少しだけ変えた。踏みしめる音が、孝太郎の背中を支えるみたいに響いた。
孝太郎は、言った。
「……二時に、鍵の音がしたとき。俺、起きてた」
受話器の向こうが静かになる。
孝太郎は、言葉が逃げないように、続けた。
「寝たふりした。父さんが困る気がして。……でも、困らせないつもりで、困らせた」
『……聞こえてたのか』
父の声が、少しだけ低くなる。怒ってはいない。夜更けの台所みたいな音だ。
孝太郎は笑いそうになって、鼻で短く息を出した。
「聞こえた。『遅くなった』も、『間に合った』も」
『……そうか』
父が息を吐く音が、受話器の中で膨らんだ。
孝太郎は、そこでようやく言った。
「ありがとう。……あのとき、袋、枕元に置いてくれて。俺、言えなかった」
『今、言えたな』
「うん。今、言えた」
『遅れても来るのは、いなくなるのとは違うって言ったのも、お前か』
孝太郎は「うん」と返し、喉の奥が熱くなるのを誤魔化すように、頬に落ちた雪を手袋で払った。
「父さんも……遅れても、来て」
『当たり前だ。お前も、遅れてもいいから、帰ってこい』
「……うん」
電話が切れても、孝太郎はすぐに画面を消せなかった。指が、まだそこにいたいみたいに留まる。
春花が、孝太郎の肩を軽く叩いた。叩き方は一回だけ。
「よかった」
その一言が、石より重くて、石より温かい。
八人は校舎へ戻り、図書館の丸テーブルに集まった。ストーブの前に立つと、まつげの雪が一気に溶け、頬が熱くなる。
ノブヤが手をこすりながら言う。
「さて。青い石の正体が、ただの石だって分かった今、残る謎はひとつ」
智香里が即座に返した。
「点数」
「点数!」
ノブヤが両手を上げた。降参の形なのに、声は楽しそうだ。
「人間って、学ばないね!」
「学んだ結果、点数が気になる」
弥風が淡々と返し、量大が頷いた。頷きが真面目すぎて、逆に笑いが起きる。
翔夏子は、椅子の背にもたれずに座った。背筋がまっすぐなまま、鉛筆を一本、指で転がす。
「勝者の席、って話。……あるなら見てみたい」
弥風が、校史の書き込みを指で叩いた。
「旧寄宿舎の倉庫。体育館の裏。鍵は、職員室の古い棚に残ってる」
「残ってるって言い方が、もう怖い」
ノブヤが言い、伸篤が黙って懐中電灯を取った。言葉より先に、動く。
倉庫の鍵は、予想より素直に回った。扉を開けた瞬間、古い木の匂いが鼻に来る。
奥に、背の高い椅子があった。背もたれの板に、青い石の形が彫られている。彫りは浅い。見せびらかすためじゃなく、忘れないための深さだ。
量大が椅子の脚を持ち上げ、重さを確かめた。
「重い」
「勝者、筋トレも付いてくる」
ノブヤが言い、翔夏子が笑った。笑い方は、短くて、すぐ消える。消える前に、確かに残る。
椅子を運ぶのは、量大とノブヤと孝太郎になった。三人で持つと、階段の曲がり角が難しい。
「左! 左!」
「どっちの左!」
「お前の左!」
「俺の左、今、全部だよ!」
声が飛び、息が弾み、最後の一段でノブヤが足を滑らせた。椅子がぐらりと揺れ、全員が同時に息を止める。
春花が、反射で椅子の背を押さえた。指先が木に触れた瞬間、冷たさが伝わるのに、手は離れない。
椅子は、倒れずに済んだ。
「春花、今の、勝者の動き」
ノブヤが言い、春花は「違う」と小さく返した。返しながら、頬が少し赤い。
図書館へ戻ると、翔夏子が点数表を広げた。四角いマスが、夜の数だけ並んでいる。
孝太郎は鉛筆を持ち、弥風が読み上げ、智香里が確認する。三人の手つきが揃うと、点数は嘘をつけない。
最後のマスを埋めたとき、翔夏子が言った。
「……一位、孝太郎」
孝太郎が「え」と言い、ノブヤが「え」と言い、量大が「え」と言った。伸篤だけが「ほう」と小さく頷いた。
翔夏子は唇を尖らせる代わりに、椅子を指で叩いた。
「座りな。勝者の席」
孝太郎は一歩引きかけて、引ききらずに戻った。逃げない。
「座る。……でも、あれ、譲らない」
「何を?」
春花が聞くと、孝太郎は椅子の脚を持ち、ずずっと引きずった。勝者の席を、テーブルの端じゃなく、円の中へ入れる。皆の膝が近くなる。
「ここ。真ん中。独りで座る席じゃなくて、みんなで寄る席にする」
ノブヤが手を叩きそうになって、やめた。代わりに、肩を揺らして笑った。
「譲らないって、そういう譲らなさかよ」
孝太郎は椅子に座り、石の包みを膝に置いた。重さが、足に伝わる。勝った証じゃない。忘れないための重さだ。
「手紙、回そう」
孝太郎が言うと、春花が胸元から封を出した。封は開いている。中の紙は、折り目が柔らかくなっている。
孝太郎は一行だけ読んだ。創立者の字は、癖が強いのに、読みやすい。
「……願いは、石じゃなくて、相手に渡す言葉で形になる」
それだけで十分だった。孝太郎は紙を隣へ渡した。隣の量大が受け取り、次の弥風へ渡す。紙は、手から手へ移るたび、少しずつ温まる。
翔夏子が、孝太郎の前にスマホを置いた。
「勝者の特権。……最初にもう一回、かけてもいい」
孝太郎は首を振った。
「もう、言った。……次は、みんな」
春花が、息を吸って、吐いた。机の上のスマホを見て、指を伸ばしかけて、引っ込めた。
孝太郎は、椅子の背にもたれずに言った。
「迷ったら、迷ったって言えばいい」
春花は、目を細める。笑う前の合図みたいに。
「……うん」
ストーブの火が、小さく鳴った。外の雪の音は、遠い。
勝者の席は、誰の前にも立っていない。円の真ん中で、八人の呼吸のほうを向いている。




