第38話 ディープブルークォーツの正体
青い粉が、鍵穴から落ち続けている。雪じゃない。灰でもない。指先で触れると、さらりとほどけて、冷たさだけが残る。
一月六日の夜九時半。時計塔の扉の前で、春花は紙片を持ち替えた。今度は、読むたびに顔を上げて、誰へ渡す言葉なのか、目で確かめるようにする。
「……じゃあ、もう一回」
声が震えそうになるたび、春花は息を吸って、吐いた。息の白さで、どこから風が来ているかが分かる。風は扉の隙間から来ていて、扉は、ほんの少しだけ呼吸しているみたいに見えた。
孝太郎は、春花の横に立たない。半歩うしろ。声を出せば、言葉が逃げる気がした。だから、春花が紙をめくる音を、耳で受け取る。
ノブヤは、さっきしまい込んだ冗談を、もう一度、奥へ押し込んだ。口元が動きかけて、止まる。代わりに、春花の足元の雪を、靴でそっと均す。転ばないように、言わずに直す。
量大は、懐中電灯の光が揺れない角度を探して、腕を固定した。力を入れているのに、肩が上がらない。弥風は年鑑を抱え、創立者の写真のページを開いたまま、紙片の束を見る。翔夏子は、春花の声が途切れそうになるたび、唇だけで「うん」と言う。伸篤は、扉の取っ手に触れず、耳だけを近づけている。智香里は、袖口で涙の跡を拭いたあと、指先を空に置いた。誰かの言葉を、落とさないための手だ。
春花は、一枚目を読んだ。
「量大。『戻る道を先に作ると、怖さが小さくなる』」
量大は、頷かない。代わりに、足場をもう一度踏み固めた。踏む音が、雪の下の地面まで届く。
二枚目。
「弥風。『知らないって言うほうが、近づける日がある』」
弥風は年鑑を閉じず、開いたまま、紙片の端に指を添えた。添えた指が、紙の温度を測るみたいに止まる。
三枚目。
「ノブヤ。『黙って隣にいてくれたの、助かった』」
ノブヤは笑わない。笑わないまま、肩に掛けたタオルを首に巻き直した。今夜は、首が冷えるのを我慢しない。
四枚目。
「翔夏子。『君の後ろを見てる』」
翔夏子は一歩前に出そうになって、出ない。代わりに、春花の背中へ、見えない手を添えるように姿勢を整えた。
五枚目。
「伸篤。『寒いって言っていい』」
伸篤は懐中電灯を一度消し、また点けた。消える一瞬が、扉の黒い鉄を深く見せる。
六枚目。
「智香里。『揃えなくても、心は崩れない』」
智香里は、指先を握りしめて、開いた。開いた掌が、扉へ向く。誰かの言葉を受け取る形だ。
七枚目。
「孝太郎。『迷ったって言えるの、強い。……私、今夜は言える』」
春花は、最後の行を読む前に、孝太郎を見た。見て、すぐに視線を落とした。目が合ったら、言葉が溶ける気がしたからだ。
孝太郎は、笑っていないのに、口角だけが少し上がった。そんなに小さな動きでも、春花の胸の奥が、きゅっと締まる。
八枚目は、春花の紙だ。春花は紙面を見ずに言った。
「……私の。『ここに来て良かった。あなたに、言えるようになった』」
言い切った瞬間、鍵穴の青い粉が、ふっと止まった。
全員が、同じように息を止める。止めるほどの派手さはない。けれど、耳の奥で、金具がゆるむ音がした。
カシャン。
伸篤が、耳を寄せたまま、ほんの少しだけ指を立てた。「今」と言う代わりの合図だ。
翔夏子が取っ手に手を伸ばしかけ、そこで止めた。勝手に開けると、春花の言葉を奪う気がした。春花はその気配に気づき、首を横に振るでもなく、ただ、自分の手で取っ手を握った。
冷たい。けれど、手袋越しでも、固さが変わっているのが分かる。さっきまで「開かない」と言い張っていた固さが、今は「押してみろ」と黙って譲っている。
春花が押すと、扉は一度だけきしみ、雪の粉を落として開いた。
「うわ、ほこり……」
ノブヤの声が、思わず軽くなる。軽くなったあと、すぐに口を閉じた。今は、軽さでごまかす時間じゃないと、自分で分かっている。
中は、狭い。階段は、まっすぐ上に伸びているのに、途中で曲がって見える。壁は木の板で、古い油の匂いがする。弥風が懐中電灯の光を受けて、年鑑の背表紙を抱え直す。
「……創立者、ここを何回も上り下りしたのか」
言い方が小さい。けれど、そこには、過去を偉そうに語らない温度がある。
先頭は春花。孝太郎が半歩うしろ。量大が後ろから足場を確かめ、翔夏子が間を詰めすぎないように見ている。智香里は手すりに触れず、壁に指を沿わせて進んだ。触れた木が、思ったよりざらざらしていて、今いる場所が「本物」だと分かる。
最上段に、小さな部屋があった。
床の中央に台。台の上に、木箱。鍵穴はない。代わりに、蓋の留め金が一つだけ。
ノブヤが「宝箱だ」と言いかけて、飲み込んだ。飲み込んだのに、翔夏子が目だけで「言っていい」と許した。許したのは、ここまで来た緊張を、ほんの一息だけゆるめるためだ。
ノブヤは、囁く。
「……宝箱じゃん」
智香里が、鼻で笑ってしまい、すぐに口を押さえた。笑いは、ここでも必要だった。
春花が留め金を外す。金具が鳴る。蓋を開けると、箱の中に、布に包まれたものがあった。
春花が布をほどくと、深い青の石が現れた。月の光でもない。電灯の光でもない。青いのに、光っていない。ただ、青い。
翔夏子が、肩を落として言った。
「……え、光らないの?」
思ったより素直で、孝太郎が喉の奥で笑いかけ、すぐに息に戻す。
石は、手のひらより少し大きい。持ち上げると、ずしりと重い。冷たさが、手袋を通り抜けて、指の骨に触れる。
「冷えた文鎮みたいだな」
ノブヤが言って、今度は翔夏子が口を押さえた。笑ったら、泣きそうになる顔だ。
量大が、石の角を指でなぞった。角は丸い。人の手が、長い時間触れてきた丸さだ。
「……これ、願いを叶える石?」
春花が言うと、弥風が箱の底を指した。
「下に、紙がある」
石の下に、封筒が一枚。封は蝋で固められていたが、蝋は割れかけている。伸篤が封筒を持ち上げ、紙の重さを確かめるように掌を支えた。
封筒には、古い筆記体のような文字で、学園名と、日付が書かれていた。年号は、今の誰にも馴染みがない古さだ。
弥風が年鑑を開き、創立の年と照らし合わせる。指が止まり、目だけが上がる。
「……創立者の手紙だ」
春花は、封筒の口を開けた。紙が一枚。端が少し黄ばんでいるのに、文字だけははっきり残っている。
春花が読み上げると、狭い部屋の空気が変わった。変わったのは、温度じゃない。視線の向きだ。
「……『願いは石に宿らない。願いは、渡す言葉で形になる。言えなかった一行を、相手へ渡しなさい。渡したあとは、相手の返事を待ちなさい。返事が来なくても、言葉はあなたの体を軽くする』……」
最後まで読んだとき、翔夏子は石を見て、それから手紙を見た。
「じゃあ、これ……飾り?」
智香里が、首を横に振るでもなく、ただ、手紙の端を指で押さえた。
「飾りじゃない。……重いって、分かったから」
重いのは石だけじゃない。言えなかった言葉の重さだ。ここに来るまで、八人はそれぞれ、それを持っていた。
孝太郎が、笑った。
笑ったのに、目の端が熱くなる。熱いのに、頬に落ちる前に、寒さが乾かしそうになる。
「……すげえな。俺たち、石が光ったら全部解決するって、どこかで思ってた」
自分で言って、自分で可笑しくなり、肩が震える。震えが、笑いと泣きの境目で揺れる。
春花は、孝太郎の顔を見た。今度は逸らさない。
「……じゃあ、渡す」
言うだけで、足が少し軽くなる。孝太郎は、ポケットの中のスマートフォンを握った。画面は冷たい。冷たいけれど、父の名前の連絡先は、そこにある。
量大が、階段の方へ視線を向ける。
「戻ろう。ここは狭い。足を滑らせたら、言葉が台無しになる」
八人は、箱の蓋を閉めなかった。閉めると、また鍵が必要になる気がしたからだ。代わりに、石を布で包み直し、手紙を春花が胸に入れる。
階段を降りるとき、ノブヤが小声で言った。
「これさ、勝ったやつが持ってくんだよな。……文鎮」
翔夏子が、肘で軽く突いた。突いた強さが、優しい。
扉の外へ出ると、雪は相変わらず降っていた。時計塔は、何も変わっていない顔で立っている。けれど、鍵穴の青い粉は止まっていた。
春花は胸元の手紙の位置を確かめ、孝太郎の横を見た。
孝太郎は笑いながら、目を赤くしている。笑いながら泣くのは、今日だけ許される気がした。
「……電話、する?」
春花が聞くと、孝太郎は「うん」とだけ言った。言ったあと、息を吸い、吐いてから、画面を点けた。
その小さな光が、石よりずっと頼もしく見えたのは、気のせいじゃない。




