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冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


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第36話 最終夜、嘘が一つも出ない

 一月六日の夜九時。旧校舎の図書館は、昼にいったん溶けた雪の匂いと、ストーブの乾いた匂いが混ざっていた。窓ガラスの外は真っ白で、雪が降っているのか、風が舞い上げているのか、区別がつかない。丸テーブルの上にはポットと、八つのカップ。昨日の朝、没収寸前だったココアの香りはもうない。


  孝太郎はノートを開いたまま、鉛筆の芯を爪で確かめた。得点を書くために削ったのに、今夜、書きたいのは数字じゃない気がしている。ページをめくる音が小さく鳴り、春花の視線がそこへ落ちた。春花は椅子に腰を下ろしてから、足元で靴先を一度だけ揺らし、止めた。揺らす回数が少ないほど、何かを決めている。


  翔夏子がケースを胸元の紐で確かめ、椅子を引いた。木が床をこする音が、図書館では大きく響く。

  「始めよう。最後だろ」

  その一言で、皆の背中が同じ方向へ向く。勝ち負けのためというより、今日で終わらせるために。


  ノブヤがカップを配りながら、口を尖らせた。

  「最後なのにさ。嘘ひとつ、ほんとうひとつ、ってルール、絶対守るの? 昨日の朝、守ってないよね」

  智香里が紙を一枚、卓上に置いた。紙の端が揃っている。揃えた指の力が、まだ抜けていない。

  「朝は朝。夜は夜。……って言いたいけど、今の私は、嘘を入れる場所が見つからない」

  言ってから、智香里は自分のカップの縁を指でなぞった。なぞる速度が、呼吸と同じくらい整っていく。


  弥風は古い年鑑を抱えたまま、ページを閉じた。いつもなら、そこから「創立何年の冬、同じように雪が――」と走り出すのに、今夜は本が重い。

  「嘘を混ぜるなら、どこを混ぜる?」

  弥風が問いかけるように言うと、量大がノートを広げた。罫線の上に、箇条書きではなく、丸い字で短い文が並ぶ。

  「混ぜる場所があるなら、たぶん、僕は先に書き直してる。……でも、書き直せない」

  量大は言って、消しゴムを握ったまま止まった。消すための道具が、今夜は机の上で役目を失っている。


  伸篤は、皆の顔を一周見てから、黙ってストーブの温度を少し下げた。暖かいと眠くなる。眠くなると、言葉が逃げる。その調整が、伸篤の「今ここにいるよ」という合図みたいだった。


  孝太郎は鉛筆を置き、ノートを閉じた。閉じる音が、静かに決定になる。

  「今夜、得点、つけない」

  ノブヤが「えっ」と声を上げ、すぐに小さく笑った。

  「じゃあ、俺、勝ち逃げできないじゃん。まあ、逃げないけど」

  翔夏子がカップを持ち上げ、湯気を鼻で吸った。

  「逃げる気があるなら、最初から来ない」

  ノブヤが肩をすくめ、笑いに変えようとして、途中で口を閉じた。笑いにしたら、今夜は薄くなる。薄くしたくない顔を、本人がしている。


  孝太郎が視線で「誰から」と問いかけると、春花は一度だけ頷いた。頷きは小さいのに、椅子の脚がきゅ、と床を鳴らすほど、姿勢が前へ出る。

  「……私から」

  春花は言って、丸テーブルの中央に、昨日の紙片の束を置いた。八人分の一行が重なった束だ。春花はその上に、もう一枚の白い紙を重ねた。何も書かれていない。

  「嘘を入れるって、決めてた。……でも、今、書けない」

  春花は白い紙を指で押さえた。押さえた指先がわずかに震え、止まらない。孝太郎は「震え、止めなくていい」と言いかけて、飲み込んだ。止めなくていいと言われたら、春花がもっと困るのを知っている。


  春花は、紙から目を上げずに続けた。

  「ここに来る前、私、道を間違えたことがある。……駅で、逆のホームに立って、気づいたのに、動けなかった」

  ノブヤがいつもの調子で「それ、俺もある!」と言いかけ、口を閉じた。自分の声で、春花の言葉を折りたくない。

  春花は、唇を噛んでから、息を吐いた。

  「誰にも言わなかった。言ったら、笑われるって思った。……でも、笑われるのが怖いんじゃなくて、笑われたあと、私は、どうしていいか分からない」

  翔夏子の指先が、机を一度だけ叩いた。叩いたのに、何も言わない。言わないことが、春花のために選んだ動きだと分かる。


  春花はようやく孝太郎を見た。目が合った瞬間、孝太郎は相手の言葉を途中で切らないために、口角だけを上げた。頷きも、急がない。

  「俺さ」

  孝太郎がゆっくり言う。

  「今の、嘘じゃない。……で、ここから嘘を混ぜるなら、たぶん、俺が先に気づいて当てる」

  春花の肩が少し下がり、そこで初めて、笑いが一粒こぼれた。笑いは小さくて、でも、確かに温かい。

  「当てないで」

  春花が言って、すぐに首を振った。

  「当てていい。……でも、今日は、当てないでほしい」

  孝太郎は頷き、ノートを閉じたまま手を置いた。数字の代わりに、手のひらを机に置く。


  次は弥風が年鑑を膝に置き、言葉を探すように背表紙を撫でた。

  「私、嘘を混ぜるなら、知ってることを一つだけ外す。……でも、外すと、全部が崩れる」

  弥風は本を見ずに、春花の紙片の束を見た。

  「校史に書いてある“勝者の席”って、ひとり分しかない。……だから、ずっと、誰かが座れない席だった」

  言い終えたあと、弥風は指先でカップを回した。回すのが早い。止められない。

  「私、座りたいって言うの、嫌だった。……座りたいって言った人が、悪者みたいになるから」

  翔夏子が、即座に言葉を返さない。返さないまま、ケースの紐を握り直した。握り直しは「私が背負う」という合図だった。


  量大はノートを閉じ、代わりに紙を一枚破った。破る音が、図書館でやけに鋭い。

  「僕、改善って言うのが好きだった。……好きって言うと、うそっぽいから、やめる」

  自分で言って、量大は苦笑した。

  「違う。改善しないと、怖かった。昨日より良くしないと、昨日の自分が、ずっと隣にいるみたいで」

  智香里がペンを握り、紙に何かを書きそうになって、やめた。代わりに、口から短い言葉を落とす。

  「隣にいても、押し出さなきゃいい」

  量大が一度だけ頷いた。頷きが、承認のメモになる。


  伸篤は、しばらく沈黙を置いた。誰もそれを埋めない。伸篤が待つのと同じだけ、皆が待つ。

  「朝、毛布、返してない」

  突然の言葉に、春花が目を瞬かせた。

  伸篤は、顔を赤くも白くもしない。淡々と、続ける。

  「返さなくていい。……返されたら、困る」

  ノブヤが吹き出しかけ、手で口を押さえた。笑いじゃない。胸が、くすぐったい。

  春花は毛布の端を指でつまみ、二回、ぎゅっと握った。言葉の代わりの返事だ。


  翔夏子が、机の上のケースを中央へ置いた。鍵の欠片が入った小さな箱。蓋の留め金が、ストーブの光を拾っている。

  「私ね。勝つって言った。言ったまま、勝たないと格好悪いって思ってた」

  翔夏子は視線を上げ、全員を見た。逃げない目だ。

  「でも、勝つって言ったのは……怖かったから。負けるのが怖いんじゃなくて、誰かが負けるって決まるのが怖い」

  ノブヤが両手を上げ、降参の姿勢をとった。

  「えー、じゃあ俺、ずっと怖いわ。毎日怖いわ」

  智香里が「毎日は言い過ぎ」と返し、笑いが二つ、三つ、弾んだ。弾んだあとに、沈黙が戻る。沈黙が、さっきより柔らかい。


  孝太郎は、紙片の束を指で揃えた。揃えた端が、ぴたりと合う。

  「嘘、ひとつも出なかったな」

  弥風が小さく笑い、量大が「出せなかった」と言い直した。春花は白い紙を一度だけ持ち上げ、机に戻した。書けないままの紙は、書けなかったことを隠さない。

  春花が立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、図書館に短い音が走る。

  「……これが、ほんとう」

  それだけ言って、春花は紙片の束を胸に抱えた。抱える腕が細く見えて、でも、離さない力がある。


  孝太郎は席を立たず、ただ、春花の背中を見送った。見送るだけで、何かが渡った気がする。ノブヤが冗談を言おうとして、言えずに、代わりにカップを片付けた。伸篤がストーブを消し、智香里が紙をまとめ、弥風がケースを持ち、量大が戸締まりの確認をし、翔夏子が先にドアを押した。


  廊下に出た瞬間、遠くの時計塔のほうで、窓が一瞬だけ深い青に灯った。誰も「見た?」とは聞かない。見たことが、全員の足を同じ向きに揃えてしまうから。


  春花は紙片を抱えたまま、息を吸って、吐いた。白い息が廊下の暗さに溶ける。

  孝太郎は春花の隣に並び、短く言った。

  「持っていく?」

  春花は頷く。頷きが、今夜いちばん大きかった。



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