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冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


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第35話 午前六時二十分、ココア没収の朝

 午前六時二十分。寮の廊下は、夜の終わりと朝の始まりがぶつかって、妙に静かだった。暖房の音だけが、誰かの寝息みたいに一定で、窓ガラスの向こうは、雪が薄い灰色に光っている。


  孝太郎は自分の腕時計を見て、秒針が一周するのを待った。待つ理由があると、足が勝手に落ち着く。なのに、春花の足音が近づくと、胸の奥が一段だけ上がる。

  「……おはよ」

  春花は言ってから、玄関マットの端でしゃがみ、靴ひもを結び直した。昨日は結び直さないと決めたのに、今朝は結び直さないと転びそうだ、と顔が言っている。

  孝太郎は笑いを飲み込み、代わりに手袋を差し出した。春花は受け取って指を通し、手の甲で小さく拳を作った。準備完了、という合図みたいだった。


  外へ出ると、空気が痛い。息を吐くと白い線が伸び、すぐ途切れる。時計塔は旧校舎の影に半分沈み、昨日よりも近く見えた。

  「遅れたら没収、って言ったのに……」

  孝太郎の言葉が終わる前に、階段の下から、やたら元気な声が跳ねた。

  「遅れてない! ほら、俺、秒で来た!」

  ノブヤが両手で巨大な水筒を抱えていた。口から湯気が出ているのに、水筒のほうがもっと湯気を出している。

  「それ、何」

  翔夏子がブーツの踵で雪を払って、先に詰める。

  「ココア。没収される前に、全員に配るやつ」

  ノブヤが堂々と言って、蓋を開けた。甘い匂いが、寒さの芯をちょっとだけ溶かす。

  「没収って、配ったら没収じゃない」

  春花が小声で突っ込み、ノブヤが胸を張る。

  「没収されるのは、俺の分だけ。みんなの分は配布。これは、言葉のマジック!」


  量大が遅れて走ってきた。走っているのに、視線は足元の雪の凹みを追っている。転ばないための計算が、顔に出ている。

  「遅れた。……いや、遅れてない。時計、二分進んでた」

  言い訳を口にした瞬間、量大は自分のノートを開き、赤いペンで何かを書き足した。次に同じ言い訳をしないための、修正らしい。


  弥風は既に時計塔の前にいた。手には年鑑ではなく、小さな布袋。中身が硬いのか、手首の動きが重い。

  「青い欠片、持ってきた。金属ケースの鍵も。……落としたら終わりだから、落とさない」

  彼女は言ってから、自分の胸元の紐を確かめた。紐の結び目を二度触って、ようやく皆を見る。


  五人と一人、そして春花。昨日の夜より人数が増えているのに、扉の前では声が小さくなる。翔夏子が先に一歩出た。

  「やる。早くやって、戻って朝ごはん食べる」

  その言い方が、勝ち負けの話を抜きにしてくれて、孝太郎は助かった気がした。


  鍵穴に欠片を当てる。金属が擦れる音が、雪の上で妙に響く。

  「……昨日、粉が落ちた。今日は、もっと落ちるはず」

  量大が呟いた。根拠はノートにあるんだろう。けれど、扉は昨日と同じ顔で黙っている。


  弥風が布袋から紙片を出した。昨夜、春花が握りしめていたやつだ。春花は自分の手の跡が残っていないか確かめるように、指先を擦った。

  「鍵穴の粉が落ちたのは、鍵が合ったからじゃない。……私たちが、何か言ったから」

  弥風の声は淡々としていたが、視線は鍵穴から離れない。

  ノブヤが水筒を抱え直し、言いかけてやめた。笑いに変えようとして、変えられない場所を見つけた顔だった。


  孝太郎は扉を見たまま、春花のほうへ言葉を投げた。

  「昨日、袖、掴んでくれたよな。……離さなかった」

  春花は頷き、靴先で雪をちょん、と踏んだ。踏む音が小さいほど、決めているのが分かる。

  「うん。離したら、戻っちゃうと思った」

  言ったあと、春花は口を結んだ。余計な説明を足さない。孝太郎は、その沈黙のほうが重いと知って、息を吸った。


  「俺さ……点が動くと、安心する。誰かが笑うと、もっと安心する。だから、笑わせるほうに逃げる」

  言い終えた孝太郎は、自分の手袋の指を握り込んだ。笑いを作る指が、今は逃げ道を塞ぐ指になっている。

  春花は目を伏せてから、顔を上げた。

  「私……迷うの、恥ずかしいって思ってた。だから、靴ひも、結び直してた。結び直してる間なら、迷ってない顔できる」

  言葉が出るたび、鍵穴の青い粉が、ふっと震えた。落ちない。けれど、震える。まるで、聞いているみたいに。


  翔夏子が自分の胸を叩いた。昨日と同じ癖。けれど今朝は、叩いたあとに手を下ろさない。

  「私、堂々と言うのが得意。……でも、堂々と言ったら、引けない。引けないから、怖い」

  量大がノートを閉じて、膝の上に置いた。

  「俺、改善ばっかりする。改善してたら、失敗を“終わったこと”にできる。でも、終わってないのもある」

  ノブヤは水筒の蓋を見つめたまま言った。

  「俺、揉めるの嫌い。だから、いい感じの冗談で丸める。でも……丸めたら、誰かの角が残る」

  弥風は布袋を握り直し、短く言った。

  「私は、見つけるのが好き。見つけたら前に出る。でも、見つけたものを渡す相手が分からないと、手が止まる」


  その瞬間、鍵穴の青い粉が、三粒、雪の上に落ちた。青が、朝の灰色の中で小さく光る。

  昨日より一粒多い。量大の口が、ほんの少しだけ開いた。嬉しいのに声を出さない顔だ。


  扉の向こうから、また鐘が一回鳴った。昨日より澄んでいる。

  「……まだ、足りない」

  春花が言った。自分の声に驚いたみたいに、口元を押さえる。孝太郎は首を振る。

  「足りないのは鍵じゃない。……人だ」

  ノブヤがすぐ反応して、手を挙げた。

  「伸篤と智香里? 起こしに行く? ココアで釣る?」

  翔夏子が即答した。

  「釣るな。正面から呼ぶ」


  寮へ戻る道で、春花は孝太郎の隣を歩いた。袖は掴まない。けれど、歩幅が揃っている。

  「孝太郎くん。さっきの“逃げる”って言葉……嫌いじゃない」

  春花が言うと、孝太郎が横目で見た。

  「嫌いじゃないって、どういう褒め方だよ」

  「逃げるって言えたら、戻って来れるでしょ」

  春花は言い切って、玄関マットの端でまた靴ひもを触った。触っただけで、結び直さない。今日は、それでいい。


  談話室のソファに、伸篤が毛布を肩に掛けて座っていた。膝の上には紙片の束。彼は顔を上げ、声を出さずに目だけで「行くの?」と聞いた。

  孝太郎が頷くと、伸篤は毛布を畳み、紙片を一枚だけ抜いて、春花へ差し出した。言葉はない。けれど、差し出す指先が震えていない。

  春花は受け取り、胸の前で握った。

  「ありがとう。……行こう」


  キッチンの入口では、智香里が鍋の火を見ていた。沸騰する寸前の湯が、音を立てるのを待っている。

  「今、行くって言った?」

  智香里は振り向かずに言った。振り向いたら、決意が漏れるのが嫌なのかもしれない。

  翔夏子が一歩近づき、はっきり言った。

  「時計塔。青い粉が落ちた。あと一押し。智香里の一行が要る」

  智香里は鍋の火を止め、手を洗った。水が冷たくても、顔色は変えない。

  「要るって言われたら、行く。……要らないって言われたら、もっと腹立つし」


  八人が揃ったのは、久しぶりだった。丸テーブルの上に紙を置き、孝太郎が言った。

  「今夜……じゃない。今朝、得点は関係ない。鍵穴が聞きたいのは、当てっこじゃない」

  春花が紙片を並べ、一本の鉛筆を真ん中に置いた。

  「一行だけ。誰かに渡す言葉。嘘はいらない。……でも、怖かったら、手が震えてもいい」

  智香里が鉛筆を取り、紙に短く書いて、すぐ裏返した。誰にも見せない。伸篤も同じように一枚を書き、マグカップで端を押さえた。


  ノブヤが水筒を抱えたまま、口を尖らせた。

  「なあ、ココアさ……没収、まだ?」

  孝太郎は首を傾け、わざと真面目な声を出した。

  「没収は、鐘が二回鳴ったら」

  春花が笑って、肩が揺れた。笑いが出ると、朝の冷えが少しだけ遠のく。


  春花は紙片をまとめ、指で端を揃えた。八人分の一行が重なると、紙は軽いのに、手の中で確かな重さになる。

  「これ、私が持って行く」

  孝太郎は「うん」とだけ言った。短い返事なのに、迷いが混じっていない。


  窓の外で、空が少しだけ明るくなった。雪はまだ残る。道路もまだ塞がっている。

  それでも、八人の間だけは、戻り道が一本、はっきり見えていた。



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