第34話 午前零時五分、五枚の紙片が行き先を変える
一月六日の午後十一時五分。時計塔の影は雪の上で細く折れ、扉の前に立つ二人の足先だけを黒く染めた。
孝太郎は、春花が手渡した紙片をポケットに入れたまま、指先で上着の縫い目をなぞっていた。口に出した「迷ったって言っていい」が、まだ喉に残っている。出し惜しみした言葉ほど、後から熱くなるのはずるい。
春花は扉を見上げ、青い粉が落ちた鍵穴へ、息をかけないように唇をすぼめた。吐く息が白い線になって、鍵穴へ触れたら何かが壊れそうだったからだ。
そのかわり、春花は自分の手袋の指先を、そっと孝太郎の袖口に当てた。触れるのは一瞬。自分が触れたことだけは、確かめたい。
そのとき、雪を踏む音が四つ増えた。
「おーい、二人とも。寒くない? いや寒いよね。質問が間違ってた」
ノブヤが息を切らし、両手で抱えた水筒を持ち上げた。蓋を開けると、甘いココアの匂いがする。夜更けの匂いが、食堂の自販機の前に戻ったみたいに変わる。
「持ってきたの、ココアだけ?」
孝太郎が言うと、ノブヤは胸を張ってうなずいた。
「あと、紙。いや、紙は持ってない。紙はみんなが持ってるやつだよね?」
口が先に走って、本人が後から追いかける。ノブヤは自分で自分に焦って、笑ってしまい、笑いが白い湯気になった。
「夜に甘いものは、頭が回りやすい」
弥風が杖代わりの本を抱え、時計塔の雪の段差を一段ずつ確かめながら来た。ページの角に青いしおりが差さっている。孝太郎はその色を見て、鍵穴の青い粉を思い出す。
量大は最後に来た。走っていないのに、肩だけが上下している。胸の前でノートを抱え、指で開く場所を何度も探しているのが見えた。
「あの、さっき……自分、見直した。今のままだと、また同じことする」
言い切ってから、量大はノートを閉じた。決めたあとなら、紙の束も静かになる。
そして、翔夏子が遅れて現れた。ブーツの踵で雪を払って、時計塔の前に立つ。誰も「来たの?」とは言えない空気を、彼女が先に踏み割った。
「鍵穴の粉、落ちたんでしょ。落ちたなら、何か足りないってこと。足りないなら、埋めればいい」
春花は思わず笑いそうになった。言い方が大きいのに、足元の雪を踏む音だけは慎重で、転ばないように小さく力を入れているのが分かる。
五人が揃っても、扉は黙ったままだ。
ノブヤが水筒の蓋を置く場所を探し、雪の上に置いて、すぐ拾い直した。置いた途端に沈んだからだ。
「ごめん、雪ってさ、受け止める顔して受け止めないよね」
孝太郎はその言い方が可笑しくて、口の端だけ上げた。春花も、つられて肩が揺れた。笑いが出ると、寒さの芯が少しほどける。
弥風が本を閉じ、皆の顔を順に見た。
「扉に鍵を当てる前に、私たち、何を当てた?」
量大が答えるより早く、翔夏子が手袋の指で自分の胸を叩いた。
「ここ。言いたいことを飲み込んだまま、鍵だけ当ててた」
言い終わると、翔夏子は自分で少し驚いた顔をして、すぐ咳払いでごまかした。
春花は首のマフラーを握り、ほどけない結び目を指で確かめた。ほどけないのに、ほどきたくなる。自分の中の結び目も同じだ。
「……あのね。紙片、まだある。私だけじゃなくて、みんなも」
言った瞬間、孝太郎のポケットが重くなる気がした。自分の中だけで守っていた一行が、外へ出たからだ。
量大がノートの間から、折りたたまれた紙片を取り出した。折り目が何度もついている。
「これ……誰に渡すか、決められなかった。決めるのが怖いって、書いてある」
量大は紙片の角を押さえ、息を吸ってから言い直した。
「怖いって、書かれてるのに、書いた人は逃げてない。だから、渡さないままは……違う」
ノブヤも上着の内側から紙片を取り出した。勢いで出したせいで、雪に落ちそうになり、慌てて両手で受け止める。
「俺の、これ。読んでいい? いや、読むっていうか……渡す。誰にだろ。え、みんな見てるよね?」
翔夏子が顎で孝太郎を指した。
「孝太郎。こういうとき、黙って受け取ってくれる顔してる」
孝太郎は否定しようとして、春花の紙片を思い出し、口を閉じた。黙って受け取るだけで終わるのは、もうやめる。
「俺も、渡す相手、決めた」
孝太郎はポケットから紙片を出した。春花の字は、雪の白さより温かい。紙を広げると、風が一瞬だけ強くなり、五人の間を抜けた。
孝太郎は春花の方へ向けて、紙片を指で挟んだ。
「これ、俺が持ってるの、ずるいなって思った。だから返すんじゃなくて……今は、ここに置く」
孝太郎は紙片を自分の胸に当て、そこから春花の胸の前へ差し出した。手を離さない。春花が受け取るまで、離さない。
春花は手袋を外し、素手で紙片を受けた。指先が冷たくて、紙の繊維がはっきり分かる。
「迷ったって言っていい」
春花がもう一度言うと、孝太郎は笑ってしまった。笑い方は小さいのに、肩は軽い。
「うん。迷ってる。今夜、扉を開けたいのか、開けたあとに何が見えるのかが怖いのか、分かんない」
言いながら、孝太郎は自分の手袋を外し、冷たい空気に手のひらを晒した。
「でも……春花の言葉を受け取ったまま、何もしないのは違う。俺は、今夜、ここにいるって決める」
その一言で、量大の肩がすっと下がった。弥風が小さく頷き、ノブヤは「決めたって言った」と口の中で繰り返した。翔夏子はそっぽを向いたまま、雪を蹴っている。蹴った雪が靴の先に当たって、彼女の口元だけが緩んだ。
弥風が一歩、鍵穴へ近づいた。鍵を差し込む手ではなく、紙片を持つ手で。
「扉に当てるのは鍵じゃない。ここにいる人に当てる」
弥風はそう言って、自分の紙片を春花へ渡した。春花は受け取り、紙片の一行を目で追う。声には出さない。代わりに、頷く。
量大は紙片をノブヤへ渡した。ノブヤは受け取ってから、すぐ読み上げず、紙を胸に当てた。ココアの匂いが、紙に移りそうだった。
「……明日、謝るじゃなくて、今夜言う。って書いてある」
ノブヤは言いながら、自分の肩を叩いた。逃げない合図みたいに。
翔夏子は最後まで紙片を握ったまま、黙っていた。誰も急かさない。時計塔の影が、少しずつ形を変える。時間は進むのに、急がない。
翔夏子がふいに孝太郎へ紙片を差し出した。
「受け取って。私が誰かに言うと、たぶん大げさになる」
孝太郎は受け取り、紙片の一行を読んだ。短い。けれど、息が止まるほど重い。
「……『私のせいにしていいから、戻って来て』」
翔夏子は耳まで赤くなる前に、ココアの水筒を指した。
「ほら、冷める。飲んで」
逃げ道を自分で用意しながら、言葉だけは置いていく。孝太郎は紙片を胸に当て、ゆっくり頷いた。
その瞬間、鍵穴の青い粉が、今度は二粒だけ落ちた。雪の上で青が小さく光る。
誰も歓声を上げない。代わりに、五人の呼吸がそろう。
扉の向こうから、かすかな鐘の音が一回だけ鳴った。
まだ開かない。けれど、開く前の音だと分かる。
春花は紙片を握り直し、孝太郎の袖口へ指先を当てた。今度は一瞬じゃない。離さない。
孝太郎はそのまま、扉に背を向けずに言った。
「今夜は戻ろう。明け方、もう一回、ここに来る。午前六時二十分。遅れたら、ココア没収で」
ノブヤが即答した。
「え、没収!? それは困る。俺、絶対来る!」
笑い声が、時計塔の影を少しだけ短くした。




