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冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


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第33話 春花は初めて“渡す相手”を選ぶ

 一月六日の午後四時。寮の食堂は、雪で閉じた窓の向こうを忘れるくらい、スープの匂いで満ちていた。鍋の蓋が少し浮いて、湯気がふわっと逃げるたびに、ノブヤが「今の湯気、俺の腹にも入ってほしい」と言って、翔夏子にトレイで小突かれている。


  丸テーブルの上には、昨日の紙片が八枚。智香里が角を揃え、弥風が「これ、古文書みたいでワクワクする」と言い、量大が「折り方、統一しよう」と鉛筆で図を描き始めた。伸篤は、紙片が風で飛ばないように、端にマグカップを置いて押さえる。カップは空っぽなのに、そこにあるだけで重しになる。


  孝太郎は当番表の紙を広げ、春花の名前の横に小さく丸を付けた。丸を付ける手つきが、夜の得点表をつけるときと同じで、春花は目線を外した。胸の内側が、昨日の湯気の残りみたいに熱い。


  「紙片さ、どうする?」

  翔夏子が先に口を開いた。椅子を引く音みたいに、言葉も前へ出る。

  「捨てるのなし。燃やすのもなし。……ここまで書いたの、もったいない」


  ノブヤがすぐに手を挙げた。

  「じゃあ俺が集めて、学園内郵便やる。投函箱作る。配達員、制服っぽいの着る」

  「制服っぽいのって何」

  智香里の真顔が刺さり、ノブヤは慌てて自分のマフラーを指した。

  「これ。……配達員っぽくない?」

  「ただのマフラー」

  翔夏子が言い、弥風が「切手も要る?」と本気で聞いて、量大が笑いをこらえるように口元を押さえた。


  孝太郎はノブヤの言葉をいったん拾ってから、場に置いた。

  「『渡す』ってことだよね。うん。箱に入れて渡すのもありだし、直接渡すのもあり。……ただ、誰に渡すかは、選ぶ必要がある」

  最後の「選ぶ」で、孝太郎の視線が一瞬だけ泳いだ。自分の紙片に書いた「今はこっち」が、テーブルの上で静かに乾いている。


  春花は、紙片を指でなぞった。自分の字は、線が少し揺れている。揺れているのに、読める。揺れているから、書いた手がそこにいたと分かる。

  「迷ったって言っていい」

  声に出すと、胸の奥に小さな穴が開いて、そこから冷たい空気が入りそうで、春花は慌てて唇を噛んだ。


  「春花、今、声に出した?」

  孝太郎がすぐに気づく。途中で切らない声。

  春花はうなずきかけて、首を半分だけ振った。答えの形が決まらない。


  量大が、紙片の裏に小さく番号を書き始めた。

  「配るときに混ざると困るから、裏に印を……」

  弥風が「私、封筒、作る」と言って紙を探し、ノブヤが「封筒って、恋文っぽい」と言い、翔夏子が「恋文って言うな」と即座に止める。止めたのに、耳が少し赤い。


  春花は、また靴ひもを結び直した。結び目はほどけていないのに、指だけが勝手に動く。指が動くと、足が動かない。

  目の前の紙片は、渡すためにある。昨日、孝太郎がそう言った。

  渡す相手を、選ぶ。

  選ぶと、そこに自分の矢印が生まれる。矢印が生まれると、逃げられなくなる。


  「……外、見てくる」

  春花はそう言って立ち上がり、トレイも持たずに食堂を出た。背中に、翔夏子の「寒いから上着!」が飛んできて、春花は反射でコートを掴む。掴んでしまったから、戻れない。


  寮の廊下は、窓の結露が凍って白い。足音が吸われるように小さくなる。春花は紙片をポケットに入れたまま、指で何度も角を確かめた。紙の角は、指先を少しだけ痛くする。その痛みが、今ここにいる証拠みたいだった。


  旧校舎へ続く渡り廊下の前で、春花は止まった。理由は言えない。けれど、息が一度だけ軽くなる方向がある。

  「こっちじゃない」

  昨日までなら、そう呟いて引き返していた。でも今日は、引き返すのが怖い。怖いのに、行かないのも怖い。


  背後で、毛布が擦れる音がした。振り返ると、伸篤がいた。廊下の端に立って、春花の手元を見ている。

  伸篤は何も聞かず、毛布を一枚、春花の腕に掛けた。掛けるとき、指がかすかに震えたのが見えた。自分の指は震えても、相手の肩は冷やしたくない、みたいな動きだった。

  「……ありがとう」

  春花が言うと、伸篤は頷いて、ただそれだけで戻っていった。背中が遠ざかるほど、廊下が広くなる。


  春花は毛布の端を握り、旧校舎へ向かった。渡り廊下の窓から見える時計塔は、雪に縁取られて輪郭が薄い。あの扉は石では開かなかった。なら、何で開くのか。

  春花はポケットの紙片を押さえた。紙は石より軽い。軽いのに、胸が重い。


  時計塔の前に、孝太郎がいた。手袋を外し、鍵穴の周りを布で拭いている。青い粉が、布に淡い筋を残していた。

  孝太郎は春花の足音に気づき、振り返る前に声を出した。

  「春花?」

  名前だけ。呼ばれたら、戻れる。昨日の言葉が、体の内側で反射した。


  春花は、口を開いて閉じた。息が白くなる。白い息の向こうで、孝太郎の眉が少しだけ上がる。

  孝太郎は急かさない。代わりに、手袋を片方だけはめ直して、片方の手を空けた。受け取る手。逃げない手。


  「……嘘」

  春花は言って、自分で驚いた。まだルールに頼っている。

  「私は、帰れたら……ここを、すぐ忘れる」

  言葉が落ちた瞬間、孝太郎の肩がわずかに揺れた。笑いを探す揺れじゃない。確認する揺れだ。


  「ほんとう」

  春花は、今度は目を逸らさずに言った。毛布の端を握った指が白くなる。

  「私、ここに来て……良かった」

  「『ここに来て良かった』ってことだね」

  孝太郎が復唱して、笑った。笑ったのに、すぐに目を伏せた。雪の上に落ちた自分の呼気を見ているみたいに、視線が下へ沈む。


  春花はポケットから紙片を出し、孝太郎の空けた手にそっと載せた。載せた瞬間、紙片が風で飛びそうになり、孝太郎が指で端を押さえる。指が重なるほど近いのに、触れているのは紙だけだ。


  孝太郎は紙片の文字を読んだ。

  「迷ったって言っていい」

  声に出してから、孝太郎は自分の胸を軽く叩いた。叩いたのは冗談の合図にも見えたし、痛みを確かめる動きにも見えた。

  「……それ、俺に言ってくれるんだ」

  春花はうなずいた。迷ったとき、言える相手。言っても、笑ってくれる相手。笑うだけじゃなく、ちゃんと聞いてくれる相手。


  孝太郎は、自分のポケットから別の紙片を出した。昨日、指で叩いたやつだ。紙片の角が少し曲がっている。

  「俺のも、渡していい?」

  春花は、返事の代わりに両手を前に出した。孝太郎はそこへ紙片を置く。置くとき、わざと落としそうなふりをして、春花の反射を引き出す。

  春花が慌てて掴むと、孝太郎が「ナイスキャッチ」と小さく笑った。笑いは軽いのに、胸の奥に落ちて重く残る。


  春花の手の中の紙片には、こう書いてあった。

  「“どっちでも”じゃなくて、“今はこっち”」

  春花はその文字を見て、また靴ひもを結び直したくなった。けれど、今日は結び直さない。代わりに、息を吸って吐いた。


  時計塔の鍵穴の青い粉が、風で一粒だけ舞った。舞った粉は、二人の間を横切って、雪の上に落ちる。何も起きない。扉も開かない。

  それでも、春花の胸の内側で、何かが少しだけ動いた。言葉が、相手の手に渡った。それだけで、戻れる道が一本増えた気がした。


  遠くで、食堂の窓が開く音がして、ノブヤの声が飛んできた。

  「おーい! 配達員、準備できた! 切手は弥風が作った!」

  翔夏子の「切手作るな!」が重なり、量大の笑い声が風に混ざる。


  孝太郎は肩をすくめ、春花に言った。

  「行こ。……寒いし」

  春花はうなずき、毛布の端をもう一度だけ握ってから、孝太郎の隣に並んだ。並んだだけで、足音が二つになる。



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