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冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


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第31話 時計塔の扉、開かない

 翌朝――と言うには、まだ夜の匂いが残っていた。一月五日の午前五時前。寮の廊下の窓ガラスは、外の暗さをそのまま貼り付けたみたいに黒い。


  春花は玄関の段差でしゃがみ、靴ひもを結び直した。結び目をきゅっと締め、ほどけないようにもう一度だけ指を通す。立ち上がると、息が白くなって自分の鼻先に戻ってきた。


  「寒い、って言う前に、顔が痛い」

  翔夏子が小声で言い、手袋の上から頬を押さえた。言い終わった直後、彼女は自分で笑いそうになって、唇だけを引き結ぶ。笑うと息が漏れて凍りそうだからだ。


  「顔が痛い、って言ったら、寒いって言ったのと同じだよ」

  孝太郎が、わざと真面目に返す。

  「同じじゃない。痛いは痛い」

  翔夏子は反論しながら、ランタンを掲げた。……が、点かない。押しても押しても点かない。

  「え、電池……」

  「昨日、“予備を買いに行く”って言ったの、誰?」

  智香里が静かな声で言い、翔夏子は肩をすくめた。

  「買いに行った。自販機に。……売ってなかった」

  「雪の中で電池を売る自販機、強すぎない?」

  ノブヤが、笑いの温度だけを置く。誰も声を大きくしなかったけれど、胸のあたりが少し軽くなった。


  弥風は布包みを胸に抱え、歩幅を小さくしていた。布の中には、昨夜ぴたりと溝が合った青い欠片が入っている。彼女の視線は欠片ではなく、先にある時計塔の輪郭に刺さっていた。

  量大はノートを開き、ページの端に「落とさない」「凍らせない」「手順を省かない」と三行だけ書き足した。書き終えると、ペン先を帽子のつばに当てて、深く一回うなずく。


  伸篤は最後尾にいて、誰かの足が沈むたびに、その背中が倒れない位置にだけ自分の足を置いた。転びそうな気配が出ると、言葉ではなく、肩の高さを少しだけ寄せて支えた。


  旧校舎へ続く渡り廊下に入ると、雪の音が消えた。代わりに、古い板の床が、ぎし、と一度だけ鳴る。湿った木の匂い。壁の冷たさ。春花は左手の手袋を外しかけ、慌てて戻した。触れたら、理由が口からこぼれそうだった。


  時計塔の扉は、想像より低い位置に鍵穴があった。大人の背丈でも、少し腰を落とさないと覗けない。扉の表面は、夜の暗さと同じ色の鉄で、触れた指先から熱を奪っていく。


  「やるよ」

  翔夏子が一歩前に出て、布包みを受け取ろうとした。

  弥風が、首を振る。

  「私が持って来た。最後まで、持つ」

  「落としたら泣くって言ったの、翔夏子だよ」

  孝太郎が言うと、翔夏子は「泣く」とだけ返して、手袋の指をきゅっと握った。


  孝太郎は、春花の横に立った。

  「怖かったら言え」

  昨夜の言葉を、そのままもう一度。春花は返事の代わりに、口の中で息を整える音を小さく鳴らした。


  弥風が布をほどき、青い欠片を掌の上で転がす。月明かりの代わりに、八人のスマートフォンの光が、欠片の縁を白く縁取った。欠片の溝は、たしかに鍵穴の形に似ている。似ている――のに。


  欠片を当てた瞬間、金属が「カン」と冷たく鳴った。音だけが、扉の奥へ吸い込まれていく。

  「……入った?」

  ノブヤが聞く。

  弥風は「入った」と言い切らず、もう一度角度を変えた。入る。けれど回らない。押しても、引いても、扉は一ミリも動かない。

  翔夏子が歯を食いしばり、肩で扉を押した。動かない。

  量大がすぐに口を開く。

  「力の問題じゃない。……ここ、欠片の先が当たって止まってる」

  「当たってる?」

  孝太郎が復唱すると、量大は頷いた。

  「溝は合う。でも、深さが足りない。二つじゃなくて、もう一つ……」

  言いかけて、量大はノートに視線を落とした。自分が言っていることが、点数みたいに誰かを追い詰めると気づいたのだ。


  春花は扉の前で息を吸い、吐いた。白い息が鍵穴を覆って、すぐに消える。

  その消えた場所に、春花は言葉を置いた。

  「鍵は、石じゃない」

  声は小さいのに、鉄の扉の前では、なぜかはっきり聞こえた。


  孝太郎は、すぐに問いを返した。

  「石じゃない、って。……じゃあ何だ」

  言い終えてから、孝太郎は自分の声の硬さに気づき、少しだけ喉を鳴らした。怒っているわけじゃない。ただ、答えが欲しい。


  春花は唇を噛んだ。上唇の端が白くなる。手袋の指先が、靴ひもの結び目を探して、見つけられないまま宙をさまよった。

  「わかんない。……でも、これで開く気がしない」

  言い切った直後、春花は目を伏せた。言葉にした瞬間、皆の期待を雪の上に落としたみたいで、拾い方が分からない。


  沈黙を破ったのは、伸篤だった。彼はポケットから小さな保温ボトルを出し、春花の手袋の上にそっと当てた。

  温かさが指先から伝わると、春花の肩が、ほんの少しだけ下がった。


  智香里が扉を見上げ、言った。

  「開かないなら、戻る。凍えるのは、別の話」

  言い方はきっぱりしているのに、智香里は最後に一歩だけ春花へ近づき、ボトルを持つ手元を見て、それ以上は言わなかった。


  ノブヤが、空を見た。

  「ほら。夜が終わる。……終わるって言うの、悔しいけど」

  その一言に、翔夏子が「悔しい」と同じ声量で返す。弥風は欠片を布に戻し、布の端を結び直した。結び目がほどけないように、指を二回通す。春花と同じ動きだった。


  帰り道、渡り廊下の床がまた、ぎし、と鳴った。さっきより少しだけ明るい。空の色が、黒から濃い紺へ移っていく。


  孝太郎は春花の横を歩きながら、言葉を探していた。探して、見つけたのは、質問ではなく確認だった。

  「今の、“石じゃない”ってやつ。……そう思ったんだな」

  春花は頷いた。小さく、確かに。

  「うん。たぶん、誰かが石に頼りたくて、頼れなくて、残した噂」

  そこまで言って、春花は言い直す。

  「噂じゃなくて……置き忘れた言葉」


  孝太郎はそれを復唱しないまま、ただ「そっか」と言った。返事が短いのに、春花は少しだけ息を吐けた。


  寮の玄関が見えたとき、翔夏子が突然、ランタンをもう一度押した。今度は、ぼんやり点いた。

  「遅い!」

  叫びそうになって、翔夏子は口を押さえた。代わりに肩を震わせる。ノブヤが「遅刻ランタン」と名付け、量大がノートに「電池は温める」と書き足し、弥風が「次は私が持つ」と言い張った。


  玄関マットの上で、八人は靴底をこすり、雪を落とした。落ちた雪は白い砂糖みたいに散って、すぐに黒い水に変わる。

  翔夏子が勢いよく足を振ったせいで、ノブヤのズボンのすそが濡れた。

  「おい、俺の足に冬が来た」

  「冬はもう来てる!」

  翔夏子は小さく突っ込み、口元を押さえて笑いを飲み込む。笑いが蒸気になって逃げそうだった。


  食堂に入ると、ストーブの音が、夜の静けさを丸く割った。量大が椅子を一つ引き、背もたれに布包みを掛けた。弥風はそれでも不安で、布包みが落ちない角度を何度も直す。

  孝太郎は棚から紙コップを出し、ポットの湯を注いだ。茶色い粉を入れると、甘い匂いが立ち上がる。

  「ココア、飲む?」

  問いかけは皆に向いているのに、孝太郎の視線は春花の手元にだけ落ちていた。


  春花は受け取って、手袋のままコップを包んだ。温かさが、硬い指先をほどいていく。

  「……ありがと」

  その二文字だけで、春花の喉の奥が少し痛んだ。さっき、扉の前で噛んだ唇の跡が、まだ残っている。


  孝太郎は得点表のノートを開き、鉛筆を持った。いつもなら夜九時の図書館で書くはずの線を、今ここで引きかけて、止めた。

  「今日の結果、書くとしたら……“開かない”だな」

  ノブヤが「赤点」と言いかけ、智香里が「点数の話は後」と目だけで止める。量大はそれを見て、鉛筆の先を折らないように、指の力を抜いた。

  笑いながら戻ってきたのに、胸の奥には冷たい鉄の感触が残っている。春花は手袋の上から指を握り、鍵穴の形を思い出した。

  開かなかった扉は、まだそこにある。

  でも、開けるのは石じゃない――その言葉だけは、もう引き返せなかった。



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