第3話 ノブヤの一杯だけ危ない話
「私、今日ここに来る前に――」
春花の声は、天井の古いランプに吸い込まれるみたいに細くなった。八人の視線が集まる。けれど春花は、丸テーブルの木目の一点だけを見つめたまま、言葉の続きを探している。
孝太郎は急かさないように、息をひとつだけ長く吐いた。
「……春花。『嘘ひとつ、ほんとうひとつ』って、混ぜるの難しいよね。今、混ざり具合を調整してる感じ?」
春花の肩が、ほんの少しだけ上下した。うなずきなのか、震えなのか、判別がつかない。
翔夏子がホワイトボードに向けて鉛筆の腹をこつこつ鳴らした。音はせかすためじゃなく、空気が固まらないようにするための合図みたいだった。
「ねえ、春花。無理なら次でもいいよ。点数とか、逃げないし」
智香里が言って、言い終わったあと自分の言い方が硬かったのに気づいたのか、唇をいったん結んだ。伸篤が何も言わず、春花の手元へ毛布を少し寄せる。春花は毛布の端をつまんで、指先を隠した。
ノブヤは肘で自分のコップを倒しかけ、慌てて受け止めた。からん、とスプーンが鳴る。
「……今の、嘘。ほんとうは、倒してない」
誰も笑わないはずなのに、量大が「採点不能」と小さく言って、弥風が吹き出した。笑いが一回だけ回って、テーブルの上が少しだけ柔らかくなる。
ノブヤはその隙を見て、両手を上げた。
「じゃあさ。俺、先に話していい? 春花、あとでゆっくりで。俺、危ない話、一本ある」
「危ないって言うと、危なくなるからやめて」
智香里が即座に返す。ノブヤは「はい、危なくない」と言い直して、胸ポケットから小さなメモを取り出した。そこには何も書いていない。
「旧校舎の自販機でだけ、温かいココアが出る。……嘘ひとつ、ほんとうひとつ、混ぜるとこうなる」
翔夏子が椅子を引く音を響かせて身を乗り出した。
「旧校舎の自販機? そんなのあるの?」
弥風が「見たい!」と即答し、量大は眉間に指を当てて「温かいの条件が限定されてるのが怪しい」と呟いた。孝太郎は復唱して確認する。
「旧校舎の自販機でだけ、温かいココア。ノブヤ、それが嘘か、ほんとうかは、まだ言わないってこと?」
「言わない。言ったら祭りにならない。……で、俺の話の続き。あの自販機、夜しか反応しない」
「夜しか反応しない自販機って、だいたい壊れてる」
翔夏子が真顔で言って、皆がまた笑った。ノブヤは笑われたのに救われたみたいに肩をすくめる。
「ほら。今、笑った。笑った人は、だいたい足が動く。行こうぜ。見て、当てよう。外、雪だけど」
窓の外は、街灯の光がぼやけるほど白い。終業式の名残の紙袋が隅に積まれ、冬休みのはずの夜が、なぜか学校の夜のまま続いている。
翔夏子が先頭に立った。「行く」と言うより先に、もうコートを着ている。智香里は懐中電灯を二本持ってきて、一本を伸篤に渡した。伸篤は受け取って、電池の向きを確かめるだけで頷く。弥風は年鑑を抱えかけて、量大に「今は置く」と止められた。
玄関を出ると、雪は音を吸う。靴が沈むたび、きゅ、と湿った音がする。孝太郎が最後尾で人数を数え直すと、春花がすぐ後ろにいて、息を白くしていた。
「寒い?」
「……寒いけど。ここ、空気が、違う」
春花はそう言って、手袋の上から自分の指を握った。理由は言わない。言えないのかもしれない。孝太郎は「うん」とだけ返し、歩幅を合わせた。
旧校舎へ向かう小道は、昼に誰かが通った形跡が薄く残っている。翔夏子がその上を踏んで道を作り、弥風が後ろで「足跡、列!」と嬉しそうに言う。ノブヤは「列って言うと、行進みたいで怖くなる」と言いながら、結局列の真ん中で喋り続けた。
「ほんとに温かいココアだったらさ、俺、明日から雪かき当番、率先する」
「言質とった」
量大が即座にメモを取るふりをする。智香里が「雪かき当番は当番表どおり」と言って、弥風が「当番表、去年の書き込み、面白いよ」と余計な情報を足す。皆の声が白い息と一緒に上に消えていく。
旧校舎の影が見えてきた。窓は黒く、時計塔の方角だけ、雲の切れ目の向こうで、ほんの一瞬、深い青が灯った気がする。
春花が立ち止まりかけた。伸篤が振り返り、何も言わずに懐中電灯の光を春花の足元へ落とした。春花はその光の中を一歩進む。
旧校舎の入り口は閉まっていたが、外壁沿いに回ると、屋根の下に古い自販機が一台、雪よけのように立っていた。ノブヤが得意げに近づき、ボタンを押す。
……反応しない。
翔夏子が別のボタンを押す。反応しない。
智香里が「押し方が雑」と言って、指先で丁寧に押す。反応しない。
量大が「電源」と呟き、下の配線を覗き込む。雪が積もっていて、見えない。
弥風が「じゃあ、温かいココアは嘘だね!」と勝ち誇った声を出し、ノブヤが「待って待って、まだ俺の話、終わってない」と慌てた。
孝太郎は自販機に手を当てた。金属は指先が痛くなるほど冷たい。春花も同じように手を当て、すぐ離した。
「冷たい。……ここ、来ないほうが」
春花が小さく言った瞬間だった。
壁の向こう、誰も触れていないはずの場所で――“カタン”。
コップを置くような、硬い音がひとつだけ鳴った。
八人の足が、同時に止まる。雪の音だけが戻ってくる。ノブヤは喋り続けるはずの口を閉じ、代わりに喉が鳴った。
翔夏子が懐中電灯を壁に向ける。光は、古い木板の隙間に吸い込まれて、奥まで届かない。
「……誰かいる?」
智香里の声が、さっきより低い。伸篤は懐中電灯を少し下げ、足元の雪を照らした。そこにあるのは、八人分の足跡だけだ。新しい足跡はない。
量大が息を吸い、吐き、落ち着いたふりで言った。
「機械の中で、缶が落ちただけかもしれない。温度の問題で――」
「温度の問題で落ちる缶、怖くない?」
ノブヤが、ようやくいつもの調子を取り戻そうとして冗談を言う。翔夏子が「じゃあ、もう一回押す」と言って、ボタンを押した。
今度は、じ、と小さな振動が指先に返ってきた。自販機の奥で何かが動き、もう一度、“カタン”。
取り出し口に、一本の缶が転がり出た。
「出た!」
弥風が飛びつきかけて、智香里に肩を押さえられる。缶の表面には薄い霜が張っている。誰が見ても冷たい。ノブヤは缶を持ち上げ、耳に当てた。
「……温かいココアじゃない。冷えっ冷えの……ココア」
翔夏子が笑い、量大が「条件が違った」と真面目に言い、弥風が「でも出た!」と喜ぶ。孝太郎は皆の笑い声の隙間で、春花の顔を見た。
春花は、笑っていなかった。缶を見て、壁を見て、時計塔の方角を見て、唇を噛んでいる。まるで、自分だけ別の音を聞いたみたいに。
伸篤が春花の手元に自分のカイロを置いた。春花は受け取らず、指先で触れて、ようやく息を吐いた。
「……ノブヤ。嘘は、温かいココア。ほんとうは――出る、ってこと?」
孝太郎が問いかけると、ノブヤは缶を振って首を横に振った。
「まだ、当てさせてよ。俺の嘘とほんとう、もう一個ある」
そう言って、ノブヤは缶の側面を指でなぞった。薄い霜の下に、小さな青い線が一本だけ走っている。誰かがペンで引いたみたいな、不自然な線。
弥風が「それ、校章?」と覗き込み、量大が「印刷じゃない」と呟いた。翔夏子は「持ち帰ろう」と言って、智香里が「勝手に持ち帰るのは――」と言いかけて止まる。誰も正しい手順を知らない夜だった。
孝太郎は缶をノブヤから受け取り、手袋の上からその青い線を確かめた。冷たさは変わらないのに、なぜか指先だけが熱を持つ気がする。
「図書館に戻ろう。点数の話は、戻ってから。……春花、歩ける?」
春花は一瞬だけ迷って、うなずいた。足跡の列の最後尾に戻り、懐中電灯の光を見ながら歩き出す。雪の夜の空気が、さっきより少しだけ薄くなった気がした。
旧校舎の窓は、相変わらず黒い。けれど時計塔の窓だけは、誰にも見られない隙を狙うみたいに、深い青を一瞬だけ灯して、すぐ消えた。
ノブヤはその青を見ていないふりをしながら、缶を抱えて言った。
「な。危なくない話だろ。……一杯だけ、ちょっとだけ、変なだけ」
誰かが「一杯だけ、って言い方が一番怪しい」と言って、皆が笑った。春花も遅れて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
図書館へ戻る途中、孝太郎は心の中で点数表の空欄を思い浮かべた。嘘とほんとう。勝者はひとり。けれど今夜の足跡は、八つ並んでいる。
その事実だけが、なぜか救いのように温かかった。




