第29話 ノブヤの“好き”がこぼれる
一月三日の夜十一時、旧校舎の図書館は、外の雪よりも静かだった。丸テーブルの上に、伸篤が置いたポットの湯気だけが、ゆっくり天井へほどけていく。
孝太郎が裏返した得点表は、白い面を向けたまま動かない。誰も、もう一度ひっくり返そうとはしなかった。智香里のカップの縁に、まだ指の跡が残っている。
ノブヤが椅子の背に上体を預け、わざとらしく大きく息を吐いた。
「はいはい。じゃあ今夜は、何を競えばいいんですかね。点数がないと、俺、どこに逃げれば」
言いながら、彼は胸の前で両手を広げた。逃げ道を探すみたいに。
翔夏子がマフラーを首に巻いたまま、指でテーブルを叩く。
「逃げなくていいんじゃない? 逃げ道、雪で埋まってるし」
「うわ、雪の例えが刺さる」
ノブヤは笑ってみせたが、笑いの下に、少しだけ息が引っかかった。
弥風は年鑑の山から一冊を抜き、背表紙の青い粉を布で払った。布の上に落ちた粉は、深い海の色をしている。
「決まりは、なくさない。ひとつ混ぜるのは続ける」
淡々と言い、弥風は視線だけでノブヤを促した。
量大が、カップを持ち替えながらうなずく。
「嘘とほんとう。続ける。聞く側も、当てなくていい。外しても、笑っていい」
言い終えると、彼は智香里の方へ目を向け、何も言わずに小さくうなずいた。智香里は眉を上げて「はいはい」と返し、口の端を少しだけ上げる。
春花は、そのやりとりを見ながら、膝の上で指先を擦った。九時の始まりの緊張と違って、今は、胸の奥に小さな火が残っている。火を消すように、いつも言葉を飲み込んできたのに。
孝太郎が軽く咳払いをし、ノブヤに顔を向けた。
「じゃ、今夜の語り手。名乗ったやつから。……ノブヤ、さっき逃げ道って言ったろ」
「え、俺、指名されてる?」
「逃げる前に、座れ」
孝太郎の言い方が柔らかくて、ノブヤは観念したように背筋を伸ばした。
「じゃあ、いきます。今日の俺の話は――」
ノブヤは指を一本立て、すぐに二本に変えた。
「嘘ひとつ、ほんとうひとつ。……でも今日は、当てなくていいって言われたから、先に言う。外したら笑え。笑わなかったら俺が泣く」
翔夏子が肩を揺らす。
「泣いたら負けって言ってたの、智香里だよ」
「だから俺が泣けば、智香里が勝つ。ほら、平和」
ノブヤは自分で言って自分で照れ、耳を掻いた。
「中学のとき、俺、学級委員だった。クラス全員をまとめて、先生に褒められて――」
ここで、孝太郎がすかさず手を挙げた。
「はい、そこ嘘」
「早いって! まだ半分も言ってない!」
ノブヤは抗議しながらも、みんなの反応を確かめるみたいに目を動かす。笑いが起きると、ほんの少し肩の力が抜けた。
「……ほんとうは、俺、学級委員は一回もやったことない。手を挙げるタイミングが遅いんだよ。みんなが『はい』って言った後に、俺だけ『あ、はい』ってなる」
春花が思わず口元を押さえた。想像が簡単すぎて、声が漏れそうになる。
「で、話の続き。俺は、人が集まってるのが好きだ。教室でも、食堂でも、廊下でも、誰かの声があると、安心する。……なのに」
ノブヤはテーブルの木目を見つめ、指先で線をなぞった。
「誰かが怒ったり、誰かが泣いたりすると、俺は一歩下がる。『まあまあ』って言って、笑ってごまかして、いなくなる。……いなくなったら、空気が軽くなるだろって思ってた」
量大が、湯気の向こうから静かに言った。
「軽くなる?」
「……軽くなる、と思ってた。ほんとうは、ただ怖いだけだった。面倒が怖い。誰かに『お前のせい』って言われるのが怖い。だから、先に消える」
翔夏子が前のめりになる。
「で? その話の嘘はどこ?」
「待て待て。嘘は、次の場面で出す」
ノブヤは椅子を少しだけ寄せた。輪の中心に、自分から近づく動きだった。
「この学園に取り残された初日さ、俺、夜の図書館にひとりで忍び込んで、時計塔に行った」
言い切った瞬間、翔夏子が両手を叩いた。
「嘘! 絶対嘘!」
智香里も乗る。
「あなた、階段のきしみ音で引き返すタイプでしょ」
ノブヤが「ひどいな」と言いながら、口角だけ上げた。否定しない。
「正解。嘘。時計塔までなんか行ってない。俺が行ったのは、図書館の奥の、棚と棚のすき間」
そう言うと、ノブヤは自分の上着の内ポケットから、小さな紙包みを出した。包みを開くと、角砂糖みたいな白い飴が二つころんと転がる。
「……それ、どこから」
春花の問いに、ノブヤはわざと胸を張った。
「図書館の“秘蔵庫”。俺、甘いもんがないと考えられない人間なんで」
「さっき、学級委員の話で胸張ってたのと同じ張り方だな」
孝太郎が突っ込むと、ノブヤは「胸だけは立派なんだよ」と返し、笑いがまた広がった。
伸篤が無言で紙皿を差し出し、ノブヤはその上に飴を置いた。伸篤の指が、飴に触れないように、ぎりぎりで止まる。細かい気遣いが、いつものままだった。
「棚のすき間にさ、古い毛布が置いてあった。誰かが前に、ここでこっそり寝てたんだと思う。そこ、埃っぽいのに、ちょっとだけ……本の匂いが甘いんだよ」
ノブヤは言葉を探すように、唇を軽く噛んだ。
「で、俺、そこが好きになった。誰にも見られないのに、誰かがここにいた感じがして。……さみしくない感じがして」
弥風が年鑑の背表紙を指で押し、青い粉を見せる。
「その毛布、青い粉、付いてた?」
ノブヤは一拍置いて、うなずいた。
「付いてた。だから、俺、言うか迷った。言ったら、みんなが動くだろ。動いたら、何かが起きるだろ。……面倒が怖い、っていうやつ」
智香里が飴を一つつまみ、舌の上に乗せた。
「今、言ってるじゃん」
「今は、点数がないから」
ノブヤは笑って、でもすぐに目をそらした。点数がなくても、目をそらす癖だけは残る。
孝太郎が、机の白い得点表に指先を置いた。
「点数がなくても、言え」
短い言い方だった。命令じゃないのに、背中を押す音がした。
ノブヤは、息を吸って、吐いた。外の雪の冷たさが、窓ガラスを通して頬に届く。けれど、テーブルの周りは、湯気と飴の甘さで、ほんの少しあたたかい。
「……俺さ」
ノブヤは、誰の顔も見ないまま言った。
「ここが、好きだ」
言った瞬間、本人がいちばん驚いたみたいに目を見開いた。それから、慌てて笑った。
「うわ、言っちゃった。今の、なんだ。俺、告白してる? 図書館に?」
翔夏子が腹を抱えた。
「告白は相手を選べ!」
智香里が「でも相手が図書館なら安全」と口を尖らせ、量大が小さく笑う。弥風は年鑑を閉じ、ゆっくり頷いた。
春花は、その一言が胸の奥に落ちるのを感じた。好き、と言うだけで、空気が変わる。怖いと言いながら言ったから、余計に、嘘が混ざらない。
孝太郎がカップを持ち上げ、ノブヤに向けて軽く掲げた。
「じゃあ乾杯。……ここが好きなやつが一人増えた」
「増えたって言うな。人数カウントで照れる」
ノブヤは耳まで赤くして、笑いながらカップを持ち上げた。
伸篤が静かにポットを傾け、春花のカップにも少しだけ足した。湯気が立つ。春花はカップを両手で包み、指先の熱を確かめた。
言っていいんだ、と春花は思った。迷ったときに「こっち」と言うだけじゃなくて。外れたときに笑うだけじゃなくて。心の中に置きっぱなしの言葉も。
春花は口を開きかけ、いったん閉じた。代わりに、白い得点表の端を指でそっと押す。紙がほんの少し動き、角がそろう。
「……私も」
小さく漏れた声は、湯気に紛れそうだった。けれど、孝太郎が目だけで「聞こえた」と言った。春花は、頬が熱くなるのを誤魔化すように、カップを持ち上げる。
窓の外では雪が同じ速さで降り続けている。図書館の丸テーブルの上だけ、今夜は、言葉が落ちても割れなかった。




