第28話 智香里の“強さ”が崩れる瞬間
一月三日の夜十時前、図書館の窓は白い息を吐くみたいに曇っていた。丸テーブルの上には、ココアの粉がこぼれた跡と、濡れたマフラーの端が並んでいる。昨日の勝負服を乾かそうとして翔夏子が椅子の背にかけたせいで、布がやけに主張していた。
ホワイトボードには得点表が残っている。名前の横に、数字が並ぶ。差は小さくて、目で追うだけで胸がざわつく。点数なんて、ただの遊びだと笑いながら、誰かが勝つのを想像すると、みんな少しだけ真剣になる。だからこそ、今夜も集まってしまう。
「見て。乾いてない。負けてないけど、重い」
翔夏子が腕を回すと、袖がずしりと落ちる。ノブヤが笑いをこらえきれず、口元をマフラーで隠した。
「それ、服が雪に抱きつかれてるやつだ」
「抱きつかれたのは私じゃない。服だ」
笑いが一度広がって、すぐに小さくなる。量大がボードの端の磁石を直角にそろえ直し、春花はその手元を見てから、自分の指先を膝の上で握り直す。孝太郎は鉛筆をくるりと回し、テーブル中央の得点用メモを指で押さえた。
「じゃあ、今夜の語り。次は――」
「私」
智香里が、椅子を引く音を立てないまま手を挙げた。いつもなら先に口を出す翔夏子が黙っている。智香里の声は、乾いた紙を折るときみたいに迷いがなかった。
智香里はカップの縁を親指でなぞりながら、皆を順番に見た。視線が一周するとき、春花のところでほんの少し止まり、すぐ孝太郎へ移った。孝太郎はその視線を受けても笑わない。笑わないほうがいい夜があるのを、彼も最近知ってしまった。
「ルール、確認。嘘ひとつ、ほんとうひとつ。みんなは当てる。外したら一点。――泣いたら負け」
言い切った直後、智香里は自分の言葉に笑ってみせようとして、うまく口角が上がらなかった。息を一度吸って、二度目はゆっくり吐いた。机の端に置いていた小さなメモ帳を開く。そこに、畳まれた紙片が挟まっている。以前、孝太郎が拾ってしまって、端の文字だけ見えてしまった紙だ。
伸篤が、何も言わずに椅子を一つ引き寄せた。距離は変わらないのに、智香里の視界の端に「逃げ道」が増えた気がした。伸篤は湯気の立つポットをテーブルに置き、カップの底が鳴らないよう、指先でそっと支える。
「まず嘘」
智香里は紙片を見ないまま言った。
「うちの冷蔵庫、三台ある。全部、氷ばっかり入ってる」
「いやそれ、何保存してんの」
ノブヤが反射で突っ込みかけて、智香里の目が笑っていないのを見て言葉を飲み込んだ。代わりに、カップの縁を指で回しただけだった。翔夏子も笑わず、喉の奥で「ふん」と鳴らした。
孝太郎が、いつもの調子で拾い直す。
「氷ってことは、冷たいのが好きってことか。……いや、好きじゃないか」
言い直した瞬間、場に小さな隙間ができる。智香里はその隙間に、ちゃんと落ちない笑いを置き、すぐ引っ込めた。
「ほんとうはね」
智香里は、紙片を指でつまんだ。畳み目がきれいすぎて、折った回数まで覚えていそうだった。
「うちの冷蔵庫、一台。氷入ってない。入れる余裕がないから。――その代わり、冷凍庫に、謝りたい言葉が入ってる」
春花が小さく息を止めた。智香里は、笑いを足さなかった。足したら、こぼれる気がした。紙片の端には、短い言葉がいくつも並んでいる。丸文字で「ごめん」。その下に「だいじょうぶ」。さらに下に、線で消された「たすけて」。
「私、冬休みって、家で休むものだと思ってた。小さいころはそうだった。お雑煮があって、テレビがあって、父が、酔ってても笑ってて」
智香里は「酔ってても」のところで、唇を強く結んだ。目線を上げず、紙片に書かれた行を追う。
「でも、去年から違う。父、倒れた。病院と家を行ったり来たりで、働けなくなった。薬の名前とか、保険の紙とか、難しい漢字ばっかりで、私が読んで説明する。母は昼も夜も働いて、帰ってくると、声がなくなる。弟は小さくて、妹は泣く。私が泣いたら、二人が泣く。だから――泣いたら負けって、言った」
翔夏子が椅子の背を握った。握った指が白くなっているのに、口は動かない。ノブヤは笑いを作れず、代わりにテーブルの上の消しゴムを端へ寄せた。量大の鉛筆が止まり、ノートのページだけが、ぱらりとめくれた。
智香里は、紙片を一度置き、両手でカップを包んだ。温かさが逃げないように。逃げたら、手が震えるのを見られてしまうから。
「学校ではさ、私が強いってことになってるじゃん。言い切る係。止める係。勝つって言う係」
自分で言って、少しだけ苦い顔になる。
「でも家だと、私が強いふりをしないと、家が崩れる気がして。母が『ごめんね』って言うたびに、私が『大丈夫』って言わないと、あの人、ほんとに倒れる」
「ねえ、私、ここに残ったの、最初は腹が立った。バスが止まって、家に帰れなくて、母に電話もつながりにくくて。なのに」
声が、ほんの少しだけ引っかかった。紙を押さえる指が、ぎゅっと机をつかむ。
「なのに、ここは、静かで。夜が、ちゃんと夜で。誰かが笑って、誰かが毛布を貸して、当番表が回って。……私、楽だと思った。楽だって思った自分が、最低だと思った」
春花が何か言おうとして、言葉が見つからないまま、胸の前で指を絡めた。孝太郎は鉛筆を置き、得点表の紙を裏返した。白い裏面が、突然、まぶしい。
「家に帰ったら、また私が強くいないといけない。強い言葉を言って、冗談を言って、泣かない顔をして。……でも、今だけ」
智香里は顔を上げた。目が赤いのに、涙は落ちない。落としたら負けだと言いたいのに、口がその言葉を拒んだ。
「今だけ、負けてもいい?」
しんとした沈黙が、雪の重さみたいに降りた。伸篤が、智香里の隣に毛布をそっと置いた。置いただけで、押しつけない。智香里は毛布に触れず、指先で紙片の端をなぞった。
量大が立ち上がり、当番表の紙を取り出した。自分のノートの間に挟んでいたものだ。彼は消しゴムで静かに文字を消し、別の名前を書き足す。書き足したのは、智香里の翌朝の雪かきの欄の横だった。そこに、量大の名前が移る。
「……なにしてるの」
智香里がかすれた声で言う。
量大は顔を上げず、鉛筆の芯を少しだけ削った。
「朝、手順変える。負担、分ける。今日の話、聞いたから」
翔夏子が鼻を鳴らして、笑いに似た音を出した。
「負けてないじゃん。おまえ、すぐやるのずるい」
「ずるくない。改善」
ノブヤが、やっと息を吐いた。
「……智香里、最低じゃないよ。楽だって思うの、普通だ。むしろ、ちゃんと楽だって言えたの、えらい」
「えらいって言うな。ほめられると、逃げたくなる」
智香里が小さく言って、初めて、口元だけが笑った。笑った瞬間、溜めていたものがほどけて、頬に一粒だけ落ちた。
その一粒を見て、翔夏子が急に顔をしかめた。
「それ、反則だろ。泣いたら負けって言ったのに」
智香里は指で頬をぬぐい、濡れた指先を見つめた。
「……負けた」
言った途端、肩が少しだけ落ちた。落ちたぶんだけ、息が通った。
孝太郎が、裏返した得点表を指で押さえたまま言った。
「今日は点数なし」
翔夏子が「は?」と口を開きかけて、孝太郎の目を見て閉じた。孝太郎は続きを足さない。足さないことで、場を守る。
春花が、ゆっくり頷いた。言葉の代わりに、机の上の紙コップを智香里のほうへ少しだけ寄せる。智香里はその動きを見て、もう一度深呼吸した。呼吸の音が、図書館の静けさに溶ける。
伸篤がポットを少し傾け、智香里のカップに足りない分だけ注いだ。湯気が立ち、甘い匂いがふわりと戻る。
「……母に、電話しなきゃ」
智香里がぽつりと言うと、ノブヤが勢いよく頷いた。
「公衆電話、あったよな? 職員室の前。俺、場所覚えてる」
「走ったら滑る」
量大が即座に言って、ノブヤの足元を見た。ノブヤは「走らない、歩く」とすぐ言い直す。
「私も行く」
春花が立ち上がりかけて、スリッパの先を揃えて座り直した。行きたいのに、急に立つのが怖い。それでも視線だけは外さない。孝太郎が短く頷き、椅子の脚を静かに引いた。
窓の外では、雪が同じ速さで降っている。けれど、テーブルの上だけ、何かがほどけて、温度が少しだけ上がった。点数の列が消えた分、ここには、名前だけが残った。




