第27話 翔夏子の勝負服、雪に負ける
一月三日の午後、玄関の段は孝太郎が言ったとおり滑りやすかった。スコップが石に当たる乾いた音のあと、雪がさらさらと落ちる。手袋の内側が少し湿っても、孝太郎は止めなかった。段の端を指でなぞって、凹んだところを埋め直す。誰に頼まれたでもないのに、そこだけ念入りだ。
廊下の窓からその様子を見ていた春花は、靴ひもを結び直しかけて、手を止めた。息で曇ったガラスに掌を当て、何か言いかけて、結局言わずに離れる。代わりに、乾いたタオルを二枚抱えて玄関へ向かった。
「はい」
孝太郎が振り返る前に、タオルが差し出される。孝太郎は一拍遅れて笑い、額の汗を拭いた。
「ありがとう。……段、これで今日は大丈夫」
春花は頷くだけで、タオルの端を指でつまみ直した。指先が赤い。
「冷たくない?」
「冷たい。だから、戻る」
言い切って、春花は踵を返した。孝太郎は「うん」と返してから、もう一段だけ、雪を落とした。
その場面を、翔夏子は階段の途中で見ていた。丸めたメジャーを手の中でくるくる回し、ふっと鼻を鳴らす。
「……ふーん。今日は、雪かきが勝負なのね」
隣で、量大が雪かき用の手順表を見直しながら言う。
「勝負にするなら、手袋の替えが必要です。湿気で握力が落ちます」
「わかってる! だから、今夜は別の勝負で取り返す!」
翔夏子は寮の自室へ駆け戻り、クローゼットの奥から一着を引っぱり出した。肩にかけるだけで気分が上がる濃い色の上着。袖口のボタンは光りすぎず、でも負けない。鏡の前で一度、椅子を引く音と同じ勢いで肩を回し、首をすっと伸ばす。
「よし。これで、今夜は点数を……」
言い切る前に、窓の外で風がうなった。細かい雪が斜めに流れ、窓枠の隙間から冷気が入り込む。翔夏子は気づかないふりをして、上着を羽織ったまま廊下へ出た。
夜九時。図書館の丸テーブルには、湯気の立つココアと、智香里のノートと、弥風が拾ってきた古い年鑑が並ぶ。伸篤は暖房の吹き出し口の向きをそっと変え、誰にも言わずに椅子の背に毛布を一枚掛けた。
最後に扉が開き、翔夏子が入ってくる。入った瞬間、全員の視線が揃って止まった。
上着が、妙に重そうだったのだ。布が水を含んで、肩が少し沈んでいる。歩くたびに裾が遅れて揺れ、本人の勢いに追いついていない。
「……な、なによ」
翔夏子は胸を張った。けれど胸を張った分だけ、上着がずるっと前へずれ、首元がひやりと開く。
ノブヤが堪えきれず、笑いを漏らした。
「いや、すげえ。勝負服って、勝負に勝つための服だと思ってたけど……負けに来てる?」
「負けてない! これは、重厚感!」
「重厚感って言いながら、肩、落ちてるぞ」
量大が真顔で指摘し、智香里が思わずペンを落とした。
「翔夏子、肩のライン、今日、曲がってる」
翔夏子は鼻で笑って、わざと大きく椅子を引いた。引いたはずなのに、椅子が動かない。上着の裾が椅子の脚に引っかかっていた。引っかかった瞬間だけ、翔夏子の頬が赤くなる。次の瞬間には「ふん」と言って、力任せに引き抜いた。
「雪って、湿っぽいんだよ。……ほら、見て。袖が、重い」
弥風が袖口をそっと触り、「ほんとだ」と小さく驚く。指先で布をつまみ、光に透かしてみる。
「湿気で繊維が寝てる。こういうの、旧校舎の廊下でも起きるよ。石の壁、冷えるから」
伸篤が何も言わず、壁際の棚から乾いた布を一枚取り出して、翔夏子の背中へ差し出した。翔夏子は受け取らず、顎だけで拒否する。
「借りたら負け」
言ったのは、ノブヤのマフラーを見たときだった。ノブヤが首から外して、半分だけ伸ばしている。
「いや、これ、別に勝負じゃなくて……ただの布」
「布でも負け。借りたら負け。私は自分の装備で勝つ」
「装備って言い方、点数表みたいで怖いな」
ノブヤはそう言いながら、笑いのまま一歩近づいた。翔夏子が後ずさると、上着がまた重く揺れ、今度は自分の足首に絡む。ぐらりと傾いたところで、ノブヤの手が伸び、肘のあたりを支えた。支えたあと、すぐ離す。触れたことを誤魔化すみたいに、ノブヤは軽く咳払いをした。
「ほら。勝ち負けじゃなくて、転ぶか転ばないか。……転んだら、点数どころじゃない」
翔夏子は唇を尖らせた。尖らせたまま、結局、ノブヤのマフラーを奪い取るようにして巻いた。
「……これは、借りてない。預かってる」
「預かってるなら、返してくれたら俺の勝ちだな」
「返したら私の負けじゃん!」
「じゃあ、返さなきゃいい」
ノブヤが言うと、翔夏子は一瞬だけ黙った。黙ったあと、マフラーの端を握りしめて、ぽそっと言う。
「……返す。ちゃんと返す。臭くしないし、伸ばさないし」
その言い方が、妙に丁寧だった。春花がふっと目を伏せ、孝太郎は笑いそうになって、口の端を押さえた。量大は「返却条件が具体的で良い」と頷き、弥風が「貸し借りって、案外ルールがあるね」と楽しそうに言う。智香里はノートの端に、マフラーの絵まで描き始めた。
翔夏子が椅子に座ると、さっきまで刺さっていた点数の空気が、少し丸くなった。ノブヤが自分の首の寒さを感じて肩をすくめる。その肩に、伸篤が毛布をそっと置いた。ノブヤは驚いて振り向いたが、伸篤はもう視線を年鑑へ戻していた。
孝太郎が点数表を机の端に置く。鉛筆はまだ握らない。
「じゃ、今夜の語りは……翔夏子、行ける?」
翔夏子はマフラーの結び目をきゅっと締め、顎を上げた。
「行けるに決まってる。……雪なんかに負けてたまるか」
翔夏子の話は、二年前の一月三日、同じくらい寒い放課後から始まった。体育館の倉庫で、舞台用の幕を一人で探していたこと。暗い倉庫で懐中電灯を落として、床に転がる音だけがやけに大きかったこと。そこへ誰かが入ってきて、幕じゃなく、落ちた電灯を先に拾ってくれたこと。
「その人がね、私に言ったの。『椅子を引く音、派手だね』って」
言いながら、翔夏子はわざと椅子を少し鳴らした。今度は成功し、全員がくすっと笑う。
「で、私は言い返した。『派手じゃないと、始まらないでしょ』って」
翔夏子は続けた。倉庫の床には、忘れられた紙吹雪が少しだけ残っていたこと。拾い集めて、掌に乗せると、雪みたいに冷たかったこと。二人でそれを空に投げ、紙が舞い落ちるのを見て、なぜか笑ってしまったこと。
「そのとき、私、勝てるって思ったの。何にかは知らないけど、勝てるって」
孝太郎が頷き、春花が「何にか、って言い方」と小さく笑う。量大は「根拠がない自信は危険ですが、動力になります」と言い、弥風は「動力、いいね」と目を輝かせた。
話の最後、翔夏子は言った。
「……嘘ひとつ、ほんとうひとつ。嘘は、紙吹雪を投げたこと。ほんとうは、電灯を拾ってくれたこと。……拾ってくれたのが、ノブヤだったってこと」
ノブヤが「えっ」と声を上げた。記憶を探る顔をして、すぐに笑って誤魔化す。
「いや、俺、そんなロマンチックなこと、できたっけ」
翔夏子は肩をすくめた。湿った勝負服はまだ重い。でもマフラーが、首元をあたためている。
「できた。私が覚えてる。……だから、返す。借りたものも、拾われたものも」
春花が年鑑を閉じ、静かに手を叩いた。伸篤が同じ速度で一度だけ手を叩く。智香里はノートに何かを書き足し、量大は「嘘の位置が明確」と真面目に言った。弥風は「今夜、笑ったから、明日はまた探せる」と言って、目を細めた。
孝太郎は点数表の上に鉛筆を置いたまま、言った。
「当てるのも、外すのも、今夜は軽くでいい。……マフラーの話、当てたら寒くなるしな」
ノブヤが「俺の首のこと気にしてくれ」と笑い、翔夏子が「返したら巻けばいいじゃん」と返す。言い合いの間に、丸テーブルの上の湯気が少し濃くなった。
窓の外では雪がまだ降っている。けれど、図書館の中は、誰かの貸した温度であたたかかった。




