第25話 春花の直感が外れる
一月一日の夜九時。食堂の窓に貼った結露が、指でなぞると薄い道筋になった。鍋の残り汁を温め直した匂いが、廊下の奥まで届いている。
元旦の夕食は、弥風が台所にあった餅を数え、ノブヤが「数え方で年齢バレるぞ」とからかって、智香里が「バレないように一個だけ少なく盛る」と真顔で返した。翔夏子は「少なく盛るのは負け」と言いながら、自分の椀にだけ餅を二個入れていた。
春花は、箸を持つ手を止めたまま、窓の外の白さを見ていた。山の闇に雪が溶けて、距離の感覚がなくなる。ここに来てから、景色が急に「同じ」に見える瞬間がある。そのたびに、胸の奥が小さくざらつく。
「行くなら、今だよね」
翔夏子がマフラーをぎゅっと巻き直し、手の甲で鼻をこすった。ホワイトボードの得点表は、裏向きのまま壁に立てかけてある。点数が見えないだけで、空気の角が丸くなるのを、孝太郎は何度も確かめるように見た。
「昨日は倉庫までで戻った。今日は——」
量大がノートを開く。昨日のページには、クリップで挟んだ紙が一枚増えていた。『基点』『戻る』『二人で確認』。字は小さいのに、迷いは少ない。
「今日は、時計塔の方へ繋がる廊下を探す。……でも、無理なら引き返す」
量大が言い切る前に、春花が小さく手を挙げた。指先が白い。湯気の上がるスープを持ったまま、迷いながら口を開く。
「……私、分かるかも。こっち、って」
弥風が目を輝かせる。「匂いか?」と身を乗り出した。春花は頷きそうになって、途中で止めた。説明を探しているうちに、言葉が薄くなる気がしたのだ。
孝太郎は、春花の手元を見た。スープ椀の縁を親指で何度も擦っている。熱さをごまかす動きにも見えるし、落ち着かせる癖にも見える。
「じゃあ、今日は春花が先頭で。……いや、先頭は危ないか。二番目で」
孝太郎が言うと、翔夏子が「二番目って、いちばん判断いるじゃん」と笑った。春花は笑い返そうとして、口角が途中で止まった。
旧校舎の扉は、相変わらず重い。押すと、湿った木の匂いが一気に流れ出した。廊下の窓ガラスには、外の雪が貼り付いたように白い。足音が、同じ場所で二回鳴る。壁が音を返すせいで、人数が増えたみたいに聞こえる。
「ここ、右」
春花が言った。弥風が地図を開く前に、量大がペンライトで床を照らした。床板の継ぎ目に、昨日つけた小さなチョークの点が残っている。戻る線の目印だ。
「右だと、理科室の前を通る」
弥風が言い、ノブヤが「理科室って、なんか急に怖い名前だよな」と軽口を叩く。伸篤が無言でノブヤの足元へ視線を落とし、滑り止めが剥がれていないか確かめる。ノブヤはそれに気づいて、靴紐を結び直した。
曲がった先の廊下は、机が壁に寄せられていた。天板に積もった埃が、ライトの輪で銀色に浮く。翔夏子が腕を伸ばして机を避けようとした瞬間、量大が「触らない」と短く言った。机の上に置かれた古い薬瓶が、かすかに揺れている。
春花は、その揺れを見ていない。視線はもっと先、廊下の奥の暗さに吸い込まれていた。
「……こっち。階段がある」
春花が言い、左手の壁に沿って歩き始めた。孝太郎は、その背中の小ささに、なぜか息を整えたくなる。焦ってはいけない、と自分に言い聞かせる。
角を二つ曲がり、扉の並ぶ短い通路を抜けた。扉の札は、文字が薄れて読めない。最後の扉の前で春花が止まり、ノブヤが「当たり?」と囁いた。
春花は頷いて、取っ手に手をかけた。
……開かない。
鍵が掛かっているのではなく、向こうに何かが当たっているみたいに、途中で止まる。翔夏子が「貸して」と前に出て、肩で押した。扉は、きしむ音だけを残して動かない。
弥風が地図を覗き込んだ。紙の端を指で押さえ、線を辿る。次に、顔を上げて、廊下の端を見た。
「……ここ、端だ。行き止まり」
言葉が落ちた瞬間、春花の顔から血の気が引いた。雪の白さが、肌に移ったみたいに見える。春花は何か言おうとして、喉の奥で音が詰まった。
「ごめ——」
謝りかけた春花の言葉を、智香里が途中で切った。切ったというより、手を伸ばして、春花の肩にぽん、と触れただけだ。叩くほど強くない。けれど春花は、その手に引き戻されたみたいに、瞬きをした。
「外れる日もあるよ」
智香里は、言い終えてから一度深呼吸した。自分の胸の中を整える癖の呼吸だ。吐く息の白さが、ライトに照らされて薄く広がる。
春花は笑おうとした。けれど、口角が上がる前に震えて、結局、息だけが漏れた。笑いの形にならない音。
孝太郎は、その音が耳に残るのを嫌がるみたいに、ぱっと手を叩いた。
「じゃあ今日は俺が当てる。……って言っても、俺、廊下の名前、ぜんぶ『廊下』に見えるんだけど」
ノブヤが吹き出した。「それ、国語の答案でやったら先生泣くやつ」と言い、翔夏子が「泣かせたら点数入る?」と悪い顔をする。量大が「点数表、裏」と言って、わずかに口元を緩めた。笑いが、壁の反響で少しだけ大きくなる。
孝太郎はポケットから十円玉を取り出し、親指ではじいた。金属の回転がライトの輪で一瞬だけ光って、床板の隙間へ吸い込まれるように落ちた。
「当たる前に消えた」
ノブヤが笑い、翔夏子が「それ、人生」と言って肩をすくめる。伸篤は無言でしゃがみ、床板の隙間を覗き込んだ。指を突っ込まず、代わりに弥風が持っていた細い定規を借り、そっと押し出す。十円玉は、ころん、と春花の靴先に転がってきた。春花は慌てて拾い、両手で握った。冷たさが、手のひらにじんと残る。
春花は、笑いの輪の端で、もう一度だけ「ごめん」と言いかけた。孝太郎はそれを許さないみたいに、扉の取っ手を指で弾いた。
「ここ、開かないってことはさ。誰かが閉めたってことだよね。じゃあ、閉めた人の理由がある。理由があるなら、何か残ってる」
弥風が「理由、好きだ」と言って、懐中電灯を床へ向けた。床板の端に、細い溝がある。溝の中に、何かが挟まっている。智香里が紙を一枚取り出し、指先でつまんだ。
古いメモ用紙だった。鉛筆の字が滲んでいるのに、ある一文字だけが濃い。
『塔 へ は —— 青 を 持 て』
「青?」
翔夏子が声を上げる。弥風が「青い欠片」と呟き、量大が鞄の中を確かめる。布に包んだ冷たい感触が、確かにそこにある。
行き止まりの廊下は、進めない。けれど、戻る線の上で拾った紙は、進むための言葉だった。
春花は、メモを見つめたまま、そっと自分の胸元へ手を当てた。外した直感が、全部まちがいにならないように、何かを押さえるみたいに。
孝太郎は春花の横に立ち、声を落とした。
「外れてもいい。……外れたって言えるのが、いちばん強い」
孝太郎はそう言ってから、自分で恥ずかしくなって咳払いをした。強い、なんて言葉を軽く使うと、誰かの重さを奪う気がしたからだ。だから最後に付け足す。
「ほら。戻る線、あるし」
量大がチョークの点を照らし、全員が頷いた。雪はまだ止まない。けれど、行き止まりで拾った紙が、足元を少しだけ温めていた。




