第24話 量大は“勝つ方法”より“戻る方法”を選ぶ
十二月三十一日の夜。食堂の窓ガラスが白く曇り、外は同じ景色を何度も塗り直したみたいに雪が降り続いていた。
図書館の丸テーブルには、弥風が描いた旧校舎の地図が広げられている。曲がり角の角度、階段の段数、廊下の幅まで、妙に細かい。模造紙の端が、誰かの息でふわりと持ち上がる。
「これで迷わない。たぶん」
弥風が言うと、翔夏子が椅子の背を叩いた。
「たぶん、って言葉、今夜はいらない。行けるなら行く。勝てるなら勝つ」
ホワイトボードの得点表は、昼に孝太郎が裏返したまま壁に立てかけてある。点数が見えないだけで、みんなの背中から細いトゲが抜け落ちた気がした。
「……勝つって、何を?」
ノブヤが笑いで逃げる癖を抑えきれず、口角を上げた。けれど、その笑いは途中で引っかかる。旧校舎の扉の向こうで鳴った“カタン”が、まだ耳の奥に残っているのだろう。
量大が、地図の上に指先を置いた。爪の先が紙を傷つけないように、そっと。
「勝つ方法より、戻る方法を先に決めよう」
翔夏子が目を細める。「戻る?」と短く繰り返しただけで、言い返さない。代わりに視線が、地図の赤い矢印の先へ走る。そこには、弥風が小さく書いた「青い粉?」の文字がある。
「今行けるんだよ。雪も止まってないし、朝になったら足跡だって消える」
翔夏子の言い方は、いつもみたいに堂々としていた。みんなを前へ引っ張る声。でも量大は首を振る。まるで、声の強さではなく足元の弱さを数えているみたいに。
「足を見て」
量大はそう言って、テーブルの下を指した。ノブヤのスニーカーはつま先が濡れている。昼間、雪を踏んで遊んだ名残だ。春花は紐が片方だけ緩み、結び目がやけに小さい。智香里は靴下の上に重ねたカイロがずれて、歩くたびにくしゃっと音がしそうだった。伸篤は黙っているが、指先が赤い。寒さに強いふりをしているだけだ。
孝太郎は、量大の言葉で自分の体にも気づいた。肩が上がって、呼吸が浅い。行きたい気持ちと、帰りたい気持ちが胸の中で綱引きをしている。いつもなら「どっちでもいい」で済ませるのに、今夜はそれが言えない。
「じゃあ、靴ひも結び直す。カイロも位置変える」
量大は命令口調ではない。淡々としているのに、逆らいにくい。弥風が先に頷き、模造紙を丸め直して鞄にしまった。
「地図は俺が持つ。戻る線を作る役、孝太郎。印を残す役、ノブヤ。翔夏子は——」
「先頭!」
翔夏子が即答する。量大は少しだけ間を置いてから、「二番目」と言った。翔夏子が「え」と声を漏らす。孝太郎が思わず笑いそうになるのを、咳払いで誤魔化した。
「先頭は弥風。地図の作者が、責任取る」
弥風が「責任って言い方」と笑う。笑ったことで、場の空気が柔らかくなる。春花はその笑いの輪に入り切れず、手袋の指先を握りしめた。未知の廊下に慣れたつもりでも、夜の旧校舎は別物だ。
旧校舎の扉は、押すとすぐに開いた。風が吹き込むわけでもないのに、冷たい空気が頬に触れる。廊下の奥は暗く、天井の非常灯だけが、緑色の薄い膜を張っていた。
「右、三歩で曲がる」
弥風が歩数を数え、量大が後ろで同じ歩数を追認する。ノブヤはポケットから持ってきた小さなクリップを、曲がり角の掲示板に挟んだ。銀色が灯りを拾って、控えめに光る。
「これ、戻るとき見える? 俺の存在感くらい薄いけど」
ノブヤが冗談を言い、智香里が「それ自分で言う?」と返す。笑いが小さく跳ねたところで、床がぎし、と鳴った。春花の足が止まる。
「……ここ、左の匂いが違う」
春花が言った。弥風が地図を見て、「左は倉庫だ」と答える。翔夏子が「倉庫なら当たりがありそう」と息を弾ませる。
扉の隙間から、青い粉のようなものが床に散っていた。孝太郎は一歩踏み出しかけて、量大の手が袖をつかむのを感じた。
「入るなら、戻る線をもう一つ増やしてから」
量大は壁に沿って、手すりのない階段の柱にビニール紐を結びつけた。寮の掃除当番で使う、余りものの紐。結び目は固く、ほどけにくい形だ。孝太郎は、いつの間にそんな結び方を覚えたのかと驚く。
「ここが基点。誰かが転んだら、ここまで戻る」
量大は言いながら、智香里の足元へ視線を落とした。カイロがずれている。量大はしゃがみ、無言でカイロの位置を直す。智香里が「自分でやれる」と言いかけて、口を閉じた。
倉庫の扉は、押すと重い。中は古い紙の匂いと、濡れた木材の匂いが混ざっている。棚の上に積まれた段ボールが、少しだけ傾いていた。
「落ちたら、点数マイナスどころじゃない」
孝太郎が言うと、翔夏子が「点数表、裏だよ」と笑う。笑いの向こうで、段ボールがかすかに揺れた。風はない。誰も触れていない。揺れたのに気づいたのは、孝太郎だけだった。
「行ける。あの奥、階段が——」
翔夏子が棚の隙間を覗き込み、前へ出ようとする。量大がその前に腕を差し入れ、止めた。
「今は戻る。ここまで来たことを、勝ちにしよう」
翔夏子が唇を尖らせる。「勝ちって言うなら、進めばいいじゃん」と言いそうな顔だ。でも量大は、棚の傾きを指差した。
「今進んだら、誰かが慌てて走る。走ったら滑る。滑ったら、戻れなくなる」
説明は短いのに、一本の道みたいに筋が通っていた。春花が小さく息を吐く。胸の奥のざわつきが、少しだけ静まる。
「……戻るって、負けじゃない?」
春花がぽつりと聞いた。声は小さいが、旧校舎の壁はよく響く。
量大は春花の方を見た。正面から見ない。横に立って、同じ方向を見る。春花の肩が少しだけ下がる。
「負けじゃない。戻れるって、次につながる」
その言葉は、嘘でも本当でもない。確認事項のように、淡々としているのに、胸の内側が温かくなる言い方だった。
帰り道は、行きよりも静かだった。クリップの銀色が、ちゃんと見える。ビニール紐の結び目も、ちゃんとそこにある。みんなの足取りが揃っているのが、少し可笑しい。
旧校舎の扉を抜けた瞬間、孝太郎の肺がやっと広がった。冷たいはずの空気が、妙に甘く感じる。
「量大」
孝太郎は、呼び止めるつもりもなく名前を口にした。量大が振り返る。いつものように、相手の言葉を待つ顔。
「助かった」
それだけ言うと、孝太郎は急に照れくさくなって、視線を外した。量大は「うん」と短く返し、鞄の中の地図を軽く押さえた。紙が折れないように。
寮へ戻ると、食堂の鍋から湯気が上がっていた。弥風が「戻る線、ちゃんと残った」と報告し、ノブヤが「俺のクリップも生きてた」と胸を張る。翔夏子は鍋の湯気をじっと見つめ、腕を組んだまま黙っていた。けれど靴を脱ぐときだけ、靴べらを使ってかかとを丁寧に外した。
春花はスープを両手で持ち、湯気越しに孝太郎を見た。言葉は出ない。でも、目の奥の硬さが少しだけほどけている。
量大は自分のノートを開き、今日の欄に短く書いた。
『勝つ前に戻る』
それは誰かを止めるための言葉ではなく、誰かを連れて帰るための線だった。窓の外では雪がまだ降っている。それでも、今夜は迷子にならずに済む気がした。




