第23話 弥風、旧校舎の地図を描く
十二月三十一日、午後二時。図書館の丸テーブルに広げられたのは、年鑑でも当番表でもなく、白い模造紙だった。弥風が両手で押さえ、端がくるんと巻き上がらないようにしている。
「今日の目的は、旧校舎の“迷い”を減らすこと。時計塔の扉まで行くとしても、暗くなってから走り回るのは危ない」
弥風はそう言いながら、鉛筆を耳に挟んだ。量大がノートを開き、太い字で『旧校舎 安全な道』と書く。孝太郎はその字を見て、いったん復唱する。
「安全な道、ね。勝つための近道じゃなくて、戻れる道」
量大が頷き、ノブヤが「今日の量大、急に先生」と笑う。翔夏子は椅子を引く音を大きく鳴らして立ち上がり、「じゃ、先頭は私!」と言いかけて、春花の足元を見た。
春花は靴ひもを結び直している。ほどけていないのに結び直している。指が冷えて、紐がうまく締まらない。春花は眉をひそめ、もう一度結ぶ。結び終えたころ、伸篤が黙って小さなカイロを差し出した。春花は一瞬止まり、受け取って掌で包んだ。ありがとうと言う代わりに、息を吐いてから小さく頷く。
「じゃあ行こう。明るいうちに、曲がり角と階段の数を全部取る」
弥風が模造紙を丸め、紐で結ぶ。まるで地図がまだ未完成なのに、完成品みたいに扱うのがおかしくて、智香里が「それ、巻き寿司みたい」と言った。弥風は「具は情報です」と真顔で返し、翔夏子が吹き出す。
旧校舎は、正門から少し外れた林の端にある。雪は昨日より細かく、風に流されて斜めに落ちていた。八人は長靴で踏み固められた道を歩き、扉の前で足を止める。金属の取っ手は冷たく、孝太郎が手袋のまま押すと、ぎい、と古い声が返ってきた。
中は、暖房の気配がない。空気が薄いというより、静かすぎて耳が詰まったみたいだ。翔夏子が「怖いのは苦手じゃない」と言い、言い終えてから自分の声が響いたことに照れて咳払いをした。ノブヤがすぐに「じゃあ怖くないように、俺が怖い話するわ」と言いかけ、孝太郎に「それ、逆だよ」と即座に止められる。
弥風は廊下の真ん中に立ち、腕時計を見る。秒針が一周するあいだに、壁の染みや窓の数まで数えそうな顔だ。弥風は膝を曲げ、床に目線を落とした。
「まず、入口から最初の曲がり角まで。歩幅は私で統一します。……いち、に、さん……」
弥風が歩くたび、靴底が乾いた音を立てる。量大がその後ろで同じ歩幅になるよう調整し、ノートに『入口→曲がり角 四十二歩』と書き込んだ。孝太郎は春花の横に並び、歩く速度を合わせる。春花は何も言わないが、指先が毛布の端ではなくコートの袖口を握っている。
曲がり角の手前で、春花がふっと立ち止まった。
「……右」
弥風は足を止め、振り返った。模造紙を抱えたまま目を丸くする。
「今、地図、見てないよね?」
「見たら……迷う」
「え、どういう理屈?」
春花は答えない。代わりに、冷たい壁に掌を当ててから首を振った。
「こっちじゃない、が、増える。だから……右」
弥風は一拍だけ迷った。しかし次の瞬間、鉛筆を耳から抜き、勢いよく頷いた。
「じゃあ右!」
翔夏子が「決断が早い!」と笑い、先頭に飛び出す。ノブヤが「待って、先頭は俺が――」と言いかけて、自分が危なそうなところに踏み込みたくない本音を思い出し、言葉を飲んだ。代わりに「転ぶなよ!」と叫ぶ。叫んだ直後に翔夏子が滑り、危うく尻もちをつきそうになった。
「転んでない! 今のは床が揺れた!」
翔夏子が言い張り、智香里が「床に責任押しつけるの、強い」と笑う。笑い声が廊下に転がり、古い窓ガラスに反射して戻ってきた。怖さが一瞬だけ薄くなる。
右に曲がって、また右。階段が現れる。段数を弥風が数え、量大が記録し、伸篤が最後尾で全員の足元を見る。孝太郎は途中で立ち止まり、春花に聞いた。
「今、右って言ったの、どこで分かった?」
春花は一度だけ眉を寄せ、言葉を選ぶみたいに唇を閉じる。やがて、短く言った。
「音」
「音?」
「……左は、空っぽ。右は、何かがある。……そういう、音がする」
孝太郎はその言葉を、心の中で繰り返した。空っぽの音、何かの音。自分には聞こえない。でも春花は聞いている。それなら、聞こえない自分ができることは一つだ。
「分かった。春花がそう言うなら、右」
その言い方は、軽口に似せた真面目さだった。春花がわずかに肩をすくめる。笑ったのか、寒さで震えたのか、孝太郎には判別できなかった。
階段を上がった先の踊り場で、弥風が急に立ち止まった。窓から差す雪明かりが、床の一角だけ淡く青く見える。弥風はしゃがみ込み、指で埃をなぞった。
「……ここ、誰かが何度も足を止めた跡がある」
量大が近づき、足跡の形を見た。伸篤が「滑り止めのゴム跡かも」と言う。ノブヤは「怪談の始まり?」と冗談を言いそうになり、さっきの“守れない夜”を思い出して、言い直した。
「……誰か、ここで迷って、戻ったんだろうな」
その言い方は、ふざけていない。春花が踊り場の壁に掌を当て、息を吐く。
「戻れたなら……いい」
弥風は模造紙を床に広げ、踊り場の形を描き込んだ。鉛筆の音が、雪の静けさに混ざって小さく響く。弥風は顔を上げ、皆を見回した。
「地図は、勝つためじゃなくて、戻るため。……今日の地図は、嘘が混ざらないように作る」
孝太郎が笑った。
「弥風が“嘘なし”宣言するの、珍しいな」
弥風は胸を張る。
「嘘は夜に使う。昼は安全第一です」
翔夏子が「昼も嘘つくけどね」と突っ込み、弥風が「昼の嘘は自己申告で点数マイナス」と真顔で返す。量大が思わずノートに『昼の嘘 -1』と書き、智香里が「それ採用するの?」と笑った。
八人はまた歩き出す。廊下の角で春花が止まり、今度は少し長く黙った。耳を澄ますように目を閉じ、指先で壁を二回叩く。それから、かすれた声で言う。
「……右。だけど……走らない」
翔夏子が「走らない!? 私の足がうずく!」と抗議し、春花は目を開けて首を振った。
「段差。……ここ、段差がある。走ったら、転ぶ」
孝太郎は即座に言った。
「じゃあ歩こう。転ばないほうが、早い」
その言葉に、翔夏子が一瞬だけ唇を尖らせたが、次の瞬間には「じゃ、早歩き!」と宣言して先に進んだ。早歩きの速さが、皆のちょうどいい速さになる。弥風はその背中を見て、口元だけ笑った。
夕方、図書館に戻るころには、模造紙には黒い線が増え、矢印が増え、階段の段数がびっしり書き込まれていた。弥風は机の上で地図を広げ、指で時計塔の方向を示す線を引く。
「明日、ここまでなら迷わない。……迷ったとしても、戻れる」
春花はその線を見ず、丸テーブルの縁を指先でなぞった。冷たい木の感触を確かめるみたいに。
「……戻れるなら、言える」
孝太郎が首を傾げる。
「何を?」
春花はすぐには答えず、カイロを握り直した。握り直してから、ようやく小さく言った。
「迷った、って」
その一言は、地図の線よりも細い。でも、線より確かに、皆の胸に残った。弥風が模造紙の端を押さえ直す。量大がノートを閉じる。ノブヤが湯気の立つカップを配る。伸篤が窓の外の雪を確認し、翔夏子が「夜九時、遅れるなよ」と言って肩で笑う。
夜はまた来る。嘘ひとつ、ほんとうひとつの時間も来る。けれど昼に描いた“戻る線”があるだけで、心の足元は少しだけ滑りにくくなった。




