第22話 ノブヤの回避術、通じない夜
十二月三十日、夜九時。図書館の時計が一度だけ低く鳴り、音が棚の背表紙を滑って丸テーブルへ落ちた。外は相変わらず雪で、寮の廊下の非常灯が窓にぼんやり映っている。昨日、孝太郎が裏返した点数表は、今夜はきちんと表を向いたまま置かれていた。裏返さなくても保てる空気にしたい——そんな願いが、紙の角に残っている。
翔夏子はストーブの前に椅子を引き、椅子の脚の位置を左右に二回だけ直した。量大は当番表の写しを広げ、火の元の確認欄に小さく丸を付けてから、ペンを閉じる。弥風は昨日の椅子の絵のコピーを折り畳み、胸ポケットに差し込んだ。伸篤は無言で湯呑みを配り、春花の前に置くときだけ、ほんの少しだけ速度を落とした。
ノブヤは最後に座った。座る前に、全員の顔を一周見てから、わざとらしく咳払いをする。笑わせ係、と自分で言った責任が、喉の奥に引っかかっている。
「はい、今夜の語り手、俺でーす。えー、ここで一つ、みんなが安心する情報を——」
言いかけて、孝太郎が先に言葉を置いた。
「『安心する情報』って、何? 聞く前に、ちゃんと聞く準備する」
孝太郎は相手の言葉を途中で切らない。けれど今は、途中で止めるのではなく、受け取る形を整えている。ノブヤは一瞬だけ助かった顔をして、すぐに誤魔化す笑いを足した。
「準備って、図書館でそんな構え方されると、俺が悪いこと言うみたいじゃん」
智香里が、湯呑みを持ち上げてから置いた。
「悪いこと言わないなら、変な前置きいらない」
翔夏子が「そうそう」と乗り、弥風が「前置きって嘘っぽい」と真面目に言う。ノブヤは三方向から同時に刺され、慌てて両手を上げた。
「分かった分かった。じゃあ普通に行く。ルールどおり、『嘘ひとつ、ほんとうひとつ』な」
量大が頷く。頷いた後、目線は紙に落ちず、ノブヤの顔の高さに残った。逃げ道を作らない視線だ。
ノブヤは深呼吸をして、語り始めた。
「今日の昼、旧校舎の廊下でさ。俺、青い粉、踏んだんだよね。足跡が青くなって、寮まで帰ったら廊下が青いスタンプだらけになって——」
ここで笑いが起きるはずだった。翔夏子は口角を上げかけたが、途中で止めた。智香里は目を細め、春花は毛布の端を掴み直す。昨日から続く刺の感じが、まだ残っている。
ノブヤは焦って、言葉を軽くしようとした。
「で、先生に怒られてさ。『青い足跡禁止』って新しい校則できた。……はい、これ嘘」
自分で嘘を宣言してしまったのが、今夜の失敗だった。笑わせるために嘘を短絡に使うと、空気が「逃げ」に聞こえる。ノブヤは言った直後に気づき、口の中が乾いた。
「ノブヤ」
量大が名前だけ呼んだ。叱る声ではない。呼び止める声だ。量大はペンを置き、机に指先を揃えた。
「今、笑いに変えようとしてるの、分かる。でも——逃げないで話そう。さっきの続き、ほんとうのほう」
逃げないで、という言葉が胸に刺さる。ノブヤは視線を泳がせた。棚、窓、ストーブ、点数表。どれにも逃げ場がない。最後に春花の顔を見てしまって、さらに困った。春花は何も言わず、ただ待っている。待つことができる顔だ。
ノブヤは笑おうとして失敗し、息だけが漏れた。
「……ほんとうはさ。俺、揉めるのが怖い」
その一言で、部屋の温度が少しだけ下がった。下がった分、言葉がよく聞こえる。
「俺、人と話すの好きなんだよ。声かけて、輪を作って、笑って。そうすると、自分もそこにいていい気がする。……でも、輪ってさ、ちょっとしたことで割れるじゃん」
弥風が息を呑んだ。翔夏子は拳を握って、机の端を一度だけ叩きそうになって、止めた。智香里は湯呑みの縁を指でなぞる。伸篤は背筋を伸ばし、ノブヤの言葉の間を邪魔しない。
ノブヤは続けた。続けるために、指先で自分の膝を一回叩く。
「家がさ、小さい店で。年末って、人が増えると、いろんな人が来る。文句言う人も、怒る人も、泣く人も。俺、子どもの頃から、そういうの見てきて……。だから、先に笑わせて、火種を小さくするのが癖になった」
孝太郎が、ノブヤの言葉を途中で切らず、終わりを待ってから、そっと復唱した。
「『先に笑わせて、火種を小さくするのが癖になった』。……うん。今夜、それが通じないって感じた?」
ノブヤは頷いた。頷きながら、目の奥が赤くなるのを誤魔化すみたいに、みかんの皮をむき始めた。皮が途中でちぎれ、白い筋が指にくっつく。
「通じないっていうか……俺が、今の輪を守りたいのに、守り方が雑になってた。点数が近くなって、みんなの声が尖って、俺、怖くなって。だから変な冗談言って……余計に尖らせた」
言い終えた瞬間、ノブヤの手が止まった。むきかけのみかんが、半分だけ裸になる。春花がゆっくり息を吐いた。胸の冷たさが、少しだけ溶ける音がした気がする。
翔夏子が立ち上がりそうになって、立ち上がらずに言った。
「守りたいなら、守りたいって言えばいいじゃん。……言わないで笑わせるの、ずるい」
ずるい、という言い方は強い。でも翔夏子の目は逸れていない。正面から言っている。ノブヤはその目を受けて、肩を落とした。
「ごめん。ずるかった」
智香里が、小さく笑った。鼻で笑うのではなく、息で笑う。
「謝れるなら、まだ大丈夫。……それに、私も強い言葉で守ったふりしてた」
量大が頷き、紙を一枚取り出して、点数表の横に置いた。
「じゃあ、今日の俺の提案。『外した人数が少ないほど高得点』は変えない。でも、当てる前に一回だけ、語り手に質問できる。……質問で守れることもある」
弥風がすぐに反応した。
「いい。質問で、嘘の場所を探すだけじゃなくて、ほんとうの場所も守れる」
孝太郎は点数表の端に小さくメモを書き、顔を上げた。
「じゃあ、今夜はノブヤの話、点数を付ける前に質問一個。……ノブヤ、今の『揉めるのが怖い』の中に、嘘は入ってる?」
ノブヤはみかんを両手で持ったまま、首を振った。
「入ってない。……嘘ひとつってルール、今夜は守れない。嘘を入れたら、また逃げる気がする」
春花が、小さく口を開いた。声は震えたけれど、消えなかった。
「……守れない夜が、あってもいいと思う」
全員の視線が春花に集まる。春花は慌てて靴ひもに手を伸ばしそうになり、代わりに毛布の端を握り直した。握り直してから、もう一度だけ言う。
「守れない夜に、誰かが『守れない』って言えたら……迷子にならない」
孝太郎は、その言葉をいったん口の中で繰り返し、ゆっくり頷いた。
「うん。じゃあ今夜は、点数は付けるけど、勝つための数字じゃなくて、明日の当番みたいに扱う。……数字は、道具。人を刺すためじゃない」
ノブヤはむき終わったみかんを、丸テーブルの真ん中に置いた。分けるために置いた。弥風が一房を取り、量大が一房を取り、翔夏子が「これ甘い」と言って笑い、智香里が「甘いって言い方、急に優しい」と突っ込み、伸篤が湯を足す。笑いは昨日より小さい。でも、硬くない。
雪はまだ降っている。帰宅の知らせも来ない。それでも、丸テーブルの上の空気は、少しだけ柔らかくなった。逃げない言葉は、笑いより遅い。遅い分だけ、ちゃんと届く。




