第21話 点数が、心を刺す
十二月二十九日の夜九時。図書館の丸テーブルの上で、ストーブの熱に押し返されるように、紙の端がふわりと浮いた。窓ガラスの外は真っ白で、時計塔の影も溶けている。館内だけが別の季節みたいに乾いて、鉛筆の芯が紙を擦る音がやけに目立った。
孝太郎は点数表を広げ、鉛筆を指の間で回してから止めた。回すのは癖で、止めるのは意識だ。誰かの言葉を途中で切りたくない夜は、手を動かしても心が追いつかない。
「今日の語り手、順番どおりなら……弥風、だよね」
孝太郎が確認すると、弥風はすぐに頷いた。頷きながら、膝の上の校史のコピーを二枚、指で揃える。紙の角がぴたりと揃った瞬間、弥風の目だけが先に走った。
「うん。昨日、年鑑の余白の字、もう一個見つけた。……それを絡める」
絡める、という言い方にノブヤが反応した。
「言い方がもう勝ちに行ってる。怖いって、弥風」
冗談のはずだった。けれど笑いは、ストーブの前で凍るみたいに固まって、誰の口元にも乗らなかった。ノブヤは自分の声が浮いたのを感じ、すぐに「いや、褒めてる」と付け足したが、付け足すほど薄くなる。
量大が、点数表を一度見て、視線を上げた。
「今、上位が一ポイント差。外す人数が一人減るだけで順位が変わる」
数字を口にしただけなのに、空気がチクリと刺さる。
丸テーブルの中央には、寮の食堂から持ってきた魔法瓶と、みかんの入った籠が置かれていた。昼間、ノブヤが「みかんがないと年末感が出ない」と言って、倉庫の奥をひっくり返して見つけてきたやつだ。籠の底で転がっていた最後の一個を、ノブヤはわざと春花の前にそっと滑らせた。
「はい、迷子になりやすい人用。……って言うと怒られるから、寒がり用」
「怒らないけど、今のは二回言い直してる時点で怪しい」
智香里が即座に刺し、ノブヤが「はいはい、俺の口は学習が遅い」と両手を上げた。笑いは小さかったが、ゼロよりずっと温かい。春花はみかんを手に取って、皮の厚みを指で確かめるみたいに撫でた。言葉は出ないのに、頬だけが少し緩む。
翔夏子が椅子を引く音を大きくして座り直した。椅子の脚が床を引っかいて、薄い火花みたいな音がした。
「勝ちたいって言ったら、悪い?」
翔夏子は、誰かに聞くというより、机に向かって言った。春花の視線が、丸テーブルの木目をなぞって止まる。靴ひもに手を伸ばしかけて、途中で止めた。
智香里が返す。返しは短い。
「悪くない。……勝つために、誰かを踏むのが嫌なだけ」
翔夏子は反射で「踏まないし」と言いかけ、言い終える前に口を閉じた。自分の声の尖りに気づいたのだ。気づいたのに、引っ込め方が分からない。ノブヤが間に入りたくて、唇を開いた。
「ほらほら、踏むとか言うと、図書館の床が心配するって。板、抜けるし——」
言いかけて、ノブヤ自身が止まった。あの日の板の抜けた感触が、胸の奥にまだ残っている。笑いに変えようとしたのに、笑いが出ない。伸篤がノブヤの方へ視線だけを寄せ、何も言わずに一度だけ頷いた。頷きが「続けなくていい」と言っているみたいで、ノブヤは助けられたようで、悔しかった。
弥風が、紙を置いた。置く音が、静かすぎて余計に響く。
「……始めるね。『嘘ひとつ、ほんとうひとつ』、混ぜる」
孝太郎が、ルールを復唱するように口にした。
「うん。聞く側は最後に、どこが嘘か当てる。外した人数が少ないほど高得点。……それで、今夜の一位が、明日につながる」
言葉にした途端、春花の肩がほんの少しだけ上がった。上がったのを、孝太郎は見たけれど、指摘しない。指摘したら、春花の呼吸が乱れると分かる。
弥風の語りは、校史の端に残った細い線から始まった。時計塔の写真の周りだけ、紙がほんの少し青く染まっている話。創立当初の寄宿舎には、夜だけ開く小さな倉庫があって、そこに「勝者のための椅子」が置かれていた話。椅子の背には、青い石が一粒、はめ込まれていた——そう言ったとき、翔夏子の指先が机を叩いた。
「それ、ほんと? 椅子、どこにあるの」
弥風は間髪入れずに、校史のコピーを指差した。
「ここに、椅子の絵。……ただ、絵はあるけど、実物の所在は書いてない。だから探す必要がある」
探す、という言い方に、智香里の眉がわずかに動いた。春花は椅子の話を聞きながら、胸の奥が冷たくなるのを感じて、指先で毛布の端をつまんだ。あの青い欠片の冷たさが、いつでも思い出せる。
弥風は最後に言った。
「椅子の裏に、鍵が貼ってある。……これは嘘か、ほんとうか」
当てる時間になっても、みんなの返事は遅かった。今までなら「嘘だろ!」が飛んだのに、今夜は誰も勢いで言えない。点数が、言葉の出口を狭くしている。
量大が、紙を見つめたまま言う。
「椅子の絵は本当。でも『裏に鍵が貼ってある』が嘘。貼ってあったら、湿気でダメになる」
弥風が笑う。笑うけれど、喉の奥が少しだけ震えている。
「正解。……鍵は貼ってない。箱だ。椅子の脚の中に入ってるって書き込みがあった」
孝太郎は点数を記入しようとして、鉛筆を止めた。止めたまま、言った。
「弥風、ありがとう。……でも、今夜の話、勝ちに行くためだけじゃなかったよね」
弥風は一瞬だけ目を逸らし、すぐに戻した。
「うん。勝ちたい。でも、勝つなら、皆が無事に帰れるやり方で勝ちたい」
その「無事」の言い方が、ぎくりと刺す。雪はまだ降り、道路も鉄道も動かない。戻る道がない夜に、勝敗だけが前に出ると、心が置き去りになる。
翔夏子が拳を握って言った。
「じゃあ私も言う。勝ちたい。……でも、今みたいに息が詰まるのは嫌だ」
智香里が、紙を一枚取り、四角く折ってから言う。
「同じ。勝てても、帰り道が壊れたら意味がない」
春花は黙ったまま、唇を噛んだ。言えないのではない。言うと、泣くのが分かっている。泣いたら負け、と言われたら、自分は負ける。だから言わない。そうやって、いつも初めての場所で、言葉を置き去りにしてきた。
孝太郎は、点数表を裏返した。裏返す音は小さいのに、空気の向きが変わる。
「勝ちたいなら、まず守ろう。今夜の当番表。ストーブの火、消し忘れない。廊下で走らない。旧校舎へ行くなら二人一組。……点数は、守れたあとにつく」
当番表を出した瞬間、翔夏子の肩の力が抜けた。量大が「それ、合理的」と小さく言い、弥風が「じゃあ椅子探しは明日の昼」と予定を書き換えた。伸篤は誰にも見られないように、春花の膝の毛布をもう一度だけ整えた。
ノブヤが、まだ言い足りない顔をして、口を開く。
「……俺さ。笑いに変えるの、得意なはずなんだけど。今日は、うまくいかん」
誰も笑わなかった。でも、誰も責めなかった。春花はようやく顔を上げて、ノブヤの言葉の終わりを待った。待っている間、胸の冷たさが少しだけ溶ける。
孝太郎はノブヤの言葉をいったん繰り返し、頷いた。
「『今日はうまくいかない』ってことだよね。うん。うまくいかない日もある。……だから、明日も九時に集まろう」
時計塔の窓は、今夜は光らない。代わりに、丸テーブルの上で、言葉が少しだけ丸くなった。点数が刺すなら、守る手を先に出す。八人は、そうやって次の夜へ歩く。




