第20話 青い欠片が二つに割れる
十二月の終わり、朝七時。寮の廊下の窓は、夜のあいだに凍った結露で白く曇り、外の杉林は雪をかぶって動かなかった。時計塔の方角だけ、雲の切れ目から薄い青がにじむ。
孝太郎は手袋をはめたまま、金属ケースの鍵を回した。昨日の夜九時、図書館で丸テーブルを片づけたあと、ケースは寮の玄関近くの棚に戻してある。冷えた金属は指先に張りつくみたいで、鍵穴の中がきゅっと鳴った。
「……室温に慣らしてから開けたほうがいいよな」
誰に言うでもなくつぶやいて、孝太郎はケースを胸に抱えて、談話室へ向かった。談話室はストーブが点いていて、椅子と椅子の間に誰かが脱いだ靴下が転がっている。ノブヤがそれを見つけ、両手の指でつまんで「持ち主、名乗り出ろ」と掲げ、翔夏子が「それ、旗みたいに振るな」と即座に突っ込む。智香里は新聞紙を広げ、窓際の結露を拭く係に自分の名前を書き足していた。量大は、いつものノートを開いて、当番表の横に小さな注意書きを追加している。
春花はソファの端に座り、靴ひもを結び直していた。結び目をひとつ作って、ほどいて、もう一度作る。結び直すたび、指が少しずつ慎重になる。伸篤は、談話室の隅で湯気の立つマグを二つ並べ、誰も言わないうちに片方を春花の手元へ置いた。
孝太郎がケースをテーブルに置くと、冷たい金属が木の板に当たって、鈍い音がした。その直後だった。ケースの中から、乾いた氷みたいな、細い音が一度だけ響いた。
「今の、何」
翔夏子が椅子を引く音より先に声を出す。
孝太郎は息を止め、ゆっくり蓋を開けた。白い布に包まれていた青い欠片が、見慣れない線で割れている。昨日まで一枚だったはずのそれが、二つになって、互いに少しだけ離れて横たわっていた。
量大がノートを閉じる音が、妙に大きく聞こえた。
弥風は椅子の背をつかみ、身を乗り出した。
春花はマグの縁に指先を当てたまま、動かなかった。
「割れた……?」
孝太郎が言うと、ノブヤがすぐに笑い声を乗せた。
「よし。願いも二つに割れて、俺の分と孝太郎の分が同時に叶うってことで」
言い終えたノブヤは、自分で拍手をしようとして、手が止まった。誰も笑っていなかった。翔夏子が口を開けたまま、音を出さない。智香里は新聞紙を畳み直し、畳み直した角を、爪で二度だけ押した。
伸篤が、テーブルの上に手袋を一組置いた。青い欠片を素手で触らせないための、無言の提案だった。
孝太郎はうなずき、手袋をはめ直してから、二つの欠片を布の上でそっと寄せた。割れ目は、ぴたりとはまらない。ほんの紙一枚分、ずれている。温度の差が、まだ欠片の中に残っている気がした。
「原因は温度差だと思う」
量大が言い、ノートの端を指で押さえたまま続ける。
「玄関の棚、朝はかなり冷える。そこからストーブの前に持ってきた。急な変化は……割れる」
「分かってるのに、やっちゃうのが人間だよね」
孝太郎が苦笑すると、智香里が言い返す。
「分かってるなら、やる前に止めなよ」
その言葉は刺さるはずなのに、智香里は言ったあと、ティッシュを一枚だけ孝太郎の前へ滑らせた。欠片の下に敷け、という意味だった。孝太郎は「ありがとう」と言って、そのまま受け取った。
弥風は、手袋を受け取ると、欠片の断面を目の高さに近づけた。青は濃いのに、割れ目の内側は透明に近い。そこに、細い溝が一本、刻まれている。
「……これ」
弥風が、指先で空中に線をなぞる。
「溝がある。偶然の割れ方じゃない気がする。ほら、鍵の歯みたいに」
翔夏子が身を乗り出しすぎて、鼻先がくすぐったそうに震えた。次の瞬間、くしゃみが飛び出しそうになり、彼女は必死に唇を押さえる。ノブヤが「今、くしゃみしたら伝説が吹き飛ぶ」と囁き、翔夏子が肩で笑って、結局小さく「へくし」と漏らした。
欠片が、ふわりと揺れた。
春花が、ソファから立ち上がるより早く手を伸ばした。伸篤が置いた手袋を片方だけ引っ掛けるみたいにして、欠片の下へ滑り込ませる。青が床へ落ちる前に、布と手袋が受け止めた。
「……危ない」
春花は短く言い、息を整えた。靴ひもはほどけていないのに、無意識に結び目をつまみ直す。
孝太郎は、春花の手元を見てから、欠片の方へ視線を戻した。
「今の、ナイスキャッチ。……って言っていい?」
春花は一瞬迷って、首を小さく縦に動かした。
弥風は、落ち着きを取り戻すと、割れ目を二つ並べ、溝が続く場所を探した。溝は、片方だけが深く、もう片方は浅い。まるで二つで一組になるように、作られている。
「鍵穴に、試してみたくなるな」
翔夏子が言い、すぐに自分の言葉を飲み込むように唇を噛んだ。勝者だけが時計塔の扉に挑める、という噂が、頭に浮かんだのだろう。
「今は、まず守ろう」
孝太郎が、いつもの調子で言う。言い方は軽いのに、ケースの鍵を握る手は固い。
「誰かが持ち歩いて、また温度差で欠けたら終わりだ。今日のうちに、保管のやり方を変える」
量大がすかさずノートを開き、見出しを作った。
「青い欠片:保管改善案」
書いてから、ペンを止める。書き方が少しだけ照れくさいのか、ノブヤが「その題名、急に専門家っぽい」と笑いに持っていこうとするが、笑いは小さくしか返ってこない。
それでも、伸篤が布を追加で二枚持ってきた。誰にも見せない顔で、布の端を丁寧に折り、欠片の間に挟む。智香里は新聞紙の余白を破り、断熱の代わりに重ねる。春花は、テーブルの脚が揺れない位置を確かめてから、ケースの置き場所をそっと変えた。翔夏子は、誰にも頼まれていないのに、窓の隙間に丸めたタオルを押し込み、冷たい風を止める。ノブヤは、転がっていた靴下を畳んで棚にしまい、何も言わずに戻ってきた。
弥風は最後にもう一度、溝を見た。青い欠片が二つになったことで、何かが終わった気がするのに、逆に何かが始まった気もした。目を細めるその横顔を、孝太郎は見逃さなかった。
「弥風。今の気づき、夜九時に話そう。みんなが揃ってるときに」
孝太郎が言うと、弥風は「うん」と短く返し、欠片を布で包む手を止めなかった。
ノブヤが、さっきの不発の冗談を拾い直すように、軽く息を吸う。
「割れたら願いも割れる、って言ったけどさ。……割れたから、二人分になる可能性もあるよね」
言い方を変えただけなのに、今度は智香里が小さく鼻で笑った。春花は笑わなかったが、指先の力が少しだけ抜けた。
孝太郎はケースの蓋を閉め、鍵を二度回した。金属の音が、昨日より重く響く。
量大は当番表の横に、細い字で注意書きを増やした。
「午前は談話室の棚。夜九時の前に図書館へ。ストーブから二メートル。窓のそば禁止」
書き終えると、彼は自分の字を指で一度だけなぞり、ページをそっと押さえた。
翔夏子はホワイトボードを引っぱってきて、勢いよく太字で書いた。
「青い欠片に触る前に手袋!」
最後に丸を付けて満足し、丸の中に小さく自分の名前を書き足す。智香里がそれを見て、丸の横に無言で「……当番も」と書き足した。翔夏子は一瞬だけむっとした顔をして、次の瞬間には「はいはい、書きまーす」とペンを取り直した。
ノブヤは「注意書きなら得意」と言って青いペンを探し、弥風に手首をつかまれて止められた。
「その青は使うな」
「え、青が一番それっぽいじゃん」
「それっぽいのが嫌なんだよ」
弥風の目が本気で、ノブヤは「了解」と言って黒に持ち替えた。黒で描いたのに、なぜか字がやたら踊っていて、春花が見て目を細めた。
窓の外では雪がまだ降っている。帰宅の知らせは来ない。けれど、青い欠片は、二つになっても消えなかった。今夜九時、図書館の丸テーブルの上に置かれるのは、点数表だけじゃない。誰かの言葉の行き先も、そこに並ぶ。




