第2話 嘘の実話祭り、開幕
春花が見た青い光のことを、結局その場では言えなかったまま、時計の針だけが進んだ。
午後九時。寮の廊下の明かりが一段落ち、窓の外は雪の白さだけが残る。図書館の扉を押すと、乾いた紙の匂いが鼻に入ってきた。暖房が弱いせいで、息が少しだけ白い。
「集合ー。ほら、丸テーブル、ここ」
翔夏子が椅子を引いた。ギギッ、と大きな音がして、全員が一瞬だけ肩をすくめたのに、本人は気にしない顔で、ホワイトボードを壁から引っぱり出す。腕で雪を払ったみたいな動きだった。
「うるさ……」
智香里が小さく言いかけて、途中で一回深く息を吸った。言葉を飲み込む代わりに、ペンケースを机の上に置き、きちんと並べ直す。並べることで落ち着くのだと、孝太郎は気づいている。
孝太郎は、丸テーブルの端にノートとシャープペンを置いた。
「今日は、点数つける係、俺でいい? 間違えたら言って。言われたら、まず復唱する。……そのほうが揉めない」
「いま、“揉めない”って言った。揉める予定でもあるの?」
ノブヤが笑いながら突っ込む。笑いながらも、皆の顔を見ている。場の温度が下がる前に、手を伸ばすような目だった。
「予定はない。予定はないけど、雪がある」
孝太郎が真面目に返すと、ノブヤが「雪を理由にすな」と手を振り、翔夏子がホワイトボードに大きく書いた。
『嘘の実話祭り』
チョークの粉が舞い、白い線が黒板みたいに乾いた音を立てる。
「その名前、どこから出てきたの?」
春花が毛布の端を指でつまみながら聞いた。さっきから、靴ひもを結び直す回数が増えている。結んだ直後に、またほどいて結ぶ。そのたびに、指先が忙しい。
「昔ね、先輩が冬の寮でやってたって聞いた。『嘘ひとつ、ほんとうひとつ』を混ぜるやつ。時間つぶしに最高」
ノブヤが肩をすくめた。言い方は軽いのに、最後の「最高」で、皆の胸の奥を少しだけ持ち上げる。
「それ、記録あるよ」
弥風が、机の下から分厚い校史を抱えて出した。どこに隠していたのかと思うほどの速さで、ページを開き、端の書き込みを見つける。
「ほら。『夜九時、図書館の丸テーブル』って。で、勝った人だけ……」
弥風の指が止まった。文字の上で指先が一度だけ踊り、孝太郎の方を見る。
「勝った人だけ、時計塔の扉の古い鍵穴に挑める、って噂」
「時計塔って、旧校舎の?」
翔夏子が目を丸くして、すぐに笑った。
「最高じゃん。勝ったら、探検できるってことでしょ。やろう、絶対」
「探検って言うな。……危ないのは嫌」
智香里が言うと、ノブヤが「じゃあ安全第一で、図書館から一歩も出ない探検ね」と返した。言いながら、自分で笑ってしまい、量大が小さく「定義が崩れてる」と呟いた。
量大はノートを開き、線を引き、ルールを書き始める。書いている途中で、何度か消しゴムが走った。最初から完璧にしたいのではなく、間違いを見つけたら直したいのだ。
「点数は、外した人数が少ないほど高い。……でもさ、嘘が二つ入ったらどうする? 嘘ゼロは? それ、確認が必要」
「確認する。語り手は最後に『嘘はここ』って言う。嘘ゼロは禁止。嘘二つも禁止」
翔夏子がホワイトボードに書き足していく。『嘘は一個』『ほんとうも一個』。字が大きい。迷いがない字だ。
伸篤は、少し離れた椅子に座り、皆の手元を見ていた。誰も言わない隙間ができると、そっと毛布をもう一枚持ってきて、春花の背中に掛けた。春花は驚いて肩を揺らし、それから黙って毛布を整え、伸篤に小さく頭を下げた。
孝太郎は、紙の上で点数表の枠を作った。八人分の名前を書き、空欄を残す。残すことで、ここから何かが増える気がした。
「で、誰からいく? 順番、決めよう」
翔夏子が言い、ノブヤが「俺、最初はやめとく。最初って責任重いし」と逃げる口調で言った。逃げたつもりなのに、目は笑っている。
「逃げるの、早っ」
翔夏子が即座に返し、量大が「最初に逃げる人は、次に当たる確率が上がる」と真顔で言う。誰かが「それ、何の確率」と笑い、図書館の天井に音が跳ね返った。
春花は笑いに合わせようとして、口元だけ動いた。笑い声を出すより先に、指先が勝手に動いて毛布の端をいじる。目はテーブルの木目を追っているのに、耳は皆の声を追っている。
孝太郎はその様子を見て、声を少し柔らかくした。
「春花、無理なら、今日は聞き役でもいい。……『無理なら』って言うのも変だな。やりたいか、やりたくないか、どっち?」
春花は一瞬だけ唇を噛んだ。誰にも気づかれないくらいの小さな動き。それから、靴ひもを結び直す手を止めて、孝太郎の目を見る。
「……当てたい。外したら、笑っていい?」
「外したら、笑う。外しても、笑う」
孝太郎が言うと、ノブヤが「全方向に笑いを許可する係だ」と拍手した。
「拍手は一回でいい。粉が落ちる」
智香里が注意し、ノブヤが手を止めて「はい、粉係に従います」と頭を下げる。翔夏子が「粉係って何」と笑い、弥風が校史の余白に『粉係:智香里』と書き込みそうな顔になったので、量大が「記録は後で」と止めた。
「じゃ、くじにしよう」
翔夏子が鉛筆を八本取り出し、一本だけ芯を短く折った。折る音が、妙に儀式っぽくて、皆の目が集まる。
「短いの引いた人が、最初」
孝太郎が復唱して確認すると、翔夏子が頷いた。
一本ずつ引いていく。ノブヤは引いた鉛筆をすぐに戻そうとして、智香里に「見せてから」と止められる。弥風は芯の長さを定規で測りたそうな顔をしたが、量大が先に「測ると時間が伸びる」と言った。伸篤は静かに引いて、何も言わず、ただ手元を見下ろす。
最後に春花が引いた。握ったまま、なかなか開かない。指の関節が白くなる。
「……春花、手、冷えてる?」
孝太郎が言うと、春花は首を振り、ゆっくり掌を開いた。
芯が、短い。
翔夏子が「おお」と声を上げ、ノブヤが「最初の責任、春花に渡った」と言ってから、「あ、渡すって言い方、なんか良くない?」と自分で慌てた。慌て方が面白くて、笑いが起きる。笑いの中で、春花だけが少し遅れて息を吐いた。
孝太郎は、春花の前にコップを置いた。さっき伸篤が持ってきた白湯だ。
「飲んでからでいい。で、合言葉。これを言ったら開始」
孝太郎は皆の顔を見回した。誰も口を挟まないのを確認してから、図書館の静けさに向けて、はっきり言った。
「嘘ひとつ、ほんとうひとつ」
その瞬間、春花の指先が、ほんのわずかに震えた。毛布の端が、しゅっと音を立てる。春花はそれを隠すみたいにコップを持ち、白湯を一口飲んだ。
「……じゃあ、話すね」
春花は言って、視線を天井の古いランプに向けた。雪の夜の図書館で、八人の呼吸が揃う。
「私、今日ここに来る前に――」
言葉の先が、まだ形にならないまま、テーブルの上で待っていた。




