第19話 伸篤は沈黙を守る
十二月二十五日の昼、食堂の窓は雪で半分塞がっていた。白い壁の向こうで風が鳴っているのに、中はスープの湯気で曇り、誰かの笑い声だけが丸く跳ね返る。
量大が当番表の紙を貼り替えていた。昨日の反省点を赤ペンで書き足し、雪かき担当の矢印を一つずつ直していく。孝太郎は隣で「『雪かきは朝九時』って書き直したんだね」と復唱し、量大が頷くと、孝太郎は「助かる」と短く返した。
春花はトレーを持ったまま、席と席の間で一度止まった。足元の床板がきしむ方向を確かめるみたいに、つま先を少しずらす。翔夏子が「こっち空いてる!」と手を振り、春花は小さく会釈して近づいたが、最後の一歩でテーブル脚に靴先を当ててしまった。
「あっ……」
春花が息を飲む。翔夏子が「今のは床が悪い」と即断し、ノブヤが「床に責任を押し付けるの、名案」と相槌を打つ。笑いが起きたところへ、伸篤が無言で椅子を引いた。音を立てない引き方で、春花の膝の位置に合わせる。春花は「……ありがとう」と言いかけて、言葉を途中で飲み込み、代わりに深く頷いた。
智香里はスプーンでカップをかき回しながら、ほとんど顔を上げなかった。昨日、給湯室で広げた紙片のことを、誰も話題にしない。話題にしないのに、八人の間に置かれたままの小さな重さだけが、湯気に混ざって漂っている。
夜が来るまでの時間、弥風は校史を抱えて旧校舎の図面を探し、ノブヤは寮の廊下で「帰れないなら、せめて体操しよう」と言って即席のラジオ体操を始めた。翔夏子が全力で腕を回し、春花が半拍遅れて真似し、孝太郎が「遅れてるのも、別に悪くないよね」と受け止めて笑う。伸篤は輪の外で、誰かの指先が赤くなっているのを見つけると、言葉を足さずに手袋を差し出した。
そして、夜九時が来た。
図書館の丸テーブルの上で、孝太郎のペンがかりかりと鳴った。点数の欄に線を引くだけの音なのに、外の吹雪が遠のいたみたいに感じる。
ストーブの火は弱めで、窓の内側に薄い結露が残っていた。翔夏子が椅子を引く音を「いつもどおり」で鳴らし、ノブヤが指を口に当てて「しー」とやる。やってから自分で吹き出し、「しー、って言うのが一番うるさい説」と小声で落として、また笑いを拾った。
春花はテーブルの端に指先をそろえ、視線だけで時計を確かめる。靴ひもはさっきほどけていないのに、結び目の位置を一度だけつまみ直した。弥風は校史の束を抱えて席に滑り込み、量大はノートの角をぴたりと揃えてから膝に置いた。智香里は紙コップを一つ持ち、持ち手のない温さを確かめるように両手で包んでいる。
最後に、伸篤が入ってきた。言葉はない。片手に小さなやかん、もう片手にマグカップを四つ。床をきしませない歩き方で丸テーブルまで来ると、カップを一つずつ並べ、やかんの口を少しだけ傾けた。湯気が立ち、ミントティーの匂いが薄く広がる。
「……それ、どこで手に入れたの?」
翔夏子が思わず聞く。
伸篤は棚の方を指さした。そこには図書館の“寄付品”の箱が置かれている。箱の上に、誰かが置き忘れたティーバッグの袋が乗っていた。弥風が「あ、これ、古い卒業アルバムの間から出てきたやつ!」と声を上げ、孝太郎が「……飲んで大丈夫かな」と眉を動かす。
伸篤は、マグの前に砂糖の小袋をそっと置いた。賞味期限の数字は見せない。見せないまま、頷いた。
孝太郎はその頷きを受け取ってから、ルールを口にした。
「じゃあ、今夜の語り手。伸篤でいい?」
伸篤は椅子に座り、背筋を伸ばさず、ただ肩の力を抜いた。返事の代わりに、右手の指を一本だけ立てる。“嘘ひとつ、ほんとうひとつ”。準備はできた、の合図だった。
孝太郎は時間と名前をメモし、ペン先を止めた。
「どうぞ」
伸篤は、皆の顔を一つずつ見た。見て、見終わってから、口を開いた。
「去年の冬、弟が家で泣いた。理由を言わない。机を叩いて、扉を閉めて、それでも泣いた」
伸篤は、そこでいったん言葉を切った。誰も続きを催促しない。ノブヤが喉まで出かけた冗談を、マグで飲み込む。翔夏子の足も止まる。
「母が“話して”って言った。弟は首を振った。……だから、俺は毛布を持って行った。何も言わずに」
伸篤が語る部屋の景色は、派手じゃない。けれど、壁の冷たさや、床に落ちた玩具の角や、毛布の重みが目に浮かぶ。孝太郎は、自分の家の冬の匂いまで思い出しそうになって、背筋を少しだけ伸ばした。
弟の部屋の前に座った時間を、伸篤は「三十分くらい」と言っただけだった。けれど、その「くらい」の中に、時計の針が進む音と、言葉を飲み込む喉の痛みが詰まっているのが分かる。智香里が紙コップを握り直し、春花が呼吸を浅くして耳を澄ませる。
「弟は毛布を受け取って、泣き止まなかった。でも、机を叩くのはやめた。……それから、俺の方を見て、イヤホンを一つ渡した」
その「イヤホン」が、なぜか笑いを呼んだ。
翔夏子が耐えきれず、「毛布の次、急に現代」と吹き出し、ノブヤが「弟、切り替え上手」と乗っかる。弥風が「イヤホンは文化史的に重要」と真顔で言い、孝太郎が「文化史って言うと急に信じたくなるの、なんでだろ」と返して、笑いは小さく丸まったまま落ち着いた。
伸篤の目は揺れていない。笑いを止める気配も、急がせる気配もない。そこにいるだけで、空気が整う。
「俺は、そこではじめて弟の“言いたいこと”を聞いた。耳じゃなくて、待つ時間で」
伸篤は言って、マグに口をつけた。熱いはずなのに慌てない飲み方だ。
春花が、結び目に触れていた指を止めた。窓の外の白さに視線を滑らせてから、目を戻す。
伸篤は、次の話へ移った。
「同じ冬、学校の時計塔に登った。雪が積もって、足音が消える日。……俺は上で、叫んだ」
翔夏子が「叫ぶんだ」と目を丸くし、ノブヤが「伸篤にも叫びがあるんだな」と肩を揺らす。
「叫んだら、鐘のところから返事が返ってきた。俺の声に、別の誰かが重ねた。……そのとき、怖くなった」
伸篤は、そこでまた黙った。黙っているあいだ、ストーブの火が小さくはぜる。湯気が天井に薄く溶ける。
孝太郎は、言葉を足さずに待った。量大も、いつものように「改善案」を探す顔をせず、ノートを閉じたまま頷いた。頷く回数も、急がせない。
伸篤は、静かに結論を置いた。
「……叫ぶより、待つ方が、俺は向いてた」
語り終わっても、拍手は起きなかった。起きないことが、今夜は正解みたいだった。春花が、丸テーブルの縁を指でなぞりながらぽつりと言った。
「沈黙って、怖くないんだ」
孝太郎はその横顔に目を止めた。頬に落ちたストーブの光が、雪の反射みたいに淡い。言葉をかけたくなったが、伸篤の話の余韻を汚したくなくて、孝太郎は代わりに自分のマグを持ち上げた。
「……じゃあ、嘘はどこ?」
ノブヤが指を折りながら考える。
「時計塔で叫んだのが嘘。伸篤がそんな派手なことするわけない」
翔夏子が即座に「いや、逆。毛布が嘘。毛布が主役は盛りすぎ」と言い、弥風が「毛布は真実でもいいと思う」と真顔で返す。智香里は黙ったまま、伸篤の指先だけを見る。指先は机の上で、ほんの少し震えていた。
伸篤は、答えの代わりに砂糖袋を一つ、孝太郎の方へ滑らせた。孝太郎は受け取り、笑いを含ませて宣言する。
「じゃあ、答え合わせ。……伸篤、嘘は“叫んだ”の方?」
伸篤は首を横に振った。
「え、じゃあ毛布が嘘!?」
翔夏子が椅子をきしませ、ノブヤが「毛布、嘘つくなよ」と笑う。伸篤は、そこで初めて口元だけで笑った。
「……叫んだのは、本当。返事が返ったのは、嘘」
誰かが「なるほど」と言いかけて、飲み込んだ。返事が返ってこない方が、今夜の話には合っていた。孝太郎は得点欄に小さく丸を付け、紙の端を整えた。
解散の前、孝太郎は金属ケースの鍵を確かめた。指先に冷たいものが吸いつく。ケースの中の青い欠片は、白い息のような霜をまとっている気がした。
伸篤が最後のマグを片づけながら、ケースを見て、何も言わずに指で“割れる”みたいな形を作った。孝太郎はその手の形を見て、背中に小さな寒気を感じた。外の雪より、もっと静かな寒気だった。




