第18話 智香里の紙片、破られなかった言葉
旧校舎から戻った八人は、寄宿舎の玄関で雪を落とした。翔夏子がブーツを脱ぎながら「転んでない証拠、ほら」と尻を軽く叩き、ノブヤが「証拠の出し方が雑!」と突っ込む。笑いがまだ体温みたいに残っている。
孝太郎は集計用のクリップボードを脇に挟み、床に散った雪をモップで集めた。量大が黙ってバケツを持ってきて、弥風は靴箱の上に置いた青い欠片の包みを確認する。春花は玄関マットの端を踏み直し、結び直した靴ひもの先を指でそっと整えた。
そのとき、智香里がポケットから手を抜いた拍子に、小さな紙がひらりと落ちた。紙は四角く畳まれていて、角だけが開いている。孝太郎は反射で足を出し、踏まれないように紙をすくい上げた。紙の端には、鉛筆の粉が薄くついている。図書館で書いたのだろう、と分かる匂いがした。
「落としたよ」
そう言いながら戻すだけのつもりだった。ところが軍手の繊維に紙の端が引っかかり、ほんの一瞬、二文字が見えた。
ごめん。
見えたのは端だけなのに、胸の奥に小さな釘を打たれたみたいに残った。孝太郎は視線を上げ、智香里の顔を見ないまま、紙をそっと差し出した。
智香里は奪い取らなかった。指先で紙を受け取り、喉の奥で一度息が止まったのが分かった。彼女は笑ってごまかす代わりに、真っすぐ孝太郎を見た。
「……読んだなら、最後まで読んで」
玄関の明るさが、急に白く感じた。ノブヤが「え、手紙? ラブレター?」と目を丸くし、翔夏子が「よし、私は見てない! 見てないけど気になる!」と両手を挙げる。弥風が「覗きは禁書」と言い、量大がノブヤの肩を軽く押して距離を作った。伸篤は何も言わず、廊下の奥にある給湯室の灯りを指で示した。
孝太郎は紙を一度握り直し、智香里に頷いた。
「……分かった。場所、移ろう」
給湯室は小さく、ポットの湯が静かに鳴っていた。外は十二月下旬の午後で、窓の向こうは白い雪面が光る。中はストーブの乾いた熱で、紙が少し柔らかくなる匂いがした。孝太郎は椅子を引いたが、智香里は座らず、流し台の前に立ったまま、紙を両手で開いた。
畳み目の線が何本もある。何度も折って、何度も開いて、そのたびに閉じた形跡が残っている。
「これ、破ろうとしたんだ」
智香里が言った。言い終わってから、もう一度深く息を吸い直す。
「破って捨てたら、最初から書かなかったことになるから。……そういうの、得意なの」
孝太郎は、さっきの二文字が刺さった理由をようやく理解した。謝る言葉は、相手に渡す前に破ると、自分だけが残る。残った自分が、次の日も同じ場所に立ってしまう。
「でも、破れなかった。……今日、転んだ人がいて、みんな笑ってたから」
智香里の視線が、窓の外を一瞬だけ追った。雪の白さの奥で、翔夏子の尻もちがふわりとよみがえる。
「笑ってたのに、私だけ“ごめん”って思ってた。変でしょ」
「変じゃない」
孝太郎は即答してから、言葉を慎重に足した。
「同じ場面を見ても、出てくる言葉は人それぞれだ。……だから祭りが成り立ってる」
智香里は紙を指で押さえ、宛名のところを指先でなぞった。
「宛名は、家。母に。帰れないって、連絡した。そしたら返事がきた。『無理しないで』って。いつもは、そう言ってくれるのに、私が勝手に『迷惑かけた』って思って」
智香里は紙の上に視線を落としたまま続けた。
「だから、『ごめん』って書いて……書いて、怒られたくなくて、次の文を消した。消して、また書いて、また消して。畳み目が増えた」
孝太郎は、いつもの癖で一度復唱した。
「怒られたくなくて、消した」
「うん」
智香里は短く頷き、紙を孝太郎の前に置いた。
「読んで。嘘、混ぜてない。今日は、混ぜない。……混ぜたら、また破く」
紙には、短い文が並んでいた。謝罪の言葉の次に、遠回りをしない言い方が、珍しく素直に書かれている。『雪が怖い』。『帰れないのが怖い』。『怖いって言ったら、笑われると思った』。最後の一行は、薄く滲んでいた。
『ほんとうは、助けてって言う練習がしたい』
孝太郎は紙から目を上げた。智香里は流し台の金属に指を当て、冷たさを確かめるみたいにしている。強い言い方をした直後に、誰も見ていない窓辺で拳を握りしめる――弥風が言っていたのは、きっとこういう瞬間だ。
「智香里」
孝太郎は名前だけ呼んでから、言葉を選んだ。
「さっきの二文字だけ、見えた。そこは俺の落ち度だ。ごめん」
智香里が小さく笑った。笑ったけれど、目の端が揺れた。
「……謝るの、うまいね」
「うまいっていうか、集計係だからさ。間違えたら、数字じゃなくて人が痛い」
智香里は紙をもう一度畳み、今度は破り目をつける代わりに、端をきっちり揃えた。
「じゃあ……練習、付き合って」
「何の?」
「『助けて』って言う練習。いま言うと、変な声になるから」
孝太郎は頷いた。
「じゃあ、俺が相手。やり方は簡単。言いにくいなら、まず“助けて”の前に“いま”をつける。いま、助けて。って」
智香里は口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……いま、助けて」
言い終えた瞬間、肩が少し落ちた。まるで重い荷物を一つだけ床に置いたみたいに。
廊下でノブヤの声が聞こえた。
「ねえ! 給湯室、こっそり温泉みたいになってない!?」
翔夏子が「温泉はない! 湯気はある!」と返す。春花の足音が近づき、戸の前で止まった。
「……入っていい?」
春花の声は小さかった。けれど、逃げるようには聞こえない。
孝太郎が「どうぞ」と言う前に、智香里が先に答えた。
「入って。紙、見せる。……見せたい」
扉が開き、春花が顔を覗かせた。伸篤は後ろに立ち、何も言わずにマグカップを二つ持ってきている。量大は最後尾で、余計な質問をしない顔で立っていた。弥風は視線を紙へ落とし、ノブヤは「ごめん、覗かない、でも応援はする」と両手を胸の前で組んだ。翔夏子は椅子を引く音を大きく立ててから、慌てて静かに座り直した。
智香里は紙を皆に見える位置へ置いた。破られなかった畳み目の上に、いまの弱さがそのまま乗っている。
「これ、今日の私の“ほんとう”」
そう言ってから、少しだけ口角を上げた。
「嘘は……九時の丸テーブルで出す。点数、取りにいくから」
その宣言が、笑いを呼んだ。ノブヤが「弱さ見せてから点数狙い!? 順番逆!」と叫び、翔夏子が「私も転び芸で点数取れる?」と乗る。春花が小さく息を吐いて、肩の力を抜いたのが分かった。
九時。図書館の丸テーブルの上に、ホワイトボードの得点表が立った。孝太郎はマーカーのキャップを外し、智香里を見た。智香里は紙片を胸ポケットにしまい、椅子を引いた。
「じゃあ、話す。嘘ひとつ、ほんとうひとつ」
智香里は視線を上げ、言った。
「私ね、今日、転んだ人を見て……心の中で謝った」
翔夏子が「転んだの私!」と手を挙げ、皆が笑う。智香里は笑わせたまま、間を置いた。
「もう一つ。ほんとうは、家に帰れなくて怖い。怖いのに、強いふりをした。だから、謝りたい相手が増えた。……ごめんって言えるうちに、言いたい」
静かになった。ストーブのない図書館は少し寒く、春花が膝の上で指をこすっているのが見えた。伸篤が毛布を一枚、無言で智香里の背にかける。智香里は驚いた顔をしてから、肩をすくめるようにして受け取った。
孝太郎が「さて、どこが嘘?」と促すと、ノブヤがすぐ手を挙げた。
「嘘は“心の中で謝った”だ! 智香里は絶対、口に出して謝るタイプだもん。『転ぶな』って怒りながら謝る!」
翔夏子が「それ、謝ってない!」と笑い、弥風が「嘘は“増えた”かもしれない。謝りたい相手は元から多い」と真顔で言う。量大はノートを閉じ、短く答えた。
「嘘は、怖くないふりをしてた、の方。智香里は、ふりじゃなくて、ちゃんと怖いって言う準備をしてた」
春花は皆の言い合いを聞き、最後に小さく言った。
「……嘘は、“謝った”だと思う。智香里は、謝るより先に……助けて、って言う練習をしたかったから」
智香里は一瞬、目を見開いた。それから、ふっと息を吐いて笑った。
「当たり。嘘は……“心の中で謝った”」
翔夏子が「え、じゃあ何したの!」と身を乗り出す。
智香里は頬を赤くして言った。
「笑った。……で、笑った自分に腹が立って、紙に『ごめん』って書いた」
笑いと、少しだけ痛い沈黙が同時に落ちた。伸篤が小さく頷く。量大はペン先でノートに一行だけ書き、弥風は青い欠片の包みをそっと机の端へ寄せた。孝太郎は得点表に視線を落とし、点数を書く手を止めた。
春花が最後に一言だけ言った。
「……怖いって言っても、笑わないよ」
智香里の目が一度だけ潤んだ。破られなかった一枚が、八人の真ん中に残っている。




