第17話 翔夏子、堂々と先頭で転ぶ
翌朝、食堂の窓ガラスは内側から白く曇っていた。外は晴れたように見えるのに、雪は夜の間にさらに積もって、通学路のはずの坂道がまるごと滑り台になっている。
孝太郎はトレーを持ったまま立ち止まり、床に引かれた赤い線を眺めた。安全のために「ここから先は走るな」と書かれた札が、昨日より増えている。増えた札の横で、伸篤が無言でモップを動かしていた。濡れた足跡を消すたび、床が少しだけ明るくなる。
「今日、行くんだよね。旧校舎」
翔夏子が湯気の立つ味噌汁を一口すすり、椅子を引く音で返事を催促した。
弥風は食パンにジャムを塗りながら、校史の本を机の端に置く。
「旧校舎の渡り廊下、昼でも暗いって書いてある。懐中電灯、誰か持ってる?」
ノブヤがポケットを叩き、「スマホのライトなら」と言ってから、すぐに量大の方を見た。量大は黙って軍手を二組、机の上に置く。片方は新品、片方は少し毛羽立っている。
「冷たい鉄に触るときは、これ」
翔夏子が新品の方をひょいと取って、指先を握ったり開いたりして見せた。
「分かった。先頭は私。迷ったら、迷ってない顔で突っ切る」
春花が牛乳パックを潰す手を止めた。言葉に反応するみたいに、視線だけが翔夏子へ向く。春花の胸元には、昨日の紙片を入れた封筒が、制服のカーディガンの下で小さく膨らんでいた。
智香里はトレーを返却口へ運び、戻ってくるときも、ポケットに片手を入れたままだった。指先が紙を折る角度を確かめるみたいに動いている。孝太郎はそれを見て、何か言いかけてやめた。
点数の話をすると、空気が尖る日がある。昨夜も、ホワイトボードの端を叩く音が、ずっと耳に残っている。だから今日は、坂道と旧校舎の暗さに集中しようと思った。
九時半。八人は食堂を出て、旧校舎へ向かう坂の前に並んだ。太陽は高いのに、空気は刺すように冷たい。吐く息が白くなって、誰の言葉もすぐに消える。
翔夏子が一歩踏み出し、両腕を大きく振って言った。
「よし、行くよ。転ばないように——」
最後まで言い切る前に、靴底が「キュ」と鳴った。次の瞬間、翔夏子の足が前へ滑り、体だけが置いていかれて、尻もちをついた。雪がふわりと舞い、髪に小さな白が乗る。
時間が一拍だけ止まった。止まってから、弥風が堪えきれずに噴き出した。ノブヤが「いまの、“転ばないように”が呪文だった」と腹を抱える。量大は声を出さないのに肩だけが上下して、伸篤は口元を手袋で隠して視線を逸らした。孝太郎は笑いながら、翔夏子の手を取って引っ張った。
「大丈夫?」
翔夏子は立ち上がると、雪を払うふりをして背筋を伸ばした。頬が、寒さとは別の赤になっている。
「……今のは嘘。転んでない」
春花が一瞬だけ目を丸くして、次の瞬間、口元を押さえて笑った。笑うとき、春花はいつも息を吸い込むみたいに肩が上がる。その肩が、今日だけは少し軽い。
「嘘ひとつ、ほんとうひとつ、ってやつ?」
孝太郎が言うと、翔夏子は指を一本立てた。
「ほんとうはね、転んだ。嘘は——痛くない」
言い終えた瞬間、翔夏子は尻のあたりを押さえて顔をしかめる。ノブヤが「嘘の方、早い」と突っ込み、笑いがまた坂に転がった。笑いが転がると、得点表の数字みたいに固くなりかけていた空気が、雪の上でほどけていく。
坂の途中、春花の足も少し滑った。靴が横へ逃げ、体が傾く。春花は声を出す前に息を吸って、止まった。
その瞬間、伸篤の手が伸びて、春花の肘を支えた。支え方が乱暴じゃない。触れる時間が短いのに、確かに止める。
「……ありがとう」
春花の口から出た言葉は、自分でも驚くくらい小さかった。伸篤は返事をしない。代わりに、支えた手を離し、少し前へ歩いた。背中が「今の、受け取った」と言っているように見えて、春花は胸元の封筒を指で押さえた。
量大が足跡の間隔を揃えるように歩いた。
「踏む場所を同じにすると、滑りにくい」
「さっき言ってよ」
翔夏子が言い返して、また皆が笑う。弥風が校史の本を胸に抱え、「転んだページが増えた」と言って、わざとらしく栞を挟んだ。
旧校舎の渡り廊下は、噂どおり昼でも薄暗かった。木の床は乾いているのに、窓枠の金具だけが冷え切って、触れた手袋が少し固くなる。伸篤が先に歩いて、危ない所を指で示す。誰も大声を出さない。音が吸い込まれていく場所では、笑い声さえ小さくなる。
廊下の奥、時計塔へ続く扉の前で、弥風が立ち止まり、鍵穴の周りをライトで照らした。
「……青い粉」
鍵穴の縁に、細い線みたいな青が残っている。触れば指に付きそうで、触りたくない。孝太郎は喉の奥で笑いが引っかかった。昨夜までの噂話が、いきなり手の届く距離に来たからだ。
翔夏子が肩をすくめて言う。
「勝った人だけが開けられるってやつ? じゃあ今、私が尻もちの勢いで——」
「勢いは関係ない」
量大が即座に切る。ノブヤが「勢いだけで人生を押し切る人がいるから」と言いかけ、翔夏子が「いるね」と自分で頷いて、また笑いがこぼれた。
扉は動かなかった。押しても引いても、木が鳴るだけだ。伸篤が蝶番を見て、手袋越しに軽く触れる。
「凍ってる」
短い一言で、皆の視線が同じ場所へ集まる。凍っているなら、待つしかない。待つ間に、何をするか。孝太郎は「夜九時」を思い出し、春花は胸元の封筒を思い出し、智香里はポケットの中の折り目を思い出した。
時計塔へ続く廊下の途中で、智香里が立ち止まった。ポケットの中を確かめるように指を動かし、何かを握り直している。孝太郎は「寒い?」と聞きかけて、言葉を飲み込んだ。今は、無理に引き出す場面じゃない気がした。
代わりに、床板の隙間から覗く暗がりへライトを向ける。そこに、青い紙が一片、引っかかっていた。折り目の付いた小さな切れ端で、鶴の羽にも見える。
春花が息を詰め、指先でそっと拾い上げた。
「……これ、昨日の?」
弥風が首を傾ける。
「昨日は鶴を一羽、ちゃんと机の上に置いたはず」
量大が切れ端の端を見て、短く言った。
「破れた」
その一語で、春花の胸元の封筒が、ひどく重くなった気がした。渡す前に破れる言葉がある。破れても拾える言葉もある。春花は切れ端を掌の上に載せ、雪の冷たさよりも先に、自分の手が震えているのを知った。
翔夏子が覗き込み、わざと明るい声を出す。
「破れても、貼ればいい。セロテープ、誰かない?」
ノブヤが「俺、持ってる」と胸を張り、ポケットから小さな透明テープを出した。どうしてそんな物を持っているのか、皆が同時に疑問を顔に出す。
「何に使うの」
弥風が聞くと、ノブヤは少しだけ目を泳がせた。
「えっと……名札が剥がれたとき用。ほら、冬って剥がれるじゃん」
翔夏子が「今のも嘘」と言い、ノブヤが「嘘ひとつ、ほんとうひとつ!」と叫ぶ。旧校舎の暗さの中で、笑いが小さく弾けた。
孝太郎はテープを受け取り、切れ端を紙の端にそっと重ねた。春花の掌の上で、青い欠片が元の形を思い出すみたいに落ち着く。
「よし。持って帰ろう。夜、丸テーブルで話そう」
春花は小さく頷いた。頷きながら、胸元の封筒を指で押さえる。昨日書いた三行は、まだ渡せていない。それでも今日は、笑って息ができた。
帰り道、坂の上から学園の寄宿舎が見えた。白い屋根が陽に光って、遠くにいるはずなのに近く感じる。翔夏子が先頭に戻り、今度は足元を確かめながら歩く。
「転んでないからね」
誰かが「嘘」と言い、誰かが「ほんとう」と言って、笑いがまた続いた。
智香里は少し遅れて歩き、ポケットの口を指で押さえたまま、寄宿舎の方を見た。孝太郎はその仕草を横目で追って、追ってから、自分の目線を雪へ落とした。
夜九時になれば、得点表はまた卓上に戻る。けれど昼の坂で転がった笑いは、数字より先に、八人の間を柔らかくした。




