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冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


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第16話 春花の“はじめての人”

 雪が止まない。窓の外で白い粒が同じ角度で流れ続け、図書館のガラスは息を吐くたび曇った。夜九時。丸テーブルの上には砂時計、得点表、それから今日だけの差し入れ――食堂のおばさんが「冷めたら硬くなるからね」と言って置いていったミニたい焼きが八個、皿の上で小さく並んでいる。


  翔夏子がホワイトボードの前で腕を組み、ペン先で得点表の端を叩いた。叩くたび「カン、カン」と乾いた音がして、誰かの肩が反射みたいに跳ねる。

  「今日は誰が語る? 点、詰まってきたよ。ここで外すと、あとがきつい」

  弥風は校史の本を抱えたまま椅子を引き、背表紙をそっと撫でた。

  「勝ちの話をするなら、先にお茶を淹れていい?」

  「逃げるなって言われるやつだ、それ」

  ノブヤが笑いに変えようとして、笑いが途中でほどけた。量大が黙って湯飲みを並べ、伸篤がミニたい焼きを「熱いうちに」と一つずつ配る。智香里はたい焼きの皿を見てから、指先で自分の分をきっちり中央に寄せ、誰にも見られないように小さく頷いた。孝太郎は得点表を見てから、円の中の顔を見回した。


  「……春花。今日はどう?」

  名前を呼ばれた瞬間、春花はたい焼きを持つ指を止めた。熱いのに、手を離さない。尻尾の部分が少し潰れている。

  「えっと……私、で……いいの?」

  「いい。むしろ、聞きたい」

  孝太郎が言うと、春花は小さく頷いて、たい焼きを皿に戻した。紙ナプキンの上に置くと、ほんの少しだけ湯気が立つ。


  春花は椅子の背に指を掛け、深呼吸の代わりに、袖口をきゅっと引いた。目線がテーブルの真ん中を避け、砂時計のガラスの端をなぞる。

  「じゃあ……嘘、ひとつ。ほんとう、ひとつ。混ぜるね」

  声が小さいのに、丸テーブルの上だけ空気が澄む。砂時計をひっくり返す音が、いつもより大きく聞こえた。


  「私は……“はじめての人”が苦手。会ったことのない人と話すと、頭の中が真っ白になる。だから、初対面ってだけで、逃げたくなる」

  翔夏子が「えっ」と言いかけて、口を押さえた。量大は頷きながらも、ペンを持つ手の動きが止まっている。ノブヤは「それ、俺も」と言いかけて、伸篤の視線に気づいて引っ込めた。


  春花は続けた。

  「中学のとき、部活の見学に行った。入り口の前で、先輩が『入っておいで』って笑った。私は……その笑いが怖くて、廊下を引き返した。靴箱の前で、来た道を見て、帰った」

  「それは……きついな」

  孝太郎が思わず口を挟むと、春花は首を振った。

  「まだ、続きがある」


  「翌日、同じ先輩に教室の前で呼び止められた。『昨日、見かけた気がしたんだけど』って。私は嘘をついた。『行ってない』って。でも、その先輩が、鞄のポケットから――小さい折り紙を出して、私に渡した。青い鶴。折り目がすごくきれいで、羽が少しだけ立ってた」

  弥風が目を細める。

  「青い鶴?」

  「うん。『怖かったら、これを触って呼吸して』って言われた。私は……その場で、ありがとうって言えた」

  春花は言い終えて、両手の指を絡めた。指が冷たい。図書館は暖房が効いているのに。


  「ほんとうはね」

  春花は、そこで一度だけ孝太郎の顔を見た。見て、すぐに逸らした。視線が棚の背表紙に落ちる。

  「初対面が苦手って言ったけど……たぶん、違う。私が苦手なのは、“渡す”こと。言いたいこと、伝えたいこと、ありがとうとか、ごめんとか……そういうのを、相手の手まで運ぶやり方が、よく分からない。声に出すと、喉の途中で引っかかって、別の言葉に逃げる」


  翔夏子が椅子の背を鳴らし、「はじめての人」って、そっちの話じゃないの? と、口の形だけで言った。言葉にしないのに、全員が同じ誤解に一瞬で引っかかって、次の瞬間、ノブヤが咳払いでごまかして失敗した。

  「んっ、んん。いや、違う、そういうのじゃ……」

  「そういうのじゃない、って言い切るの早いな」

  量大が淡々と言い、翔夏子が「ごめん、悪い」と手を振る。春花は赤くならない。代わりに、耳たぶを指で押して、少しだけ痛そうな顔をした。


  孝太郎は笑わなかった。笑いに変えれば、春花が戻ってしまう気がした。

  「その先輩には……渡せた?」

  春花は、ミニたい焼きの尻尾を指で押して、潰れた形を直そうとした。直らないのに、何度もなぞる。

  「渡せなかった。『ありがとう』って言えたのに、そのあとが駄目だった。お礼の手紙、書いた。封筒も用意した。でも、渡す日が来たら、教室の前で足が止まって……結局、机の引き出しに入れたまま卒業した」

  言いながら、春花の声が少しだけ掠れた。泣く一歩手前の湿り気だけが残る。


  伸篤が湯飲みを春花の前へそっと寄せた。言葉は足さない。湯気だけが、春花の頬に触れる。

  弥風が得点表の端に、指先で小さく丸を描いた。

  「嘘の場所は、最初の一文?」

  「うん。たぶんね」

  春花が言うと、量大がペン先で空を指した。

  「『はじめての人が苦手』が嘘。理由は、逃げたくなるって部分が、話の後半と繋がりすぎるから。嘘って、もう少し雑に入る」

  「雑に入るって、なんだよ」

  ノブヤが笑いかけて、今回はちゃんと笑いになった。


  智香里が先に口を開いた。

  「嘘は、先輩が笑ったところ。怖いって言いながら、笑いの形だけは覚えてる。覚えてるのは、嫌いじゃないってこと」

  言い捨てるみたいに言って、智香里は湯飲みの縁を指でなぞった。


  翔夏子が手を挙げる。

  「私は、折り紙の青い鶴が嘘。だってさ、青いって……偶然すぎる。時計塔の噂と、なんか……」

  弥風が「偶然が続くと噂になるんだよ」と呟いて、校史のページを閉じた。

  「私は、先輩に呼び止められたのが嘘かも。春花が“呼び止められる”のを待てるとは思えない」

  「待てるよ。待てるときは、待てる」

  春花が小さく言って、孝太郎の口元がわずかに緩んだ。言い返した。逃げていない。


  最後に孝太郎が言う。

  「俺は……嘘は、最初の『初対面が苦手』だと思う。春花、今日ここで話せた。俺ら、最初は全員“はじめての人”だったはずだ」

  春花はすぐに頷かなかった。砂時計の砂が落ち切るのを見てから、ようやく口を開いた。

  「……当たり。嘘はそこ。ほんとうは、初対面の人と話すのは、苦手じゃない。苦手なのは、気持ちを“手渡し”すること」


  翔夏子が「じゃあさ」と声を弾ませた。

  「練習すればいいじゃん。はい、春花。いま、私に『たい焼きありがとう』って言って。私は『どういたしまして』って言う。ほら、ワンセット」

  春花は視線を落とし、たい焼きの皿を見つめた。息を吸って、吐いて――言葉が出ない。代わりに、たい焼きの匂いだけが口の中に広がる気がする。

  量大が手を挙げて、別案を出した。

  「言葉が出ないなら、物で渡す。紙でいい。三行でいい。明日、探索に行くなら、持ち物にもなる」

  弥風が「持ち物って言い方が現実的」と笑い、ノブヤが「探索って言うと、冒険みたいでいいな」と返す。伸篤が「寒いから手袋も」とだけ添えた。


  孝太郎は、得点表を消して、新しい紙を一枚ちぎった。ペンを春花の前に置く。

  「渡す相手が俺でいいなら、練習してみる?」

  春花は一瞬、顔を上げた。目が合って、すぐ逸れた。だけど手は伸びて、ペンを握る。握った指が震えて、字が歪みそうになる。


  「……いま、ここで?」

  「ここで。明日でもいい。でも、ここだと、俺らが見守れる」

  翔夏子が「見守るって言い方、急に保護者」と笑い、ノブヤが「保護者なら俺も」と乗る。量大が「うるさいと集中できない」と即座に切り、弥風が「集中できない人ほど喋る」と笑った。笑いが丸テーブルを一周して、春花の肩がほんの少しだけ下がる。


  春花はペン先を紙に当て、止めた。止めたまま、何かを探すみたいに、天井の灯りを見た。灯りの向こう、窓の外の時計塔の上のほうが、雪の幕の奥でぼんやり見える。

  その窓が――一瞬だけ、深い青に光ったように見えた。

  春花は言葉にしない。代わりに紙に、小さく書いた。三行より短い、でも逃げない線。


  書き終えると、春花は紙を折って、孝太郎の前に置いた。置いた指が、すぐ引っ込まない。指先が紙の角に触れたまま、名残みたいに止まっている。

  孝太郎は紙を開かず、まず春花の顔を見た。

  「ありがとう。……開けていい?」

  春花は目を逸らしたまま、でも頷いた。小さく、確かに。


  紙の中身は、孝太郎だけが読む。孝太郎の眉が一瞬だけ上がり、次に口元が柔らかくなる。

  「うん。受け取った」

  それだけで、春花は息を吐いた。吐いた息が白くならないことに、今さら気づく。


  得点表の「春花」の欄に、翔夏子が大きく丸を描いた。点数じゃない丸だ。誰も文句を言わない。

  外の雪はまだ降っている。けれど図書館の丸テーブルの上には、青い鶴より確かなものが、紙一枚ぶん増えていた。



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