第15話 量大は嘘より先に軍手を出す
同じ日の夜九時。図書館の窓は雪で曇り、外の白が街灯みたいににじんでいた。丸テーブルの真ん中には、砂時計と得点表、それから昼に見つけた図面の束と黄ばんだ封筒が、きちんと端を揃えて置かれている。誰も「置いた」と言わないのに、置き方だけは、八人の性格を混ぜたみたいに整っていた。
孝太郎がペンを指先で回し、視線を上げた。
「今日の語り手は、明日の準備をした人。予定通り、量大」
量大は椅子の背に掛けた軍手を取り、わざわざはめてから頷いた。指先が布越しにふくらみ、ページをめくるのに向いていない。
翔夏子が即座に笑う。
「いや、そこ軍手いる? 紙、危なくないでしょ」
量大は真顔で、手首のゴムを引っ張って密着させた。
「紙で指切る。指切ったら、明日、ロープ結べない」
伸篤が短く息を吐いた。笑いとため息の真ん中みたいな音だった。
ノブヤはマグカップを両手で包み、封筒をちらっと見てから視線を戻した。
「今夜、封筒は開けない感じ? 俺、開けて『壊しました』って言う役、やりたくない」
智香里がメモ帳を開き、鉛筆で「壊す役・ノブヤ不可」と書いた。書いてから、顔を上げずに言う。
「開けるなら、誰が責任を取るかも先に決める」
弥風が頷き、図面の端を指で押さえた。紙が勝手に丸まらないように、力加減が正確だ。
「今日は話を聞こう。封筒は、明日の昼にでも。寒いと糊が割れるかもしれないし」
翔夏子が「糊の心配まで?」と突っ込み、孝太郎が「それも大事」と受け止める。受け止めるから、突っ込みが宙に浮かない。
春花はテーブルの端に肘をつかない距離で座り、胸元の紙片を指で確かめてから、封筒の角へ目を移した。目が行ったのに、手は伸びない。伸びない手の代わりに、呼吸だけが少し深くなる。
孝太郎が砂時計をひっくり返した。
「じゃ、始めよう。嘘ひとつ、ほんとうひとつ。量大、お願いします」
量大はノートを開く前に、ページの角に透明のフィルムを貼った。雪で湿った指先が紙を濡らさないように、という配慮だ。配慮が過剰で、みんなの口元が同時にゆるむ。
量大は視線を落としたまま言った。
「これは、中学二年の冬。十二月の、学期末の話」
言いながら、ノートの行を指でなぞる。布越しなので、なぞった本人が一番読みにくい。
「掃除当番の表が、毎週ぐちゃぐちゃになってた。やる人が偏る。俺はそれを直したくて、教室の後ろに『改善表』を貼った」
翔夏子が「出た、改善」と笑い、量大は笑わない。笑う暇があったら修正したい顔だ。
「改善表には、名前の横に丸を書く欄を作った。丸が付かない人には、次の週に二回分やってもらう。公平だと思った」
ノブヤが「怖い」と小声で言い、伸篤が「公平でも、温度が低い」と返す。言い方が淡々としているのに、場が少しあったかくなる。
「貼った次の日、改善表が消えた。剥がした跡もない。俺は、誰かが捨てたと思った」
量大はここで一拍置き、マグカップを持った。飲むのかと思ったら、湯気で喉を温めただけで戻す。冬のときの癖が、今の冬にも残っている。
「その週の金曜日、掃除が終わったあと、机の中に封筒が入ってた。小さくて、茶色い封筒。表に『量大へ』って書いてあった」
春花の指が、胸元の紙片の角をぎゅっと押した。音はしない。でも、押したことが伝わる動きだった。
「封筒の中には、短い手紙が一枚。『表、やめて。みんな息ができない』って。誰が書いたかは、分からなかった」
弥風が無意識に封筒を見て、視線を戻した。知識より先に、今の封筒が重くなる。
「俺は、その手紙を読んで、腹が立った。息ができないって何だ。掃除はやらなきゃいけない。だから俺は、その手紙に返事を書いた」
量大はここで、ほんの少しだけ眉を寄せた。怒っているというより、当時の自分の書き方を思い出して、修正したくなっている顔だ。
「返事には、『逃げないで話そう』って書いた。あと、『改善点を言って』って。俺はそれを、赤い郵便ポストに入れた」
ノブヤが顔を上げた。
「え、出したの?」
量大は頷いた。頷きが硬い。
「次の週、封筒はまた入ってた。今度は『ごめん。言い方が悪かった』って。俺は――」
量大はそこで、軍手を外した。布を引っ張る音が、図書館の静けさの中でやけに大きい。外した指で、ノートの端を押さえる。ここは素手じゃないと進めない場所だ、と言っているみたいだった。
「俺は、教室の前で全員に向けて言った。『改善表はやめる。代わりに、掃除のやり方を一緒に決めよう』って」
孝太郎が「それ、言えたんだ」と小さく言い、量大は目を上げずに「言った」と返した。褒められても、当時の喉の痛みが先に来るらしい。
「そのあと、手紙の相手が分かった。いつも遅くまで残って、黙って机の下を拭いてたやつ。俺が『息ができない』って言われたとき、息を止めてたのは、たぶん俺のほうだった」
智香里が鉛筆を止めた。書く手が止まると、聞く姿勢がはっきり見える。
量大はノートを閉じ、机の上に両手を置いた。
「嘘ひとつ、ほんとうひとつ。どこが嘘か、当てて」
翔夏子が腕を組み、即答する。
「郵便ポスト。量大がポストに入れる前に、まず本人に渡しに行くでしょ」
ノブヤが「俺もポスト怪しい」と乗る。
「だって、相手が誰か分からないのに、住所どうするの。学園じゃあるまいし」
弥風が静かに言った。
「でも、学校の中なら『校内便』って形で先生に預けることはできる。量大なら、その手も考える」
春花はすぐに言えず、封筒を見てから視線を上げた。
「……嘘は、ポストじゃなくて。全員の前で言ったところ。量大は、言う前にノートに書いて、机の中に入れる気がする」
言い切ったあと、春花は自分の言葉に驚いたみたいに瞬きをした。孝太郎はその驚きを拾うように、頷いた。
孝太郎が得点表の横に小さく線を引いた。
「多数決。翔夏子とノブヤはポスト、春花は全員の前。弥風は……?」
弥風は一瞬だけ迷い、図面の束を押さえていた指を離した。
「全員の前、かな。量大は『公平』のために、皆に言う」
伸篤は短く言った。
「ポスト」
智香里はメモ帳を閉じた。
「全員の前」
票が割れた。孝太郎は笑いそうになって、咳払いでごまかした。
「よし。量大、答えを」
量大は封筒のほうを見なかった。代わりに、素手の指で自分のノートの背を一回だけ叩いた。
「嘘は、赤い郵便ポストに入れたところ。俺は、入れなかった」
ノブヤが「ほらぁ!」と小さく拳を握り、翔夏子が「そこは外した」と悔しそうに笑う。
量大は続けた。
「返事は、机の中に入れた。相手が誰か分からないから、封筒のまま。……逃げないで話そう、って書いたのに、俺が逃げた」
言葉が落ちたあと、図書館の暖房の音だけがしばらく残った。
孝太郎が静かに言った。
「それで、どうなった?」
量大は頷き、声を少しだけ柔らかくした。
「掃除のやり方は、皆で決めた。俺は、相手に『ありがとう』って言った。遅くなったけど。……言えたから、今は息ができる」
春花は胸元の紙片を指で押さえ、封筒の角を見た。
「……明日、息が止まりそうになったら、止まったって言う」
誰に向けた言葉かは、まだはっきりしない。でも、孝太郎が「うん」と返したことで、言葉は宙に落ちずに受け取られた。
翔夏子が封筒を指先でつつき、笑う。
「じゃあ明日の昼、これ開ける? 軍手二枚重ねで」
量大が即座に言った。
「二枚は滑る」
ノブヤが「そこ真面目に答えるな」と笑い、伸篤が「一枚で」と淡々とまとめた。
砂時計の砂が、最後の粒を落とした。
外の雪はまだ降っている。けれど丸テーブルの上には、嘘とほんとうの間に、ちゃんと置ける言葉が一つ増えた気がした。




