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冬休みのはずの学園と、嘘の実話祭り  作者: 乾為天女


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第13話 ノブヤ、トラブル回避に失敗する

 図書館の丸テーブルに、八人の影が揃うころ、窓の外は完全に黒かった。雪は止まない。ガラスに当たる粒が、細い爪で引っかくみたいに、さらさらと音を立てる。

  孝太郎はホワイトボードの前に立ち、チョークを指で転がしてから、みんなの顔を順番に見た。誰かの視線が落ちた瞬間、そこに一度だけ「大丈夫?」を置くように、目を戻してやる。


  「九時。始めよう。今日の語り手は――ノブヤ」


  ノブヤは「えっ」と言ったあと、すぐに両手を上げた。

  「待って待って。俺さ、こういうの、揉める匂いするじゃん? 今日は平和に、無難に、ね?」

  言いながら、椅子を引く音が大きくならないように、そーっと腰を下ろす。普段なら雑に座るくせに、急に丁寧だ。


  翔夏子が、ホワイトボードの得点欄を指で叩いた。

  「無難って、点が取れないやつ。ほら、言え。嘘ひとつ、ほんとうひとつ」


  「圧が強い」

  ノブヤは肩をすくめて、わざとらしく咳払いをした。それから、胸の前で指を組み、いったん天井を見上げる。思い出すふりだ。考える時間を稼ぐふりでもある。


  「じゃあ、俺の話な。今日の夕方、旧校舎の渡り廊下で……俺、青い粉、踏んだ」


  弥風がすぐに身を乗り出した。

  「青い粉? どこ? 時計塔の近く?」

  「落ち着け、百科事典」

  ノブヤが言うと、弥風は「百科事典は褒め言葉」と真顔で返した。そこで笑いが起きる。孝太郎は、その笑いが続くうちに、ノブヤの表情の硬さを見つけてしまった。


  ノブヤは続ける。

  「踏んだ瞬間、足の裏が、冷たくて。粉が雪みたいに……いや、雪より重い感じでさ。で、俺は思ったわけ。『これは危ないやつだ。行くな』って」

  「それ、さっきと同じ結論」

  智香里が、淡々と言う。

  「そう! 俺、危険察知が得意なの! で、みんなに言ったの。『危なそうだから、やめよう』って」


  孝太郎は、ノブヤの言葉を口の中で復唱してから、ゆっくり頷いた。

  「『危なそうだから、やめよう』って言ったんだね。それで、どうなった?」


  ノブヤは、そこだけ少し声を落とした。

  「……言った直後に、俺の足元の板が抜けた」


  「抜けた?」

  量大が眉を上げた。言葉は短いのに、頭の中で状況を組み立てる速度が見える。

  「落ちたの?」

  春花が、膝の毛布の端を握り直した。結び直す代わりに、握り直す。指先が、落ち着く場所を探している。


  ノブヤは、右手で自分の足首を撫でた。怪我はしていないのに、そこだけ寒いみたいに。

  「落ちかけた。穴が開いてさ、足が……すぽって。で、その瞬間、孝太郎が腕を伸ばして、俺の上着の襟を掴んだ。あれ、首が千切れるかと思った」


  「千切れるかと思ったは嘘っぽい」

  翔夏子が笑う。

  「そこは嘘で、ほんとうは――」

  「ほんとうは、心臓が口から出るかと思った」

  ノブヤが即答し、また笑いが起きた。笑いが起きるのに、春花は一度だけ息を止めたまま、孝太郎の顔を見た。孝太郎は視線に気づいて、軽く眉を上げて「大丈夫」とだけ口の形で言う。


  孝太郎がその場面を補うように、穏やかな声で言った。

  「襟、掴んだのはほんとう。……でも首は千切れない。たぶん」

  「たぶん!?」

  ノブヤが食いつき、翔夏子が「そこ、笑わせる気だな」と指をさす。

  孝太郎はわざと肩をすくめた。

  「今のは得点マイナス一。危険を煽った」


  「得点マイナスって何だよ!」

  ノブヤが叫び、量大がすかさずメモに「危険を煽る=-1」と書き込む真似をした。弥風が「校則にない」と言い、智香里が「作るな」と言う。伸篤は、笑いの輪の外で、春花の毛布がずれないように、そっと端を直した。


  孝太郎は、笑いが落ち着いたところで、ノブヤに問いを返した。

  「で、ノブヤ。嘘はどこ?」

  「そこが問題なのよ」

  ノブヤは頭を抱えた。

  「俺、さ……嘘を混ぜると、余計に面倒が増える気がして。ほんとうだけで話すと、もっと面倒が増える気がして」


  その言い方が、いつもの軽口の形をしているのに、声の裏が少しだけ震えていた。孝太郎は、その震えに気づいても、すぐに掘り返さない。いったん、逃げ道を作る。


  「じゃあ、嘘は『青い粉を踏んだ』でどう?」

  孝太郎が提案すると、ノブヤは「それは……」と言い淀み、春花が小さく首を振った。

  「……踏んだと思う。足の裏、覚えてる」


  春花の言葉に、場の温度がすっと変わる。笑いの湯気が、少しだけ薄くなる。ノブヤは両手を上げて、降参の形をした。

  「はい、じゃあ嘘は別。嘘は……『俺が最初に危ないって言った』」

  「え?」

  翔夏子が目を丸くする。

  ノブヤは、指で自分の胸を叩いた。

  「最初に言ったの、俺じゃない。春花だった。廊下で、壁に手を当てて、『こっちじゃない』って。あれ、俺、聞いてた。聞いてたのに、さ。みんなの前で言うと、空気が変わる気がして、言わなかった。……これが、俺の嘘」


  智香里が、珍しく言葉を探して口を閉じた。翔夏子も、勢いのまま突っ込めずに、ペン先で得点表をなぞる。弥風は目を伏せて、年鑑の紙の匂いを嗅ぐように息を吸った。


  孝太郎は、ノブヤの言葉を丁寧に繰り返した。

  「『聞いてたのに、言わなかった』。それが嘘だってことだね」

  「そう。俺、トラブル避けたいから。……でも避けた結果、もっと危ないとこに行った」


  春花は毛布の端をぎゅっと握り、視線を落とした。孝太郎は、その握り方が強くなっているのを見て、場を軽くする言葉を探す。軽くする。でも、薄くしない。


  「じゃあさ」

  孝太郎はチョークを指で回し、ノブヤへ笑いかけた。

  「次からは、聞いたことは言おう。言ったら空気が変わるなら、変わった空気を俺が受け止める」

  ノブヤは「優等生か」と言いかけて、途中で黙った。代わりに、鼻の奥がつんとするのを誤魔化すように、手で目尻をこすった。


  そのとき、図書館の外廊下で「コトン」と小さな音がした。誰かの足音ではない。軽い金属が転がったみたいな音だ。

  弥風が先に立ち上がりかけ、量大が反射で「確認するなら二人以上」と言い、翔夏子が「じゃあ私が先頭」と言って椅子を引いた。椅子の音が大きい。


  「待って」

  ノブヤが、今度は本気で手を広げた。

  「危なそうだから、やめよう。……今度こそ」


  孝太郎は、ノブヤの言葉を復唱して頷いた。

  「『危なそうだから、やめよう』。うん。でも、音の正体だけは確認したい。二人で行く。俺と――」

  孝太郎が春花の方を見るより先に、伸篤が静かに立った。言葉はない。けれど「一緒に行く」が姿勢で分かる。

  孝太郎は「伸篤、ありがとう」とだけ言って、懐中電灯を手に取った。


  廊下は暗く、窓ガラスに映る自分たちの顔が、少しだけ知らない顔に見える。二人は足音を殺して歩き、音がした場所の角を曲がった。

  そこに落ちていたのは、古い鍵だった。錆びていて、先が欠けている。孝太郎がしゃがんで拾おうとした瞬間、背後で足音が増えた。


  「ちょ、待てって!」

  ノブヤが結局ついてきていた。翔夏子も、弥風も、量大も、みんなの影が伸びてくる。止めると言ったのに、止めきれない。自分で回避しようとしたのに、輪の中心に戻ってきてしまう。


  「ほら、だから――」

  ノブヤが言いかけた、その足元で、床板が「ぱき」と乾いた音を立てた。

  音の次に、空白が来る。板が沈み、ノブヤの体が前へ落ちる。

  孝太郎は考える前に腕を伸ばし、今度は襟ではなく、ノブヤの手首を掴んだ。伸篤が後ろから孝太郎の腰を支え、量大が「左足! 壁側!」と叫ぶ。翔夏子が「引け!」と声を上げ、弥風が「止まれ!」と叫ぶ。智香里は叫ばない。その代わり、ノブヤの背中に手を当て、押し返す位置を一瞬で決めた。


  ノブヤの靴が床に戻った瞬間、全員が同じタイミングで息を吐いた。吐いた息が白く見えそうなほど、喉が冷えている。

  ノブヤは顔を真っ青にしたまま、笑おうとして口角を上げ、途中で引きつった。


  孝太郎が、ふっと息をつき、いつもの調子で言った。

  「今のは……得点マイナス十」

  「どんだけ引くんだよ!」

  ノブヤが叫び、そこだけ、やっと笑いが戻った。戻った笑いが、床の穴を埋めることはない。それでも、手の震えを止めるのには役に立つ。


  春花はみんなの背中の隙間から、穴を見た。底は暗い。けれど、穴の縁に、青い粉が薄く残っている。さっきの自分の指先のざわつきが、少しだけ強くなる。

  春花は言おうとして、言葉が喉で引っかかった。代わりに、胸ポケットの紙片を指で押さえた。紙がそこにあるだけで、言葉が整列する気がした。


  「戻ろう」

  孝太郎が言う。命令ではない。提案でもない。全員が同じ方向に向かうための、短い合図だ。

  ノブヤは頷きながら、声を絞り出した。

  「……次から、俺、止めるときは、ちゃんと止める。言うときは、最初に言う。……嘘、混ぜてもいいから」


  孝太郎は、ノブヤの言葉を一度だけ復唱した。

  「『最初に言う』。うん。今のは、得点プラス一」

  「勝手に点つけんな!」

  ノブヤが怒鳴り、みんなが笑った。


  図書館へ戻ると、丸テーブルの上に、さっき拾った錆びた鍵が置かれた。弥風が顔を近づけ、量大が安全のための保管場所を提案し、翔夏子が「明日また行く」と言いかけて、智香里に睨まれて飲み込む。

  春花は鍵を見て、胸の紙片に触れ、薄く息を吸った。

  「……手紙、鍵より先だって、言ったでしょ」

  誰に言うでもない声だった。でも、孝太郎は聞き逃さず、頷いた。


  雪は止まない。けれど、八人の夜は、さっきより少しだけ明るい。



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