第11話 孝太郎のサンタは遅刻する
図書館の壁時計が九時を打つと、丸テーブルの上の湯気がいっせいに揺れた。暖房の風が、紙の端をそっとめくる。窓の外は墨を流したみたいに暗く、雪の匂いだけが近い。
「今夜は、俺からいく」
孝太郎は、集計用のノートを量大の前へ滑らせた。量大は受け取ると、いつもの癖でページの隅に線を引き、欄を作り直す。昨日までの点数が、きれいに並び替えられていく。
「え、孝太郎が語り手? それ、ずるくない? どうせ当てさせないでしょ」
ノブヤが笑いながら言う。笑うとき、彼は机を叩かない。その代わり、自分の膝の上で指をくるくる回す。
「当てられると俺が困る」
孝太郎が言うと、翔夏子が椅子を少し強めに引いた。音が一つ大きい。それが、重たくなりかけた空気を切る。
弥風は校史の束を抱えたまま、ペン先を軽く舐めてから机に置いた。
「今日の紙片の話は、いったん棚に戻す?」
「棚に戻す。戻して、今は話だけ」
伸篤が言った。言い終わると、伸篤は春花のマグの位置を指で少しだけ直す。手が触れない距離で、熱いものが倒れない位置へ。
春花は頷く代わりに、マグを持ち上げて一口飲んだ。湯気の向こうで、目が一瞬だけ伏せられる。
孝太郎はテーブルの木目を見つめ、唇の内側を軽く噛んだ。喉の奥に、言いそびれた言葉が残っている。残ったままだと、夜が長くなる。
だから、笑いから始めることにした。
「うちのサンタ、遅刻するんだよ」
言った瞬間、ノブヤが肩をすくめた。
「遅刻サンタ。もうそれ、弱そう」
「弱そうって言うな。うちのは強い。遅れても来る」
孝太郎が返すと、翔夏子が「聞く」と短く言って、肘をついた。
孝太郎は、小学校の頃の自分の部屋を思い出す。敷きっぱなしのカーペット、机の上の鉛筆削りの匂い、壁に貼った身長の線。窓の外だけが、今と同じで暗い。
「俺、小三のときさ。どうしてもサンタの顔が見たくて、仕掛けをした。玄関から部屋まで、米粒を一列に並べたんだよ。道しるべ。間違いなく俺の部屋に来るように」
量大がペンを止めた。
「米粒。掃除が大変そう」
「そこ?」
翔夏子が突っ込むと、笑いが起きる。智香里も口角だけを動かして、息を一つ落とした。
「で、米粒の途中に鈴も置いた。踏んだら鳴るやつ。俺は布団に入って、目だけ開けて待ってた。そしたらね、夜中の二時」
孝太郎は、わざと指を二本立てた。
「二時に、鈴が鳴った。カラン、って。俺、勝ったと思った」
ノブヤが身を乗り出す。
「そこからだ。顔見た? ひげ、触った?」
「触った」
孝太郎が言うと、今度は弥風が身を乗り出した。
「触れる距離まで近づいた? それはすごい。逃げられないようにどうやって――」
孝太郎は、ここで派手な嘘を混ぜる。
「俺、玄関で捕まえたんだよ。サンタが米粒を踏みながら来て、途中で一回、立ち止まった。たぶん米粒を拾って食べてた」
「食べるな」
智香里が即答し、笑いがもう一段上がる。
「で、玄関のところで俺が飛び出したら、サンタ、すげえ勢いで逃げた。廊下を、赤い帽子が走る。俺も走る。でさ、うちのマンション、廊下の突き当たりに非常階段があるんだけど、サンタ、そこから屋上に――」
翔夏子が目を細めた。
「屋上?」
「屋上。しかも、屋上にトナカイが待ってた。二頭。鼻息、白い。俺、人生で一番、勝った気がした」
ノブヤが吹き出し、弥風が「待って、それは物理的に」と口を押さえた。量大は真剣に天井を見て、廊下の幅を測るみたいな顔をする。
孝太郎は、笑いが落ち着くのを待ってから、声を少しだけ下げた。
「……でも、ほんとうはね。鈴が鳴ったの、二時。そこはほんとう」
テーブルの上のペン先が、同時に止まる。止まったのに、紙は真っ白にならない。みんなの目が、孝太郎の口元に集まっている。
「俺、布団の中で起きて待ってた。眠いのに、目が冴えて。何回も時計を見て。十二時を過ぎたら、ちょっと怖くなった。『サンタ、来ないのかな』って」
春花が、マグの縁を指でなぞった。指先が一周して、止まる。
「母さんは先に寝てた。寝てたっていうか、台所の椅子に座ったまま、うとうとしてた。俺は『起きてる』って言えなくて、部屋に戻って、音を立てないように待った」
孝太郎は、喉に引っかかったものを、いったん飲み込んだ。
「二時に、鍵が回る音がした。ガチャって。で、玄関が開いて、誰かが小さく咳をした。……父さんだった」
ノブヤが、いつも回している指を止めた。止めたまま、膝の上の手を握る。
「父さん、仕事で毎年遅かった。帰ってきたら、息が白いくらい冷えてて。なのに、紙袋を抱えてた。俺の名前が書いてあるやつ。たぶん、買ったの、駅前の店が閉まる直前」
孝太郎は、紙袋の角を守るように抱えた父の腕を思い出す。腕の上に、雪が溶けて濡れた跡が残っていた。
「父さん、俺の部屋の前で立ち止まって、すごい小さい声で言ったんだよ。『遅くなった』って。……サンタの言い方じゃないよな」
笑いが、もう一度起きかけて、途中で消える。消える前に、伸篤が小さく息を吐いた。それが、部屋の温度を保つ蓋みたいになった。
「俺、そのとき布団の中で、寝たふりしてた。起きたら父さんが困る気がして。困らせたくなくて。だから、目だけ開けて、父さんの足音を数えた」
孝太郎は、指先で机を二回だけ叩いた。カツ、カツ。足音の数。
「父さんは、部屋に入って、プレゼントを枕元に置いて、しばらく動かなかった。帰ってきたのに、座り込んだみたいに。……それで、また小さい声で言った。『間に合った』って」
春花の喉が、小さく動いた。飲み込んだのが、湯じゃないのが分かる。
「俺、翌朝、枕元の袋を見つけた。嬉しかった。嬉しかったけど、同時に思った。サンタって、遅れても来るんだなって。遅れるのは、いなくなるのとは違うんだなって」
孝太郎は顔を上げ、みんなの目を見回した。最後に春花を見る。春花は目を合わせず、テーブルの縁を指で押している。押しながら、足が机の下で小さく揺れている。
「で、俺が今言った話。嘘は派手、ほんとうは痛い。……さて、どこが嘘でしょう」
紙が配られる。弥風が切り取って渡し、量大が鉛筆の削り具合まで気にして折り目を揃える。ノブヤは「当てたら孝太郎、俺にココアおごれ」と言い、智香里に「今それ言う?」と止められる。翔夏子は黙って書く。伸篤は一番最後に書いて、ペンのキャップを丁寧に閉めた。
孝太郎が「せーの」で紙を開かせると、当たりは二枚だった。
「屋上のトナカイが嘘、って書いたの、誰」
孝太郎が言うと、翔夏子が手を挙げた。
「いるわけない」
「正しい」
孝太郎が頷くと、翔夏子は少しだけ肩の力を抜いた。
もう一枚は弥風だった。
「屋上は風が強すぎる。動物が落ち着いて待てない」
「そこまで考えた?」
ノブヤが笑って、でも笑い方がいつもより静かだった。
量大が点数欄に数字を書き入れ、伸篤が「二枚なら高得点」と淡々と言う。言ったあと、伸篤は孝太郎の前にティッシュを一枚だけ置いた。孝太郎は受け取らず、指先でその角を整えた。
「……遅れても来るなら、待てる」
春花が言った。声は小さくて、机の上の紙より軽い。けれど、孝太郎の胸の中では、紙片の墨より重かった。
孝太郎は、春花の言葉をいったん口の中で転がしてから、返す。
「待てる、か」
「うん」
春花はそれだけ言って、マグを両手で包み直した。指先の赤みが、少し戻っている。
外で、風が窓を叩いた。遠くの旧校舎の方角から、何かが軋むような音がした気がする。けれど、誰も立ち上がらない。立ち上がれば、青い欠片のことを思い出すから。
孝太郎は、点数の横に小さく一行だけ書いた。
「遅れても、来る」
書いたあと、ペンを置いて、笑った。笑いは大きくない。けれど、今夜の丸テーブルには、その大きさでちょうどよかった。




