第10話 勝者はひとり、と書かれていた
翌朝、寮の食堂には、いつもより少ない音だけが落ちていた。スプーンが皿に当たる、ポットの湯が揺れる、窓の外で雪が風に撫でられる。その全部が、昨夜の青い欠片の冷たさを思い出させる静けさだった。
孝太郎は、パンの端をちぎって口に運びながら、金属ケースの鍵をポケットの中で確かめた。鍵は軽い。軽いのに、指先が勝手に握りしめてしまう。
テーブルの向かいで、春花がミルクティーを両手で包んでいる。湯気で眼鏡が一瞬だけ曇り、春花は指でそっと拭った。拭う動きが、必要以上に丁寧だった。
「昼、ちょっとだけ集まろう。図書館で。欠片の件、確認したい」
孝太郎が言うと、量大が頷いた。頷きながら、ノートの端に小さく当番表みたいな線を引く。線が増えるたびに、みんなが安心できる場所が増える気がしたのだろう。
弥風は「了解」と短く返した。翔夏子は椅子の背を指でトントン叩きながら、「午前中は旧校舎行かないの?」と口を尖らせる。昨日、鍵穴に付いた青い粉が、翔夏子の指先にまだ残っているみたいだった。
「行かない。雪の状態もあるし、順番がある」
量大が言うと、翔夏子は「順番、順番」と真似して笑う。笑い方は軽いのに、目は逃げていない。
食堂の端で、智香里がジャムを塗る手を止めた。伸篤が「あとで温かいの淹れる」と小声で言うと、智香里は「別に」と返す。返したあと、ジャムの瓶の蓋を、必要以上に固く閉めた。
正午前。図書館の丸テーブルに、八人が揃った。窓から入る冬の光は白くて、古い木の匂いを薄めるみたいに淡かった。
孝太郎は金属ケースを中央に置き、鍵を外す。カチリ、と小さく鳴った音に、春花の肩がほんの少し跳ねる。
欠片は青い。青いのに、光を自分から出しているわけではない。窓の光を拾って、冷たい色を返しているだけだ。
「昨日の年鑑、もう一度見よう」
弥風が年鑑を開き、表紙裏を指でなぞった。爪が紙を掠める音が、図書館の静けさに刺さる。
「ほら、ここ。表紙の裏の貼り合わせ、ちょっと浮いてる」
弥風が言って、薄い紙をそっと剥がした。剥がすというより、長い間そこに挟まっていた空気を逃がすような動きだった。
春花が息を止めているのが、孝太郎には分かった。止めた息が、次にどこへ行っていいか迷っている。
紙の奥から、もう一枚、くしゃっとした紙片が出てきた。雪で湿ったみたいに波打っているのに、墨の線だけはくっきり黒い。
弥風が紙片を広げる。広げた瞬間、翔夏子が前のめりになった。
「何それ、手紙?」
「手紙っていうより……一言」
弥風が読み上げた。
『勝者はひとり』
丸テーブルの上に、黒い文字が落ちた。落ちたというより、置かれた。置かれて、動かない。
ノブヤが、空気を持ち上げようとするみたいに、わざと明るい声を出した。
「じゃあ俺、勝つわ」
その一言が、うまく笑いに変わらなかった。笑いの代わりに、誰かの喉が鳴った音がした。孝太郎は笑った。笑って頷いた。頷いたのに、胸の奥が小さく軋む。
勝者がひとり。つまり、残りの七人は、負ける。紙片がそう言っている気がした。
「ノブヤ、それ、宣言は得点つかないやつな」
孝太郎が言うと、伸篤が「確かに」と小さく笑った。智香里も、口角だけ動かす。ようやく、空気がひと呼吸ぶん戻ってくる。
ノブヤは肩をすくめて、両手を上げる。
「はいはい。俺は安全第一。勝つとか言うと危ない匂いするし」
言い直したのに、紙片は残る。残ったまま、春花の視線が紙に吸い寄せられている。視線は真っ直ぐなのに、手だけが膝の上で小さく握ったり開いたりを繰り返す。
孝太郎は、その指の動きを見た。見て、目を逸らさなかった。逸らしたら、春花の中で何かが固まってしまいそうだった。
「勝者って、何の勝者だよ」
翔夏子が言った。笑いを混ぜずに、真正面から投げた言葉だった。
量大が、年鑑のページをめくりながら答える。
「噂の通りなら、最後の夜の得点一位」
「じゃあ、得点やめれば?」
翔夏子の提案は、乱暴なようで、優しかった。勝てない誰かを、最初から救おうとする言い方だった。
弥風が欠片を金属ケースに戻し、紙片だけを指先でつまむ。
「紙は古い。誰かが面白がって書いた可能性もある」
「面白がって『勝者はひとり』って書く?」
智香里が言った。声は硬い。硬いのに、震えてはいない。震えないように、指先がテーブルの縁を押している。
伸篤が、カップを置く。湯気が上がる。
「とりあえず、今夜の話で一回、様子見よう。点数は点数。紙は紙。混ぜない」
伸篤の言い方は、教室で先生が板書を切り分けるときに似ていた。切り分ければ、喉に引っかからない。みんなが少しだけ頷く。
春花だけが、頷かなかった。頷けなかったのではなく、頷くためのタイミングを見失っているみたいだった。
孝太郎は、春花の前に紙片を置かないように、そっと自分の側へ寄せた。
「これ、俺が預かる。欠片と一緒に。鍵も俺が持つ」
言い切ると、量大が「保管場所の記録、作る?」と聞いた。孝太郎は「あとで」と返した。記録は必要だ。でも今は、春花の呼吸を戻すほうが先だった。
昼過ぎ。みんなが散ったあと、孝太郎は図書館の窓際で春花を待った。春花は本棚の間をゆっくり歩いていた。背表紙を見ては、指を引っ込める。取るでもなく、取らないでもなく、迷う動きだった。
孝太郎が声をかける前に、春花が小さく言った。
「……勝者がひとりって、嫌だね」
嫌だ、という言葉を春花が使うのは珍しい。いつもは「どうしよう」とか「分からない」とか、言葉の角を丸めるのに、今日は角が立っている。
孝太郎は、紙片をポケットの中で指で押した。硬い紙の端が、指の腹に当たる。
「嫌だな。俺も」
孝太郎が言うと、春花は一度だけ笑った。笑ったのに、目が笑っていない。笑いが、雪の上の足跡みたいに薄い。
「……みんな、勝ちたいって言いそう。言わない人も、黙るだけで」
春花は本棚の端に指を置き、そのまま離さなかった。指の爪が白くなる。
「勝ちたいって言うのが悪いとは思わない。でも、言われる側が……」
言葉が途切れて、春花は口を閉じた。閉じた口の中に、続きをしまい込んだのが分かった。
孝太郎は、すぐに続きを聞かなかった。聞いたら、春花が「言わなきゃ」と頑張ってしまう。
その代わり、窓の外を指した。
「今日、雪が少し柔らかい。夕方、寮の前の雪かき、みんなでやるってさ」
「雪かき……」
春花の肩が少し落ちた。落ちて、呼吸が戻る。
「……勝者がひとりでも、雪かきの勝者は、たぶん誰もいないね」
春花が言って、今度はちゃんと笑った。孝太郎も笑った。笑いが、紙片の墨の重さを、ほんの少しだけ薄めた。
夜九時。図書館の丸テーブルに、また八人が集まった。外は真っ暗で、窓には自分たちの顔だけが映る。孝太郎は紙片をケースの下に敷かない。敷いたら、文字が卓上に居座る。
「今夜も、嘘ひとつ、ほんとうひとつ。点数は、点数。紙は、紙」
伸篤が言って、まずペンのキャップを外した。カチッという音が、始まりの合図になる。
誰が勝つか、誰が負けるか。そんな言葉が、まだ口に出ていないのに、部屋の隅に置かれている気がした。
孝太郎は、春花の横顔を見る。春花は、湯気の立つマグを両手で包み、指先の震えを湯で隠している。
孝太郎は心の中で、昨日書いた一行を思い出した。
青い欠片が重くするのは、鍵じゃない。言葉だ。
今夜、誰かの言葉が、誰かを刺さりそうになったら。
孝太郎は、そのときこそ笑いに変える、と決めた。決めた自分を、紙片の墨が試しているみたいだった。




