第1話 世界が壊れ、物語が始まる(6月30日 水曜日)
ゴイン
ベチャッ
ゴイン
ベチャッ
腕を振り下ろす。
重量感のある打撃音が響き、振動が伝わってくる。
先ほどまで途切れ途切れに交じり合っていた耳障りな悲鳴は、いつの間にか消えていた。
「はあっ、はあっ」
熱い。
呼吸がおかしい。
息苦しいし、心臓が爆発しそう。
毛穴という毛穴から噴き出してくる粘ついた汗が気持ち悪い。
指が痛い。手のひらが痛い。握力がなくなりかけている。掴んでいる消火器がすっぽ抜けそう。
ゴイン
ベチャッ
ゴイン
ベチャッ
それでも、繰り返した。
何度も何度も振り上げて――振り下ろす。
馬乗りになって、ゴブリンに、消火器を叩きつけている。
ゴイン
ベチャッ
ゴイン
ベチャッ
★
「……」
202X年6月30日、水曜日、昼休み。
学園――『私立陽明学園』第1校舎。
3階男子トイレ、個室。
「……」
便座に腰を下ろした『桧川 拓郎』は、じーっと虚空を見つめていた。
眼鏡の奥の瞳はうつろに澱んで、焦点を結んでいない。
「はぁ……しんどい……」
大きなため息を、ひとつ。
中学三年生のゴールデンウィーク、両親と妹が死んだ。
ひとり残った拓郎は親戚の間をたらいまわしにされて、叔父の家――佐倉家に迎えられた。
叔父は言った。
『うちは秋帆だけで精いっぱいなんだ』
学費の話だった。
秋帆は叔父の娘で、拓郎にとっては従姉妹にあたる。
娘の学費だけで限界だと告げられて『そんなこと言われても……じゃあ、どうすりゃいいんだ?』と困惑して……すったもんだの末に、特待生としてこの学園に入学した。陽明学園は裕福な良家の子女を多数抱え込んでいる超有名私立だけあって、学園独自の制度がいくつかあって、学年主席の学費から何から全額免除する特待生制度もそのひとつだった。
『アンタたちの世話にはならない』
言葉にしたことはなかった。
ちなみに件の従姉妹こと『佐倉 秋帆』も同じ学園に通っている。
ここの学費はクソ高いはずなのだが……『金があるのかないのかどっちなんだ?』と尋ねることはしなかった。
親戚とは言え、しょせん拓郎はよその子だ。
自分の娘と比較できるものではないだろう。
現在、拓郎は高等部の2年生。
1年と少々を優等生として過ごしてきた。
特待生としての立場――学費全額免除を維持するために学年主席であり続けた。
持てる時間のほとんどを学力アップに捧げ続けてきた代償として、他のほとんど何もかもを放り捨ててきた。
で。
「……しんどい、マジしんどい」
優等生なんて柄じゃない。
こうして時おりひとりにならないと、息がつまってしまう。
『は~っ』と肩を落とした拓郎の耳にチャイムが届く。昼休みの終了を告げる予鈴だ。
「……そろそろ、戻らないと」
ぱんぱんと頬を叩き、優等生『桧川 拓郎』の仮面を被り直す。
水を流して、ズボンを穿いて、ドアを開けて、きれいに手を洗って、トイレを出て――何かにぶつかった。
衝撃。
拓郎は軽く後ずさった。
相手は、音を立てて床に倒れ込んでしまった。
「す、すみませ……え?」
反射的に頭を下げて、目を剥いた。
すぐそこ――床に転がっていたのは、小さな人影だった。
どれくらい小さいかと言うと、身長170センチに満たない拓郎の腰くらい。
全身ガリガリだった。
汚らしい腰みのしか身に着けていなかった。
耳元まで裂けた口には黄ばんだ牙が並んでいて、鼻は不自然に大きくて、目は横に長かった。
率直に、醜いと思った。
そして、何より……肌が緑色だった。汚らしい緑灰色。
「……ゴブリンか?」
口をついて出たのは、ファンタジー世界を舞台にしたマンガやゲームでおなじみのモンスターの名前だった。
ゴブリン。
その扱いは出典によって異なっている。
最弱のモンスターと呼ばれることもあれば、ベテランの冒険者でも油断するとやられてしまう厄介な存在だったりすることもある。
邪悪で、残忍で、粗暴。
主産業は殺戮と略奪と凌辱あたり。
知能はそれほど高くないとされる場合が多い。
まぁ。
何はともあれ。
そんなモンスターが。
現実に存在するはずないのだが。
「はは、バカバカしい……」
『勉強のし過ぎで、ついに幻覚を見るようになったか』と呆れていたら……ゴブリンと目が合った。
全身を悪寒が駆け抜ける。生まれてこの方まったく覚えのない感覚だった。
奇声を上げて飛びかかってくるゴブリンを、とっさに避けた。
避けた拍子に足を滑らせて、盛大にズッコケた。
拓郎は今も昔も運動が得意ではない。
痛い。
なんだこれ。
わけがわからない。
――幻覚じゃ、ない!?
起き上がって、視界の端に赤いものが引っかかった。
考えるより早く、それ――消火器に飛びついて、背後に迫るゴブリンを殴りつけた。
そのまま、馬乗りになって殴り続けている。
ずっと、殴り続けている。
★
ゴイン
ベチャッ
ゴイン
ベチャッ
無我夢中だった。
頭の中は真っ白に燃えていた。
ただひたすらに、ゴブリンを殴り続けている。
「なんだよ、なんなんだよ……」
視界が滲んでいた。
とっくの昔に枯れたはずの涙が溢れてくる。
唐突に家族を失ったあの日に、一滴残らず枯れ果ててしまったはずの涙が。
腕が勝手に動く。
ゴブリンを殺そうとしている。
命を奪う罪悪感? はは、そんなものは――
「僕は、僕はッ!」
ゴツンと衝撃。
消火器が、床を叩いていた。
ゴブリンが……端から黒く炭化して消えていく。
紫色の血の池の真ん中に、鈍い光を放つ小さな黒い石だけが残った。
「はあっ、はあっ……た、倒した、のか? コイツ、何だったん……がっ、がああああああっ!?」
安堵を覚えるより早く、身体の内側から激烈な熱が膨れ上がった。
全身が焼けるように熱い。破裂してしまいそうだ。
衝撃と痛みで、廊下に倒れたと気付いた。
眼鏡が落ちた音が、やけに遠い。
――誰か、助けてくれ!
叫ぼうとして、声が出なかった。
とにかく熱い。息ができない。まるで炎を飲み込んだみたい。
――クソッ……僕は死なないぞ、死んでたまるもんか!
生きる。
それは拓郎の至上命題だ。
ギュッと目を閉じて、歯を食いしばった。
身を守るように、強張った身体を丸めて頭を抱きかかえた。
その状態がどれぐらい続いたのかわからなかったが――いつの間にか熱は収まっていた。
「はあっ……はあっ、はあっ……ごほっ、なっ、なんなんだ、今の!?」
視界がぼやけていた。
眼鏡をかけ直して――ふらついた。
四つんばいになって、大きく息を吸って吐いた。
何度も、何度も。肺が、身体が新鮮な空気を欲しがっている。
後から後から噴き出す汗がポタポタと床に垂れ落ちて、シミを作っていく。
しばらくたって、呼吸が落ち着いてきて、立ち上がってみて――ふと、違和感を覚えた。
「……身体、めっちゃ軽いな?」
脳裏に閃くものがあった。
どこからともなく現れたモンスター。
モンスターを倒したら、何だかパワーアップしたっぽい。
つまり――
跳ね踊る心臓に左手をあて、空いた右手を掲げて『その言葉』を口にした。
「ステータス、オープン!」