5.最初の試練
まだ陽は上がらないのか。
薄暗い森の中では夜目がきく魔獣が有利だ。
「はっはっ……」
「大丈夫です。慌てず深く呼吸をすれば徐々に落ち着いてきます」
最大の目的であった彼女ーーサヴィーさんは予想通り、ホロウの巣穴にいた。
彼女は目の前で起きた恐怖に震え、動けずにいた。
人命優先。運良く巣穴にはホロウはおらず、下手に魔獣を追い倒すよりも、彼女を町に帰すことを優先することにした。巣穴を出て森の外へ向かうまでは良かった。
しかし、どこからともなく現れたホロウに見つかってしまった。なんとか逃げ切ったものの、ホロウの嗅覚は鋭い。長くは持たないだろう。
そして、彼女自身も。体力も気力も限界。今まで感じたこともない恐怖に筋肉は縮小し、呼吸さえうまく整えることができていない。
「あっ、あの…わたしの、ことはもうっ…」
息を切らしたまま吐き出された言葉は絶望に染まっている。
助からない。それならばと言う、悲しく痛ましい覚悟のようなものが見え隠れてしているように見えた。
「いいえ」
「でもっ…」
すっかり血の気が引いてしまった彼女の手を取る。
息が切れるほど動いていたにも関わらず、指先はとても冷たくなっていた。
「必ず、サヴィーさんを連れて帰ると約束しました。だから諦めないでください」
「はぃ…」
安心させるように微笑むと彼女はくしゃりと顔をゆがめ、私の手を握り返した。
彼女はまだ走れる。彼女の希望の灯火を絶させたりはしない。
ーー戦場での気持ちは重要である。
実力差があっても勝てると思えば、実力以上の力が発揮することができる。逆もしかりで、戦いにおける局面に大きく作用する。
しかし、彼女の気持ちを立て直したものの一般人の付け焼き刃。長くは持たない。そして現状は思わしくない。
人を守りながら凶暴化した変異型のホロウから逃げ切る。
これが集団任務であれば可能性はあったが、単独では不可能に限りなく近い。
『貴方はお人好し過ぎて心配だわ。損な役回りばかりもらってくるのだもの』
姉の言葉が過ぎる。
それでも私には彼女をひとり残して自分だけ帰る選択肢はなかった。彼らの約束をしたと言うこともあるけれど、根底にある騎士としての矜恃を捨てることができない。
「サヴィーさん。振り返らずに走ってください」
「えっ…」
私が言葉を発した時には、大きく鋭い牙が迫っていた。
「きゃー!!」
強く重い衝撃が全身を走る。視界いっぱいに迫る大きな牙。
その巨体でどうやって近付いたのだろうか。なんとか反応できたものの、こうして剣を立て制するのが精一杯だった。
視界の端に座り込んでいる彼女の姿が見えた。
「早くっ! 走ってください!!」
彼女は私の言葉にハッとしたように立ち上がり、視界から消えた。
「くっ…」
しかし安心している時間などない。唸り声とともに魔獣の息がかかる。
通常の中型魔獣であれば押し返すことができた。しかし、目の前に現れた変異型の魔獣は馬車ほどの大きさに巨大化している。押し返すどころか、びくりとも動かすことができない。牙からの攻撃には耐えるのが精一杯。ずるずると地面を削るように押されているのが分かる。
想定外の邪気の影響。圧倒的な力の差。
ここで私は終わってしまうのだろうか。どうか、彼女が逃げ切れますように。
◆
◆
◆
人影に迫る大きな影を視界にとらえた。
「暴れる風」
ビュンビュンと空気を切る音が鳴り、木々の上部に生えた枝木を中心に切り落とす。
そのまま葉がついた枝木は乱れまう風に混ざり、ホロウを襲う。ホロウは煩わしそうに、顔を大きく振り動かす。
「ナイト、逃げるぞ」
ホロウの意識は目の前の人間から暴れ回る風と樹木に変わった。
俺は呆然としているナイトの手を引き、魔獣から離れる。
ナイトの服はボロボロに泥で汚れ傷ついている。額には血が滲んでいる。
「セイ様…」
咄嗟に発動させた魔術。魔獣の咆哮とともに、ひと通り暴れた風は消えてしまった。
やっぱり継続的な発動が難しい。人を傷つけてしまうほどの威力があるため使わないようにしていた。必要はなかったから。でもいまは、もう少し使いこなせるようにしとけばよかったと思ってしまう。
ホロウの意識は再びを俺たち人間に向けられた。遠くに逃げ切れるとは思っていなかった。せめてもの時間稼ぎにでもなればと、魔獣から離れて身を隠した。
しかし頭で思い描いた通りに進んだりしなかった。薄暗い森の影の中に紛れていると言うのに、魔獣に俺たちは捕らえられている。その威圧感に足がすくみそうになる。
ナイトも「なぜ来た」とでも言いたげな悲壮な表情をしている。でもーー
「俺だけじゃない。ユーリもいる」
「うりゃぁぁ!!」
雄叫びをあげながら振り下ろされたユーリの剣はホロウの頭に向けられている。
落としたと思った瞬間、ガキンと鉱物に弾かれたような音がした。
「うえっ!? まじかよっ!!」
さすが、変異型魔獣…ただの獣であれば斬りこめたはず。
中型魔獣だという今、目の前にいるホロウは、大木のような大きさがある。町で話していた大型魔獣という見立てはある意味合っていた。中型から大型へ体格も変わり、体全体から溢れる禍々しい魔力。
これが邪気による影響なのか。
攻撃を弾かれたユーリは身をくるりとひるがえしすかさず距離をとった。ホロウと向き合いながら距離を測っている。
ユーリの自信と発言のすべてに根拠がないわけじゃない。こんな田舎町には不釣り合いな能力がユーリには確かにある。
「セイ様、ユーリ様を連れてお逃げください。ここは私が…」
「無理。傷だらけの状態でなに言っているんだ」
「しかし」
「サヴィーには町に戻って、町のみんなに避難壕へ逃げるように伝えてもらうようにしたから大丈夫だ」
ここに向かう途中、泣きながら走るサヴィーと会うことができた。
なだめることよりも使命を持たせたのは、サヴィーを足を止めないため。サヴィーもまた良い人間で、罪悪感に蝕まれてしまわないようにしたかった。
「ですが…」
「そこまで」
俺とユーリを巻き込んでしまったことの後悔なのか、迷い言い募るナイトの言葉を止める。
「逃げ切れたら御の字だと思ってたけど、そうもいかないってわかった」
ホロウはユーリに照準を合わせたようだった。
ユーリはホロウの攻撃を交わしているが、隙がなく攻められているように見える。何度も振り下ろしているはずの剣を弾くホロウの異常な強さ。たとえこのまま逃げ切れたところで、追いかけてきた町を襲われてしまえば大きな被害を引き起こすことになるだろう。
「くそっ! 硬すぎるっ」
今はユーリが注意を引き付けているものの、この均衡状態がいつまで続くかわからない。
そう、均衡状態なのだ。
「地形を理解していて能力があるユーリと、わずかながら魔術が使える俺。そして、魔獣知識と実践経験があるナイト」
手に魔力をこめると、ほんのりと光り出す。俺ができる治癒術。時間もないし完璧な治癒はできないが、動きに支障をきたす大きな傷を中心に治す応急処置を行う。
「3人が力を合わせればこのホロウをどうにかできる。だから力を貸してくれナイト」
俺だってなんの見込みなく、ここに来ているわけじゃない。




