星の加護クズおじさん探偵業に興味もつ
タノスケという男は〝即時対応の星〟の下に生を受け、その星の加護に守られながら生きている男である。だから、そのためもあろう、突如トントンと背中を叩かれたとき、タノスケのイチモツはたちまち勃起を開始した。
この日、タノスケはマッチングアプリで知り合った女性と待ち合わせをしていたのだ。上野の駅前である。上野だと行きつけのラブホ街がある鶯谷までは目鼻の距離である。そのため待ち合わせ場所は上野が多かった。
しかし、勃起しながらタノスケが振り向くと、そこにいたのは六十をゆうに超えていそうな婆だった。
━━大ハズレを引いたか!━━
一瞬でタノスケの顔は青ざめ、すでに七十パーセントに達していた硬度は即ゼロパーへと落ちたのだった。しかし婆は意外なことを言った。
「あなた、探偵のバイトに興味ない?」
━━なんだバイトの勧誘か━━
と思い、タノスケは安堵した。この婆は待ち合わせていた女性ではないのだ。
「探偵のバイトは儲かるのよ! 学生も主婦も、やっている人たくさんいるのよ」
タノスケはムッとした。この婆はタノスケの佇まいと放たれているオーラを見て、こいつは暇な生活をしている人に間違いないと踏み、それで声をかけてきたのだと知れたからである。
━━なんだこの糞婆。この僕を暇人扱いしやがって。四十過ぎの男をつらまえて暇人認定するなんて、そんなの、落伍者クズヤロウ認定するのと全くかわりがねえや。なんて失敬な奴だ。お前なんかどこかで躓いて転がってそのままドブ川にでも落ちて死んで腐って腐乱死体にでもなってしまえ!━━
と心中で毒づいたが、しかし実際は自分が暇人であることはタノスケ自身、誰よりも承知済みの悲しさであり、胸がチクりと痛む。紛れもなく暇だからこそ、こうやってマッチングアプリなぞいじくりまわして女性と出会っているのだった。何かに打ち込み、懸命に前に進んでいる者であれば、こんな、興奮し気持ちいいのは最初だけで、後では必ず虚しがしつこく襲ってきて何も残らないようなことには決して時間は使わないであろう。暇だからこんなことがやれるのだ。しかも、その暇というのは、正式に籍は入っていないが、妻同然心地で共に暮らしている冬美の収入に完全に依存し切るという寄生虫ムーブを繰り出した結果獲得したものなのだ。そんな生活から生みだされた暇なのだ。
実はこのタノスケという男、五体満足だが、〝リンカーンの星〟の下に生を受けており、そのため自由を最重要視せざるを得ず、ゆえに働くことで自由を失うなんてことは真っ平御免の身の上なのであった。
「どうなのよ!」
タノスケが一言も発せずにいたせいか、糞婆はイラついてそう叩きつけてきた。短気なタノスケは瞬時にムカっ腹心地になり、こいつにパイルドライバーを喰らわしてやりたい、そんな衝動を覚える。小学五年生の時、因縁ある同級女子との一騎打ちで渾身の不意打ちグーパンを顔面に打ち込むもノーダメージ、そして直後その女児の剛力につかまり、無慈悲にパイルドライバーをくらって呆気なく散ったタノスケである。やられたことはあってもやったことはない、そんな封印されしパイルドライバーである。
━━その封印を今ここで解いてあげようか?━━
とタノスケは猛りながらそう思ったが、その時、糞婆の表情は怪しく一転した。
「あんたの正体知ってるわよ! それで正体隠せてると思ってるの! あんた探偵でしょ! 今GPS使ってるでしょ! それで不倫してる男女の横に行って発信してるんでしょ!」
支離滅裂である。バイト募集をしているのかと思ったら、ただの頭のおかしい糞婆であることが知れた。
糞婆はタノスケを見上げながらにじり寄ってきた。その時タノスケは糞婆の手が背後に隠されているのに気づき、ギョッとなる。
━━や、や、やべえ! 本格的にやべえ! こいつ、刃物持ってんのか? 刺すのか? この無垢なる僕を刺そうってのか?━━
背後に飛び退くと一目散にタノスケは駆け出した。駆けながら一瞬振り向くと糞婆もタノスケを追って駆けていた。
タノスケは死に物狂いでダッシュした。決死の顔で人をかき分け、いくつも角をまがり、大きな通りに出てそこを信号無視で横断し、さらに駆け、見通しのよい公園に入り、そこでやっともう大丈夫だろうと立ち止まると十分に周囲を見回した後、タノスケは膝に手を付いた。そしてそこでしばし犬のように喘いだ。
次第に呼吸が整ってきて、自分の安全が確保されたことはもう確実だと覚ると、俄に湧き上がってきた余裕心地の中、先ほどの一連の出来事が思い出された。そして、意外にもタノスケは不思議な感覚になる。「あなた、探偵のバイトに興味ない?」と聞かれた瞬間、確かにタノスケの心の一部が晴れやかに踊り出した感覚があったのだった。その感覚に、遅ればせながら今自覚的になったのだが、自分がそんな感覚になったことがタノスケには不思議だったのだ。
労働なんて真っ平御免だがお金だけはちょうだい主義なタノスケである。そんな自分なのに、なぜ心が躍ったのだろう。少し考えると、タノスケは閃いた。
━━ああ、そうか。僕という男は、きっと、真実に生きる男なんだろうな。だから、探偵が真実を明らかにする姿を想像し、それで嬉しくなっちゃったんだろうな━━
実際は、働いていないため激しい劣等感を抱えており、しかしそれを強引に抑圧し、そこから目を背けて生きているから、ふいに訪れた労働チャンスに刺激され一瞬心が華やいでしまっただけのことだったのだが、そのような、自分を心地よくするようなことをタノスケは捏造的に閃いたのだった。
「探偵かあ。探偵もいいかもしれねえなあ」
結局は面倒臭くなり、絶対にやらないくせに、妙にしみじみとタノスケは呟いた。そして一呼吸つくと、みるみる誠意の塊のような顔になり、タノスケは
━━真実に近づきたい! この嘘まみれの世界の中で、僕だけは真実に忠実でありたい━━
と、切に切に願った。
実際は、自分が嘘まみれだから世界も嘘まみれに見えているだけなのに、タノスケはこの世界は嘘まみれだと決めつけ、しかも無知でバカなくせにそう決めつけ、その上で、この世界の中で自分だけは真実に忠実でありたいと、そんなことを、切に切に願ったのだった。