第九話 貴女はだあれ?
一番来て欲しくなかった人がそこに居た。司くんが持つ抜群の運動神経を、怪人に見切られてしまったのだろうか。彼の手首には、手錠がはめられていた。自由を奪われていた。
「怪人とて慈悲の心はある。二人とも、まったく同時に殺してあげよう。末期の逢瀬、しばし楽しみたまえ」
そう言うと、顔のない怪人がお仲間を顎でしゃくった。ここまで連れて来い、のジェスチャーだろう。
怪人とお仲間の間には上下関係があるみたい。古式ゆかしい鬼の姿をしているお仲間は、頭を恭しく下げてからジェスチャーに従った。
かくして私たちは再会する。私は司くんをつぶさに観察した。怪我はないようだ。一安心。乱暴されていないところを見ると、司くんがセイントシスターであると、向こうは気がついていないみたい。
私が怪我をしていないことを知って、司くんも安心したようだ。彼は鋭い三白眼をほんの少しだけ緩めて、安堵のため息をふうと吐いていた。
でも、司くんが柔らかい顔つきになったのは、ほんのわずかな間であった。彼はすぐさま顔を引き締めた。神妙な面持ちとなった。
「……紫苑。ごめん」
「なにが? なんで……謝っているの?」
彼はいきなり謝罪した。唐突に頭を下げた。申し訳ない、本当に申し訳ない――仕草からは、そんな心からの思いが伝わってきた。
わけがわからなかった。どうして司くんが謝る必要があるの? 謝る必要があるのは私なのに。捕まってしまった私がそうすべきなのに。どうして?
司くんは私のどうしてに答えてくれなかった。再び面を上げたとき、彼は私の顔を見ようとしなかった。気まずそうに、目をそっと逸らした。
「ごめん。俺、紫苑には無事でいてもらいたいんだ。だから――ごめん」
そしてそのまま、司くんは謝りなおした。ささやくように。
私は総毛立った。目をまったく合わせず、ささやくようにして物を言う――これも司くんの癖だ。なにか大きな無茶をするときに見せる癖だ。
司くんは、一体どんな無茶をしようというのか。考えるまでもなかった。変身するつもりだ。
私は反射的にこう思った。嫌だ、って。
やめて。
だめ。
それは嫌。
引き留めないと。
私は彼を捕まえようとする。両手で肩を掴んで引き留めようとする。でも、ダメだった。司くんは、猫を思わせるような柔軟性を披露した。するり。避けられた。私の両手は空を切ってしまった。
司くんがくるりと踵を返した。怪人をぎろりと睥睨した。敵意たっぷりの物騒な眼光だった。視線は暗にこう語っていた。
お前たちを許さない。待ってろ。打っ倒してやる、って。
おっかないのは目の色だけではない。口元もそうだ。歯をぎりりと噛みしめている。怒りを露わにしている。
ああ、やっぱりだ。やっぱり司くんは――
早く止めないと。
ここで止めないと彼は。彼は!
私は揺り椅子から立ち上がる。
一歩、二歩。ばたばた。足がもつれる。転んでしまう。ひび割れたコンクリートの床に手をついてしまう。
すぐに起き上がる。私はよろめきながら、司くんの背中へと歩み寄る。
どんなやり方でもいい。
止めないと!
私は彼を抱き留めようとする。
でも、そのタイミングで司くんが歩を刻んでしまった。
私の両腕がまたしても空を切る。
諦めない。
絶対に。
何度もやり直してやる。
彼を止められるまで!
不退転の覚悟。
それを胸にしてもう一度チャレンジ――しようとしたのだけれども。
ばつん。
音がした。
司くんから。
それは鉄がちぎれる音だった。
司くんが手錠の鎖を引きちぎってしまった音だった。
どんなに力自慢な人間でも、こんなことはできない。
人間離れした膂力を見せた司くんを見て、怪人たちは硬直した。息を呑んだ。
こんな力を出せるということは――もう、手遅れ?
いや!
まだ!
まだ間に合う!
私は必死になって手を伸ばした。
「……その剛力。君は一体何者だ?」
「俺が何者かって? いいだろう、教えてやるよお前らに。俺は――」
のっぺらぼうの問いかけに、手首に残る鉄の輪っかを引きちぎりながら、司くんが答えた。地を這うような低い声。
「――私は。あなたたちの敵よ。それ以外の言葉が必要かしら?」
司くんの声が変わった。変わってしまった。
彼の声が、彼女の声になってしまった。
姿も変わる。
色白で可愛らしい女の子の姿になる。
服装だって変わる。
例の破門必至な、フリフリの修道服となる。
彼はセイントシスターになってしまった。
……悔しい。
手が届かなかった。
間に合わなかった。
私は司くんを止められなかった。
本当に悔しい。
その事実が私の膝をいじめる。がくがくと震えて、立つのが精一杯となる。
「……後悔させてやる。私の大事な人に、大好きな人に手を出したことを」
そう言った彼女の顔には、感情の起伏が見て取れなかった。平静を保っているように見える。でも、声色は違った。声量は控えめだったけれど、音色は明らかに怒っているものであった。彼女は静かに怒っていた。
……なに? これ? 知らない。こんなの知らないよ。
私は知らない。静かに怒りを滲ませる司くんの姿を、私は見たことがない。彼は怒りを素直に出す人間だ。こんな風に怒りを押し殺さない。こんな癖、私は知らない。
それに司くんはぶっきらぼうな癖して、とても恥ずかしがり屋だ。好きなモノを正直に好きと言えない性分だ。嫌いじゃない、とか、普通、とかの、遠回しな表現で好意を伝えてくる。
でも今、セイントシスターはなんて言った?
私が大好きな人って言わなかった?
ストレートに好意を伝えてこなかった?
あの司くんが?
知らない、知らない、私は知らない。
こんな物言いをする司くんなんて、私は知らない。
疑念がみるみる大きくなってゆく。この女の子は本当に司くんなのだろうか、という疑いだ。縁日の露店で作られるわたあめみたいに、あれよあれよと膨らんでゆく。
疑念の、否定が、できない。
この娘は誰なの?
本当に司くんなの?
わからない。
誰?
ねえ。
あなた、誰なの。
貴女はだあれ?