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第七話 エスコート

 神田和泉町にある三井記念病院の足下には、ちょっとした公園があった。キャッチボールが楽々できる広い芝生と、トリコロールカラーの雲梯(うんてい)、それらを囲むように染井吉野と枝垂桜が植樹された公園だ。そこが今の私の所在だった。


 背の高いビルが周りにそびえているせいで、公園は昼間でもちょっと薄暗い。陰気な空間、と言えるかもしれない。


 でも、都会のコンクリートジャングルでは、子供たちが思い切って遊べる場所は貴重だった。現にほら。ホイッスルみたいに甲高い子供たちの笑い声が、広い芝生から聞こえてくる。


 私はベンチに座りながら、そんな子供たちの声を聞いていた。ベンチは芝生に背を向ける形で設置されていた。


 ベンチから数歩歩いた先にある、ちょっとした地面のくぼみを、私はうつむき加減で眺めていた。そのくぼみは灰色のコンクリートで固められている。夏にはくるぶしが沈む程度に水が張られる、水遊び場であった。


 今の私はアンニュイだった。司くんが男の子として生きるか、それとも女の子として生きるかが、今日決まってしまうからだ。


 放っておけば、司くんは魔法少女を続けてしまうだろう。女の子としての生を選んでしまうだろう。その心当たりが私にはあった。


 あのお話し合いがあった日の、北千住に向かう電車での一幕を思い出す。あのときの司くんの、手のひらの感触を呼び起こす。彼の右手は、不自然なほどにつるつるとしていた。


 彼の右手がつるつるしているのは当然だった。なぜなら彼の右手には、掌紋がないのだから。ある事件のせいで、なくなってしまったのだ。


 私たちが五歳のときの話だ。とある夏の夜、司くんのお家の境内で、一斗缶を使ったキャンプファイアをしたことがあった。そのときに地震が起きて、一斗缶が私目がけて倒れ込む、というトラブルが発生してしまったのだ。


 あの光景を、私は今でも思い出す。ごうごうと炎を吐き出す四角い缶が、私にのしかかろうとする光景を。思い出しては、その度にぞくり、とおののく。


 あのとき私は、間違いなく死の淵に立っていた。そこから救い出してくれたのが、司くんであった。


 幼い日の彼は、カンカンになった一斗缶を右手で受け止めてくれたのだ。おかげで私はやけどを負わずにすんだ。でも、代わりに司くんが大やけどをしてしまった。彼の掌紋が溶けたのは、このときだ。


 当然、司くんは救急搬送された。病室で大人たちに、こっぴどく叱られもした。でも、彼は五歳児離れした胆力を発揮した。大人に叱られているのに、泣かなかったのだ。それどころか、あっけらかんとこう言い放ったのだった。


『だって、あのままじゃ紫苑がやけどするから。紫苑がやけどするより、僕がやけどした方がいいに決まってるじゃん。これ、ダメなこと?』


 幼心に私は思った。この子は危なっかしいと。他人のために自分を犠牲にしてしまえる人間なのだ、と確信してしまった。


 その日から私は、司くんをなにかと気遣うようになった。人助けで無茶しそうになったら、横やりを入れて止めるために、私は彼につきまといだした。


 その行動の根本には、罪悪感があったと思う。一斗缶の近くに私が居なければ、あの事件は起きなかった。私のせいで、彼は消えない傷を負ってしまった。罪滅ぼしをしなくちゃ――こんな決意を無意識下にしていたと思う。


 そして、今、横やりを入れるときがきた。魔法少女を続けるために、彼は自分自身の性を捨て去ろうとしている。自分を犠牲にしようとしている。


 私はそれが許せない。あの決意はちっとも弱くなっていない。それどころか、思春期特有な心のむずむずと混じり合って、より強固なものとなっていた。


 なんとしてでも、説得させなきゃ。翻意させなきゃ、と思っているのだけれども。


「……どうしよう。司くんに、会えない」


 がっくりうなだれる。私は今日一日、司くんに出会えていない。朝、迎えに行ってもダメだった。私よりも早く外出してしまったみたい。


 しかも今日、司くんは学校を珍しくサボった。理由は言わずもがなだ。私に会いたくないからであろう。


 でも、急に行方をくらましたところを見ると、私の説得は無駄ではなかったみたい。ちょっとは心に響いていたみたい。私の説得を聞き続けていたら、翻意してしまうかもしれない。司くんはそう判断したからこそ、私を避けているのかもしれない。


 そうならば、彼の説得に成功するかもしれない。私は居ても立ってもいられなくなった。私は仮病を使って学校を抜け出した。街中を駆け回って司くんを探した。


 だが、結果はご覧の通りだ。彼を捕まえられず、私は黄昏れている。


 いつのまにか、芝生で遊んでいた子供たちが帰ったみたい。元気な声が聞こえなくなっていた。とても静かだ。しいんという耳鳴りが、鼓膜にへばりつくくらいに。


 日も傾く。公園が西日で赤く色づく。なんて汚らしい赤色だろう。未練がましく枝にぶら下がって、ぶよぶよに腐った真っ赤な柿――今日の夕焼けは、そんな真冬の柿とおんなじ色をしていた。


 ぎしり。唐突にベンチが軋んだ。左側にひずみが生じたのを、お尻で感じた。


 左を向くと、老紳士が私の隣に腰を下ろしていた。品のいい人だった。ヒゲと産毛の処理をしっかりとこなした、きれいな顔をしていた。オリーブのダブルジャケットと、ブラウンのポーラータイがよく似合っている。


 背筋がしゃんと伸びているおかげで、紳士は若々しい印象に満ち満ちていた。そのせいで、歳の推測が困難であった。


 紳士と目が合う。彼はにこりと微笑んだ。


「悩み事かい?」

「ええ。ちょっと……いいえ。とても大きな悩みがありまして」

「その年頃だと。さては、恋のお悩みってところかね?」


 老紳士が親しげに話しかけてくる。私はこの人と、どこかで会ったことがあるのだろうか。そんな感じの口ぶりだ。しかし、会った記憶がない。間違いなく初対面だ。


 知らない人間に話しかけられるなんて、いつもの私ならすぐに逃げ出してしまうだろう。


 でも、今の私は心が参ってしまっている。誰かと話したい気分であった。ついつい会話を続けてしまう。


「うーん。遠からず、近からず、でしょうか」

「ははっ。そんな風に悩めるのは今の内だよ。歳を取るとね。悩み事が自分の体調ばっかりになるんだ。若い内に他人のことでたくさん悩んでおきなさい」

「そんなもの、なのですか」

「そんなものだよ。いや、その子が羨ましいな。私の女房なんか腰が痛いだのといって、私に八つ当たりする始末でね。自分のことばかりで、困ったものだよ」


 そう言うと、彼は鷹揚に笑ってみせた。その笑顔は人を安心させるなにかが含まれていた。それは私にも作用した。問題はなに一つ解決していないというのに、どういうわけかほっとしてしまった。これが歳の功がなせる業ってやつだろうか。


 そうだ、こんなところでうなだれている場合じゃない。一秒でも早く司くんを見つけなければ。


 私は活力を得た。今すぐにでも公園を発たないと。きっかけを与えてくれた紳士に、一言感謝を伝えなければ。私は紳士の顔を見つめ直す。するとほとんど同時に、彼の面持ちが変わった。微笑みがすっかりと消え失せた。


 老紳士は急に思案顔になった。顔を右に左にと振って、辺りをキョロキョロしはじめた。なにかを探しているのだろうか? 私は怪しんだ。


「ところで。いつも一緒なあの()は居ないのかね?」

「ええ。今日は私に会いたくないみたいで」

「そうか。それは残念……いや、考えようによっては好都合か? これはこれで――」


 思わず答えてしまったけれど、奇妙な話の流れだった。私はこの人に、司くんのことを話していない。でも、今の言い方は、司くんを知っていなければ出てこないものだった。


 私とこの人が知り合いならば問題はない。しかし、そうではない。では、何故この人は司くんを知っているのだろうか?


 私は老紳士をじっと見る。訝しげに睨む。私の顔つきは、とても滑稽なものなのだろう。私の顔を見ていた老紳士が、ふいに鼻笑いを漏らした。


 そして老紳士は私から目を逸らした。俯いた。三秒、四秒。無言の間。そののちに紳士が再び顔を上げると――


「っ!!」

「あの女に。セイントシスターに素晴らしい意趣返しができるというものだ」


 私は息を呑んだ。老紳士の顔が、文字通り変貌したからだ。俯くまでは、人の良さそうな目鼻立ちがそこにあったというのに、だ。


 (おもて)を上げた今では、どうしたことか。その顔面は、殻を剥いたゆで卵みたいにつるりとしていた。のっぺらぼうみたいに、目鼻がきれいに消え失せていた。


 普通の人間ではない。普通の人間なら、顔が一瞬にして消失するなんてことはあり得ない。つまり彼は――


「……っ。怪じ――!」

「騒ぐな」


 私が出そうとした大声は、怪人によって阻まれた。怪人の華奢な人差し指が、私の唇に触れる。しぃ、と、声とも吐息ともとれない音が怪人から聞こえた。静かに、のジェスチャーだ。


「私は君を始末することができる。君が声を上げるより前に、だ。私はね、これでも紳士的なんだ。無意味な殺人は避けたい。ここは諦めて、黙ってついてきてくれないかね?」


 紳士的と自称していながら、言っていることはまったく暴力的で野蛮であった。騒ぐと殺す――彼が言っていることの要約は、これなのだから。


 その野蛮さは、私の言葉をたしかに奪った。怪人の言うとおりだ。ただの人間が怪人に敵うわけがない。私がなんらかのアクションを取れば、怪人は私を殺そうとするだろう。私は抵抗出来ずに殺されてしまうだろう。


 もし、私がここで死んでしまったら、司くんは――? それを考えると身震いがした。死ぬのは当然怖い。でも、それ以上に怖いのが、私が死んだあとの司くんであった。


 私が居なくなれば、彼は身を滅ぼすまで無茶し続けるに違いない。そんな確信があった。


 ダメだ。

 嫌だ。

 それは絶対に。


 怪人の野蛮な脅しに、私は屈するしかなかった。油を注し忘れた歯車機構みたいなぎこちない動きで、私は頷いた。


「いい娘だ」


 目鼻も、口もない。そんな怪人の風貌だけれども、どういうわけか、彼が満足そうに笑んだのがわかった。


「私のお城へとエスコートしましょう、お嬢さん。乗り物だって用意してある。白馬の馬車でないのが、申し訳ないがね」


 私の唇から、怪人の人差し指が離れる。怪人が立ち上がる。次いで、とても恭しい仕草で私の手を取った。


 さあ、お姫様。パーティへ参りましょう――そんな台詞がぴったりな仕草であった。

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