第六話 馬鹿にしないで!
医務室に入ると、私たちはベッドに腰掛けるよう促された。具合が悪くないのにベッドに腰掛けるのは気が引けた。でも、仕方がない。ベッドとデスクを置いているせいで、四畳半の医務室はとても狭いのだ。私たちが落ち着ける場所は、たしかにそこしかない。
「先生。話とは?」
ベッドに腰掛けるや否や、司くんがストレートに問いかけた。私たちを呼び止めた理由はなに? と。
「単刀直入に言いましょう。司くん。次、変身したら、あなたは男に戻れません」
デスクチェアに腰掛けた先生の返答も、また直球だった。
司くんが元に戻れなくなる――悪い予感が的中してしまった。やはりヘビィな話題だった。聞きたくもないお話だった。
私はお話の重大さに圧倒された。言葉を失った。いや、絶句したのは私だけではない。司くんもそうだった。息をのむ気配が隣から伝わってきた。
「……その。理由を聞いてもいいですか?」
私よりもさきに、司くんが言葉を取り戻した。しばしの無言ののちに紡いだその声は、どこか震えているように聞こえた。
「これ以上の投薬が危険だからよ。あなた自身もわかっているでしょう? 薬の拒絶反応が強くなってきているのが。今日は特にひどかった。波形として表れていたくらいだった」
「波形?」
「心電図の、よ。紫苑ちゃん。相当危ない形だった、とだけ言っておきましょう」
「……嘘」
先生の声はとてもシリアスなものだった。お医者さんが、深刻ぶった声を出すときの相場は決まっている。患者さんに、見過ごせない兆候があったときだ。
場合によっては、司くんは命を落とすかもしれない。拒絶反応とやらは、それほどまでに深刻であるらしい。
私は司くんを見た。問いただすために見た。彼は私と目を合わそうとしなかった。気まずそうにそっぽを向くだけだ。
「司くん。それ、本当なの?」
「……なにがさ」
「身体の負担、ドクターストップがかかるくらいまで大きかったの? 今までずっとそうだったの? それをずっと黙っていたの?」
「……いいや。気がつかなかった。心臓がバクバクするときがたまにあるな、って思ってたくらいで」
司くんの目の動きが忙しなくなる。私と目を合わせたり逸らしたり、合わせたり逸らしたり。彼は何度も何度もそれをやった。これは癖だ。彼が私に嘘をつくときの癖だ。彼は今、嘘をついている。
「……馬鹿に」
往生際が悪すぎる。
この期に及んでまだ隠し通そうとするの?
感情が突沸した。沸騰石を入れ忘れた試験管みたいに、頭が一気に沸き立った。
言葉が自然にこぼれ出る。
もう、我慢できない。
「馬鹿にしないで!」
四畳半が私の声で一杯になった。破裂しそうになった。
今の声は両隣の部屋はもちろん、下の階にまで聞こえてしまっているだろう。もしかしたら、お隣の民家にまで響いているかもしれない。騒音公害と言われても仕方がないだろう。
でも、構うもんか。
感情を言葉にしてやる!
叫んでやる!
「馬鹿にしないでよ! 私、幼なじみだよ!? そんなの嘘だってすぐにわかるよ! 辛かったんでしょ!? ずっと前から気がついてたよ!」
「そんなことは――」
「そんなことある! 今日だってそうなんでしょ!? 今までで一番辛かったんでしょ!? 誤魔化せてるつもりになってるけど! でも、全然誤魔化せてないよ!」
「紫苑。気のせいだ」
「気のせいなんかじゃない! じゃあ! じゃあ、どうして!」
叩きつけてやる!
暴いてやる!
司くんが使ったトリックを、白日のもとにさらしてやる!
彼が血色をどうやって誤魔化したのかを、すっぱ抜いてやる!
「じゃあ、どうして! 今、お化粧なんかしてるの!?」
「うっ」
司くんの身体がぴくりと揺れた。小さくうめいた。化粧品の粉っぽいにおいが、ふわりと広がった。
彼は唇を歪めた。唇の左端をつり上げた。同時に下唇も噛む。これも彼の癖だ。嘘がばれたときに見せる癖だった。
幼なじみの三白眼が、私をじいっと見つめてくる。その瞳は不言で問うていた。
どうして嘘がわかったんだ――って。
その問いは私の神経を逆なでするものだった。
それくらいわかる!
だって私は幼なじみなんだから!
私は奥歯をぎりりと噛みしめる。声がますます大きくなる。
「わかるよ! 顔色が悪すぎるんでしょ!? 私に見せられないくらい悪いんでしょ!? でも全然誤魔化せてない! 下手くそなお化粧のせいで、余計に目立ってる!」
彼の顔に施された化粧は、まるで厚塗りの油絵のようだった。塗りたくらないと、どうしようもないのだろう。本来の顔色は、それほどまでに悪いのだ。痛々しくて、とても見ていられなかった。
「なんでずっと我慢してたの!? どうしてこんな風になるまで、なにも言わなかったの!? なんで相談してくれなかったの!? 私、そんなに頼りない!?」
「……相談したら。心配すると思ったから。それは嫌だったから」
「心配して当然だよ! 司くんがこんな思いをする必要なんて、どこにもないんだから! ねえ、今からでも遅くないから、協会の人に言おうよ! 魔法少女をやめますって! 健康を損なってまで続ける理由なんて、ないんだから!」
「それも嫌だったんだ。人助けは続けたい。紫苑。俺は――」
「一人の人間として。そして医者としては、私も紫苑ちゃんと同意見ね」
司くんが抗弁の気配を見せると、先生がすぐに口を挟んだ。私の肩を持ってくれた。
「魔法少女に変身できた男の子は、この世であなただけなの。今後、どんな症状が出るかがわからない。対処できない症状が出るかもしれない。今すぐにでも魔法少女をやめてもらいたいわ」
患者の健康が損なわれる要素を排除すること――これこそが医者の義務だ。先生は、その義務をきちんと果たそうとしている。とても心強かった。
「でも、協会としてはセイントシスターという、強大な戦力が失われるのは困るの。あなたの戦闘力は間違いなく最高レベルだからね」
でも、大人の世界には立場ってやつがある。今の先生の言葉は、魔法少女協会の総意なのだろう。協会は魔法少女の数を減らしたくないみたいだった。
先生は医者の義務を果たしたくて仕方がないのだろう。協会の意向を伝えたときの先生の表情は、とても苦々しいものだった。今も眉根を寄せている。下唇もわずかに噛んでいた。
「司くん。あなたに三日間の猶予を与えます。その間、協会は緊急出動要請を出しません」
「三日? 猶予? なんの、ですか?」
「魔法少女を続けるか否か。それを決めるための猶予よ。司くん」
そう言った先生はとても悔しそうだった。先生は司くんに、こう言わせたいのだろう。魔法少女をやめますって。でも、立場がそれを許してくれない。立場は、司くんが魔法少女であり続けるのを望んでいる。
ああ! 立場を前にして、私はなんて無力なのだろう! そんな大人の嘆きが、ひしひしと伝わってきた。
「司くん。その三日間で話し合いなさい。家族とも、そして紫苑ちゃんとも。じっくりと、納得がいくまで」
ちらり。先生が私を見た。視線の意味はわかる。私は託されたのだ。彼を説得してくれ、と。
まだ大人になっていない私なら、立場なんて考えなくてもいい私なら、彼を存分に説得できるはず。先生はそんな期待を私に抱いている。もちろん、先生の期待には応えたい。私だって司くんを危ない目に遭わせたくない。
私は嫌だった。司くんが完全に女の子になってしまうのが。私はそうなってしまった彼を、受け入れられる自信がない。女の子になった司くんを、私は拒絶してしまうかもしれない。
永遠の変貌が私を傷つける。その傷のせいで、私は彼を拒絶する。その拒絶が彼を傷つける――そんな不幸の連鎖は願い下げだ。
だから私は必死に考える。彼を説き伏せる文句を考える。悲しい結末を避けるために。