第五話 夕焼けの四畳半
かぐや姫の神田川が、これ以上なく似合う四畳半。そう言えば、私がどんなところに居るのかが伝わるだろうか。
あと十年もすれば、高度経済成長期の遺構として文化財登録されるだろう。そう思うほどに古ぼけた二階建てアパートこそが、東京魔法少女協会が入っている建物であった。一応、一括借り上げという形になっている。
取り壊しを真面目に検討されていた物件故に、協会は破格の賃料で借りているらしい。それでも、金欠病という不治の病を患う魔法少女協会は、たまに家賃滞納をするって話だ。
そんなわけだから、リノベーションなんて夢のまた夢。仮にもオフィスだというのに、全室畳敷きのままであった。冷房器具も扇風機だけらしい。労働環境としては最低最悪だろう。
そんな東京協会だけれども、縦型エアコンがある部屋が、たった一つだけある。それが私の居る部屋――ではなくて、その隣にある医務室だ。そここそが、今、司くんが居る部屋でもあった。
司くんは医務室で点滴を受けている。難しい名前の薬を使って、男の子に戻るための処置を受けている。処置をはじめてから一時間が経っていた。
私は同室を許されていなかった。理由はわかっている。処置中の彼を、私に見せないためだ。
私は一度だけ、点滴を受ける司くんを盗み見たことがあった。あのときの私は、付き添いとして来たというのに、この部屋で待たされるのがとても気に入らなかったのだ。そして私は医務室をのぞき見て――すぐに後悔することとなった。
そこでは司くんが、医療ベッドにくくりつけられていた。抑制されていた。ベッドにつながっているベルトで、四肢を縛られていた。
それだけでも痛々しい姿だというのに、薬剤の刺激が強いのだろう。薬が一滴落ちる度に、彼は硬そうなマットの上で跳ねていた。まるで釣り上げられた魚のように――
私にとって、それはこたえる光景だった。慌ててこの部屋に戻ったのを、今でもはっきりと覚えている。
苦しむ彼のそばに居続けたのならば、私はいたたまれなくなって、点滴を無理矢理引き抜いてしまうだろう。だからこそ、協会の人たちは私の入室を許していないのだ。従うしかない。大人しくするしかない。
掃除用具入れのような淀んだにおいがする四畳半で、私は彼を待つ。隣の部屋で苦しんでいるであろう彼を待つ。部屋の片隅で三角座りをしながら彼を待つ。枯れすすき色をした畳の目を数えながら、そのときを待ちわびる。
夕日が窓から差し込んでいた。狭い畳敷きの部屋が、梅干しみたいな色に染まる。そんな中、私は自分の無力さを呪い続けた。今の私の顔には、後悔の皺がたくさん刻まれているだろう。それこそ、よく漬かっている梅干しみたいに。
私が後悔を続けていると、立て付けが悪くて、開けるのにコツが要る扉がノックされた。ルームサービスを運んできたホテルマンのような、形式張った音色ではない。横着にも膝でノックしたのでは、って思うほどに乱暴な叩き方だった。
それは人をびっくりさせる音だった。人によっては、強い恐怖を覚えるかもしれない。でも、私は違った。これこそが待ち望んでいた音だった。この部屋のにおいみたいに淀んでいた、私の心が晴れやかになる。
私は、はやる気持ちを抑えて、玄関へと向かった。ドアノブをわずかに持ち上げながら捻る。これがこの扉を上手に開けるコツだった。
「紫苑。お待たせ」
扉の向こうには司くんが居た。学ラン姿だった。彼は男の子に戻っていた。
ああ、よかった。きちんと男の子に戻れたんだ。本当によかった。私はほっと一安心――したのは束の間だった。
私は気がついてしまった。夕日によってほおずき色に染まった、司くんの顔にある違和感に。血色が奇妙だ。あまりにも良すぎる。
私は彼の左手をちらと見た。太ももに置かれた彼の手は、ズボンをくしゃりと掴んでいた。これは彼の癖だ。苦しみを我慢しているときに見せる癖だ。
ああ、そうなんだ。彼は血色を誤魔化している。私はわかってしまった。どうやって誤魔化しているのかも、どうして誤魔化せねばならなかったのも、すべてわかってしまった。
司くんは弱っている姿を、私に見せたくないのだ。だから、こんなバレバレの演技をしているのだ。
私はどうすべきだろうか。演技なんてお見通し。顔色が悪いよ、大丈夫? そう気遣うべきだろうか。それとも、この大根演技に付き合うべきだろうか。いや、悩む必要はない。答えは、はじめから決まっているのだから。
「じゃあ、司くん。帰ろっか」
「ああ」
私は笑顔を無理矢理作った。彼の下手くそな演技に付き合うことにした。
もし、ここで心配してしまえば、彼は強烈な罪悪感に見舞われてしまうだろう。ここでの気遣いは、彼を余計に追い詰めてしまうだけだ。
だから私も演技をする。私の演技は司くんよりマシだろうか。そうであって欲しいと心から願った。心配していることに気づかれてしまったら、この演技がまるっきり無意味なものになってしまうから。
荷物をまとめて、私たちは家路に就こうとした。私が後ろ手に扉を閉めると、入れ替わりで隣の医務室の門戸が開かれた。血色の悪い女性の顔が、医務室の中からひょっこりと現れる。彼女はこちらを見た。
彼女は女医だ。白金雪音さんという。医務室の主であった。
「ああ、お二人さん。良かった。まだ帰ってなかったのね」
使い古したサンダルを突っかけて、先生は朽ちかけた共用部へと這い出てきた。
雪音先生は重度の貧血だ。数歩歩いただけで、具合が悪くなってしまうほど。案の定、彼女は顔を真っ青にしながら、私たちに近寄ってきた。足取りも怪しい。酔っ払いみたいに、ふらふらとしていた。
「せ、先生? その、大丈夫ですか?」
「ん。大丈夫、大丈夫……」
思わずといった体で、司くんが雪音先生に声をかけた。彼女は大丈夫と言うけれど、まったく大丈夫そうには見えない。目の下にある紫色の腫れのせいだろう。歌舞伎役者の隈取りみたいだった。それほどまでにくまが濃い。そんな人がふらふらとした足取りで歩けば、誰であっても心配するだろう。
でも、雪音先生の具合が、そこまで悪くないのは本当だろう。だって、色濃いくまの上にある瞳は、とてもキラキラとした光をたたえているのだから。どこかシリアスな眼光だった。
彼女は、重大なことを伝えねば、という決意に満ちた目をしていた。大丈夫でない人が、こんなに強い目をするわけがない。
雪音先生はなにを言いたいのだろう。私たちを呼び止めるくらいなのだ。ヘビィな話題に違いない。私は身構えてしまった。
「帰るのはちょっと待って。お話ししなければならないことがあるから」
先生は医務室の扉を顎でしゃくった。部屋の中でお話ししよう、というジェスチャーだ。じっくり腰を据えて話さないと、ダメな話題らしい。
一体、どんな話をするのだろうか。聞きたくない、と私は思った。絶対によくないお話だから。
そんな私の思いとは裏腹に、司くんは先生の誘いに乗ってしまった。彼は重たい足取りで医務室へと向かう。こうなってしまったら、私も付き合わなければならないだろう。
私はテストで悪い点を取ってしまったときの気持ちになった。怒られるのはわかっている。でも、親に報告しないといけない――こんな感じ。まったく同じだ。行きたくなくても行かざるをえない、私の今の心境そのままだ。
嫌。嫌。嫌。行きたくない。
そんな気持ちをなんとか押し殺して、私は司くんの後を追う。私の足取りもとても重たかった。