第四話 人肌のおかわり
私たちは神田を出た。地元をあとにした。目指すは北千住。そこに東京魔法少女協会のオフィスがある。司くんを男の子に戻す術は、そこにしかない。
私たちは銀座線を使った。途中上野駅で乗り換えて、今は地下鉄日比谷線の電車の中だ。
まだ昼下がりだからだろう。車内はガラガラだった。あそこのベンチシートには二人が腰掛けていて、こっちは一人、そっちは三人、といった具合。立ち客は居ない。つり革と中吊り広告だけが、電車の加減速に合わせて、ゆらゆらと揺れている。おかげで私たちは、乗車と同時に座ることができた。
私たちは隣りあって座っていた。距離は近い。私の左肩が、彼の右肩に当たるくらいの距離。密着しているって言ってもいい。車内はガラガラなのだから、握りこぶし二つ分くらい離れて座っても、誰も嫌な顔なんてしない。
だというのに、彼はぴったりとくっつきにきている。普段の司くんなら、絶対に取ろうとしない距離だった。
言うまでもなく、これは甘えの距離だ。きっと彼は、心が参ってしまっているのだろう。不安だから人肌が恋しくなっている。だから彼は、私にひっつきにきているのだと思う。
私はなにも言わない。なにも言えない。だって彼が抱いている恐怖を、私は想像できないから。
性別が変わってしまう恐怖って、どんな感じなのだろう。自分が自分でなくなってゆく感覚を味わうのって、どれだけぞっとするのだろう。わからない、わからない、私にはわからない。いくら考えてもわからない。
でも、一つだけわかることがある。彼にかけちゃいけない台詞があるってことだ。
司くん、ちょっと離れて――
私が言ってはいけない言葉とはこれだ。言ってしまえば、彼は間違いなく傷ついてしまう。幼なじみとして、それは絶対にしたくなかった。
だから私は今の司くんを受け入れる。そうすることで、彼の恐怖が少しでも和らぐのならば安いものだ。私としても、彼の役に立つのは嬉しい。拒絶する理由がなかった。
「紫苑」
司くんが私を呼ぶ。小さな声だった。気をつけて耳を傾けないと、電車の車輪がレールをひっかく音で、かき消されてしまいそうなほどだった。
私は彼を見た。彼は学校指定のジャージ姿だった。部活帰りといった体だけれども、こうなってしまったのには理由がある。身体が一回り小さくなってしまったせいで、司くんは学ランを着られなくなってしまったのだ。
そんな司くんだけれども、彼はこっちを見ていなかった。ぷいっと、そっぽを向いていた。
私は知っている。このそぶりを見せるのは、彼が私になにかを頼もうとするときだ。それも言いにくいやつを頼むときだ。
「なに。どうしたの?」
「あのさ……手。握っていいか?」
そっぽを向いているせいで、彼がどんな顔をしているのかがわからなかった。でも、照れているのはわかった。だって、ほら。司くんの白くてきれいな耳が、うっすらと桃色に染まっている。
私が思っている以上に、司くんは参っているのかもしれない。人肌のおかわりを求めるなんてはじめてだ。思いもよらなかった出来事に、私は目を剥いた。びっくりして、すぐに返事をしてあげられなかった。沈黙が訪れる。
それは、ほんの数秒のことだったと思う。それでも今の司くんにとっては、我慢ならない沈黙だったのだろう。司くんはゆっくりとした動きで私に顔を向けた。
司くんはとても心細そうであった。眉をハの字にしている。彼岸花のように寂しい赤色をした唇が、ふるふると震えていた。
「……だめか?」
ぽそり。司くんは蚊が鳴くような声で呟いた。私の拒絶を恐れているような、そんな声色だ。
大丈夫だよ、安心して。私は拒絶しない。私はそれを伝えるため、彼に笑顔を差し向けた。
「ううん。どうぞ」
「……悪いな」
司くんは控えめに、けれども迷うそぶりを見せないで、私の左手を握ってきた。不自然なまでにつるつるとした肌の感触が、彼の体温と一緒に伝わってくる。司くんは息を静かに吐いた。おそらく、安堵のため息だ。
彼の不安が、少し和らいだようでなによりだ。私は役に立てたのだろうか。そうなら嬉しい。私はあたたくて、ふわふわとした気持ちになる。一方でなんとも言えない、モヤモヤも抱いていた。
司くんが私の知らない態度を見せた。普段なら考えられないお願いを口にした。モヤモヤの原因はこれだろう。しかもその態度とお願いは、男性的なものとは言いがたかった。外見相応のとても女の子らしいものであった。
私は思い出す。神保町に現れた怪人の台詞を思い出す。中身と外見が一致していない――あの怪人は司くんを指してそう言っていた。
でも、今の司くんはどうだろう。見た目と精神が一致しかけている。私の知っている彼が、私の知らない彼女に変わりつつある。そんなことを考えてしまったせいで、心のモヤモヤがますます強くなってしまった。
車内の風景が変わった。陽の光が窓から差し込む。電車が地上に出たのだ。
私たちが地下に潜っている間に、分厚い雲に切れ目ができたみたい。太陽がすべてのものを黄色く染めていた。高架下に広がる下町も、車内も、うっすらと黄色に色づいている。まるで誰かが、マーマレードを塗りたくったみたい。
マーマレード――言われれば、似ているかもしれない。
司くんの役に立てた喜びと、彼が私の知らない誰かに変わってゆくことへの寂しさ。この二つがブレンドされた私の心は、あのジャムの味に似ているはず。ぺろりとなめれば、甘苦いあの味が、口いっぱいに広がるはずだ。
電車が減速する。まもなく南千住。お出口は――自動アナウンスがそう言った。北千住は南千住の次。私たちの降車駅まであと少し。




