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第三話 私を捕まえてごらんなさーい

 私は靖国通りをあとにした。


 三省堂書店の脇を抜けて、古書店が肩を寄せ合うすずらん通りを横断した。そうして私は、廃墟だか、空き店舗だか、それとも倉庫だかの判別に困る建物たちが根を下ろす、ひっそりとした路地にやってきた。


 薄暗い小道だった。得体の知れないキノコが生えていそうな、こもったにおいが漂っている。においには人を遠ざける成分が含まれているのだろうか。小道には誰も居なかった。


 女の子が一人で足を運ぶには勇気がいる場所であった。でも、幸いなことに今の私は一人じゃなかった。心強いお連れ様が居た。


 私はくるりとターンする。体育館なら、きゅって音が鳴りそうな足取りで振り返る。さて、お連れ様とご対面。


 白と黒のモノトーン。ふりふりフリルでミニ丈なスカラプリオ。ウィンプルからこぼれ落ちるのは、漆器さながらのきれいな黒髪――


 そう。お連れ様とは、さっきまで怪人と大立ち回りを演じていたあの娘、セイントシスターだった。怪人をいじめただけでは、憂さを晴らせなかったみたい。彼女は大きなお目々を、不機嫌そうに細めていた。


「紫苑。ここ。誰も居ないよな?」


 右に左に、時には振り返ってきょろきょろ。あたりを気にしながら、セイントシスターが私の名前を口にした。


 セイントシスターの言葉遣いは、とても気易いものだった。そう、私たちは知り合いだったりする。


 それもずっと昔からの付き合いだ。彼女の変身前の姿を知っているくらいに、私たちは親しい間柄であった。


 セイントシスターの正体を知っている人間は、ほとんど居ない。彼女が正体を徹底的に隠しているからだ。知っている人は私を含めても、片手で数えきれてしまうくらいである。


 ちやほやされたい!

 そんな理由で正体を明かす子も少なくないこの界隈では、彼女は過剰とも言えるほどに神経質であった。


「誰も居ないみたい。きっと、大丈夫だよ。変身を解いても」

「本当? 本当だな!? 見張りは頼むぞ! 誰かが来そうな気配を感じたら、すぐに知らせてくれ!」

「はーい。いつも通りにやりますよー」

「よ、よし。じゃあ……こほん」


 セイントシスターが咳払いをした。今の咳払いは、これから変身を解きますよ、という合図だった。


 彼女の表情が変わる。眉尻がへにゃりと下がる。今にも泣き出しそうな顔つきになった。


 そんな彼女を眺めて、私は気分が高揚した。実は楽しみなんだ。これから起きることを眺めるのがさ。私の至福なひとときだったりするんだ。


 さて、変身解除の儀式がそろそろ始まる。私は見張るフリをしながら、そいつを今か今かと待ちわびた。


 そして、待ってました。くしゃり。彼女の顔に悲哀の皺が刻まれる。それこそが儀式開始の合図。私はセイントシスターを凝視した。


「えーん! えーん! 神様ごめんなさーい! セイントシスター、還俗(げんぞく)しまーす!」


 女の子の泣き声が陰気な小道に響き渡った。これは泣き真似だ。その堂の入りようときたら、この演技だけで小さな劇団に入れてしまうのでは、って思うほど。


 魔法少女が変身解除するには、アプリの認証が必要だ。認証方式は、声によるパスワード朗読。しかも感情を込めて台詞を言わないと、きちんと読み込んでくれないのだ。だから真剣な演技が必要となるのだ。


 さて、今回は一発で認証されるかな? 失敗してくれるとありがたいのだけれども……さて?


 でも、残念。私の期待はぱちんと弾けた。泡みたいに消えてなくなった。


 認証成功。破門まっしぐらな修道服がたちまち消えてしまった。平々凡々な学生服に早変わり。それも学ラン、男物。


 でもでも。まあ、なんてアブノーマル! だってかわいい女の子のお顔が、男の子の制服の上に乗っかっているんだから! 倒錯的な空気に酔っちゃいそう。


 高名なマジシャンでも再現不能な瞬間衣装替えから遅れること数秒。かわいいお顔にも、劇的な変化が生じた。文字通りの変貌を遂げた。


 まんまるお目々が消え失せて、代わりに三白眼が現れた。眉毛も全部剃ったみたいに薄くなる。札付きの凶相だ。半グレ集団にこんなのが居るよねって言えば、みんな共感してくれるはず。


 変化は顔だけに留まらない。性別そのものも変わっていた。男の子になっていた。

 そう、セイントシスターは魔法少女ではなく、実は魔法少年であったのだ。もっとも、変身中は正真正銘の女の子になっているんだけどね。


 彼はさっきまで女の子でいたのが、とても恥ずかしかったみたい。唇をきゅうと噛みしめていた。耳たぶだって朱色に染まっている。子犬みたいに、身体をぷるぷる震わせているその姿は、彼の強面を差し引いてもなおキュートだった。それ、好き。


「……くそっ。なんだって泣き真似をしないと、変身解除できないんだ……ただでさえ恥ずかしいってのに」

「でもでも。私は好きかな。だって恥ずかしがる司くん、かわいいし」

「自分で言うのもアレだが。こんな強面の恥ずかしがるところを見るのが好きってのは。なんともまあ、いいご趣味――を?」


 セイントシスターの正体は司くん。私の幼なじみだった。


 その強面とぶっきらぼうな言動に似合わず、根っこは優しい()()の彼は、はてどうしたのか。彼はフリーズしていた。驚き、桃の木、山椒の木。そんな面持ちで固まっていた。


 まあ、そうだよね。

 びっくりするよね。

 あんぐりしちゃうよね。

 さっきまでの姿をスマホで撮られているのに気がついちゃさ。


「……なあ紫苑」

「なあに?」

「……今、スマホっつうか。カメラを俺に向けているわけだが。まさか撮ったわけじゃないよな? さっきの俺の姿を」

「やだなあ。()()()()()撮ってないよ」

「そうか。そいつは疑って失礼――」

「動画は撮ったけどね。変身解除のキメ台詞から今まで。ずっと」


 私の答えを聞いて、司くんはまたまたフリーズした。凍り付いた。

 一拍、二拍。無言の間。

 しばらくして、わなわな。ぷるぷる。彼は口角を震わせはじめた。どうやら解凍されたみたい。

 そして――


「……寄越しなさい!」


 司くんが両手を大きく広げた。立ち上がってがおーって威嚇する、レッサーパンダみたいに。次の瞬間には、彼は両手を振り下ろすだろう。私の捕獲を試みるだろう。


 私は運動神経がよくない。対して司くんは抜群だ。だから私は、あっさりと捕まってしまうだろう。


 でも、私だって彼の幼なじみなんだ。伊達に十年以上も彼のそばに居たわけじゃない。私にはわかるんだ。彼の癖が手に取るようにね。


 司くんの左小指が、ぴくりと揺れた。これは彼の癖の一つだ。身体を力一杯動かそうとするときのサイン。


 いくらのろまな私でも、合図を読み取ってしまえば――ほら、ひらり。私は身をよじる。彼の両手が空を切る。すんでのところで回避成功。まるでマタドールになった気分だ。


「空振りー。残念でしたー」

「消せ! 消すんだ! 俺の醜態を今すぐに!」

「いやですー。絶対に消しませーん。もし消して欲しかったら……力尽くでやってみなさーい!」


 私は駆けだした。彼の返事を待たない。目指すは人の往来が激しいすずらん通りだ。人混みを上手に利用すれば、運動神経の差を埋められるからね。


 数拍遅れて、私のよりもずっと軽やかな足音が後ろから聞こえてくる。言うまでもなく、この足音は司くんのやつだ。さて、お宝動画を賭けた、追いかけっこの始まり始まり。たまには童心に返るのも、悪くはないんじゃないかな?


 ラムネのビンみたいに透き通った晴れ空に、私と彼の足音が突き抜けていく。司くんはどうかは知らないけれど、私からすれば、それらはとっても楽しい音色だった。


 これからも、からかいがいのある彼で遊んで、こんな音をたくさん奏でていきたい。私たちならそれができるはず。代わり映えはしないけれど、ほのぼのとした未来が待っているはずなんだ。そのときの私は、そう信じて疑わなかった。


◇◇◇


 そう、そのときの私は。たしかにそう信じていたんだ。

 でも、現実は。実際は。私たちの未来は――


◇◇◇


「セイントシスター。還俗します」


 今日の神田は息苦しい曇り空であった。セメントで造られたような灰色の空が、私たちの頭上に覆い被さっている。


 季節外れの冷たい風が吹き抜ける。迷子になった北風小僧が、きっと仲間を探しているのだろう。ぴゅうぴゅう。ぴゅうぴゅう。泣き声みたいな風の音。それに紛れるかたちで、セイントシスターの声がした。彼女もまた、今にも泣き出しそうな声だった。


 認証は成功した。瞬く間に修道服が学生服に変わる。でも身体は――


「……紫苑?」


 すがるような声がする。司くんの声だ。頼むから俺が望む答えを言ってくれ。短い言葉には、そんな意味が込められていた。


 でも、ごめんね。私はあなたが望む答えを与えられない。


 静かにふるふる。私はかぶりを振った。


 司くんの問いかけの中身はこうであった。俺、きちんと男に戻れているかな? これであった。でも、結果は――司くんの身体はセイントシスターのままだった。


 アプリの認証には成功した。服装だって元に戻った。でも、彼の身体は、いつまで経っても男の子に戻らない。十秒経とうとも、一分経とうとも、十分経とうとも、彼はずっと彼女のまま。


 その事実を知った司くんは――いや、セイントシスターはうなだれた。まるで不合格通知を受け取った受験生みたいに。


 そう、今の司くんは。

 自力で男の子に戻れなくなっていた。

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