最終話 だから神様、お願いします
くりくりになってしまった司くんの目が、目一杯見開かれた。唇も半開き。呆然といった面持ちだ。彼女自身、自然にこぼれでてしまった言葉が信じられないのだろう
「……今、私はなんて言った? 私……って言った?」
彼女がぽつりと呟いた。問いかけるような声音だ。その言葉は私に向いていなかった。自問だ。
どうして自分は自分のことを、私と言ってしまったのだろう。それもごくごく自然に――彼女の自問とはこれだろう。
でも、彼女は気がついているのだろうか。その自問でさえ、私、というワードを使っていることに。
彼女は目を逸らした。俯いた。長い黒髪がさらりと流れて、彼女の顔を隠す。そのせいで、司くんがどんな顔をしているのかがわからない。
でも、明るい顔をしていないのはわかる。だって、ほら。彼女の肩が、ふるふると震えていた。こみ上げてくるなにかを耐えているような、ふうふうという息づかいも聞こえてくる。
彼女がネガティブな感情と戦っているのは明白であった。
司くんが顔を上げた。顔にかかっている髪の毛を、静かにかき分ける。髪を耳にかける。真っ直ぐに私を見る。彼女は笑顔だった。
満面の笑みではない。眉尻がへにゃりと下がっている、困った感じの笑み。目と口だけで無理矢理笑顔を作っているのが、嫌でもわかってしまう表情だ。
どうしてそんな痛々しい顔を作るの? わからない、わからない、私にはわからない。
司くんがなにかを話そうとする。真っ赤な唇が動く。
やめて、聞きたくない。
そんな顔で紡ぐ言葉なんて、ロクでもないものに決まっている。
だから言わないで。
お願いだから。
願いは叶わなかった。
「はは……やっぱ。無理か」
「ど、どうしたの? なにがあったの?」
「……思い出せないの」
「司くん?」
「思い出せなくなっちゃった。ねえ、紫苑。私さ、変身する前は、どんなしゃべり方をしてたっけ? 私は私のことをどう呼んでた? 俺だっけ? 僕だっけ? わからないの」
「……え?」
「あはは、困ったなあ。本当は心配かけないように。ちゃんと演技するつもりだったのに。これじゃあ演技のしようがないや」
彼女のイントネーションが変わった。ぶっきらぼうじゃなくなった。ふわふわとしたものになった。言葉遣いも男の子のそれではなくなる。かわいらしいものになる。
そんな声音で彼女はこう言ったのだ。
ねえ、教えて。私は本当に男の子だったの? と。
私の頬になにかが伝った。
ぬるい。
涙だ。
私が悲しみを感じる前にこぼれ出た。
こらえようと思う前に流れ出た。
涙から遅れて、悲しみがやってきた。しゃくり上げも始まった。私には、もうどうしようもできない。涙も、悲しみもコントロールできない。
「泣かないでよ。ほら、紫苑はさ、ニコニコしてる方がかわいいんだから。ずっと昔からさ」
「だって……だってえ。わかっちゃったんだもん。司くん、あなたが……!」
違う誰かになってしまった……!
本来の性別がどうだったか、それすら思い出せなくなるなんて……!
もう認めざるをえなかった。司くんは私の知らない誰かになりつつある。この事実を、認めなければならなくなってしまった。
魔法少女の身体が、彼の記憶を侵し始めている。だから一人称を思い出せなくなってしまった。身体に都合のいい人格を植え付けようとしている。だから言葉遣いが激変してしまった。
身体が彼を殺そうとしている。いや、もう殺してしまったあとかもしれない。
私の好きな司くんがいなくなってしまった。涙が止まらない。
私はぐずぐずと泣き続けた。そんな私を見て、司くんは困った笑みを一層深くさせた。いや、彼が顔に貼り付けているのは、本当に笑顔だけだろうか? その笑みは揺らいでいるように見えた。なにか別の感情も交ざっているような気がした。
この感情は――
「……紫苑、お願い。本当に、泣かないで。お願いだから。あなたに泣かれちゃうと……私……私……!」
彼女のアーモンドアイが結露した。大きなしずくがこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい……! 取り返しがつかないことをしちゃった。こんな私、あなたの幼なじみの司じゃないよね……ごめんなさい。私、奪っちゃった……あなたの司を奪っちゃった。ごめんなさい……ごめんなさい……!」
彼女が両手で顔を覆う。泣き顔を隠す。泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさいって、謝り続ける。涙は彼女の膝から力を奪ったようだ。彼女はヒビだらけのアスファルトの上に、ぺたんとへたり込んだ。
ちいさな子供みたいに、彼女は泣き続けた。私の足下でずっと、ひっくひっく、とえづき続けた。
そんな彼女を見て、私は気がついたことがあった。私から幼なじみを奪ってしまったことに、彼女は罪の意識を感じている、ということに気がついたのだ。
私にとってその気づきは、か細い希望の光であった。自分自身が、自分でも知らないうちに、別人になってしまったかもしれない。そんな恐ろしい境遇にあるというのに、この娘は自分のためではなく、他人のために泣いている。
司くんは私の前で泣いたことがない。司くんが泣くときに見せる癖を、私は知らない。でも、彼女は私のために泣いている。自分の気持ちよりも他人を優先している。これは司くんの気性そのものだ。自分を犠牲にしてしまえる、あの危なっかしい性根そのものだ。
私が希望を見いだしているのは、まさにそこであった。もしかしたら、彼女と彼は同一人物であるかもしれない。
たしかめないと。そうでなかったときが怖いけれど、でも――!
私は意を決した。ブレザーの袖で涙を拭う。一歩、二歩。彼女に近付く。しゃがみ込んで、目の高さを合わせて――そして私は、背中を丸めて泣きじゃくる彼女を、そっと抱きしめた。
じんわりと伝わる彼女の体温。その小さな身体が揺れるのに合わせて、私は彼女の細い背中を、優しくぽんぽんとなでるように叩いた。
幼い頃の記憶が蘇る。
「ねえ、覚えてる? 小さかったころさ。司くん、しょっちゅう泣いていた私を、こうして慰めてくれたよね」
この記憶は世界で、私と司くんしか知り得ない思い出だ。この記憶を覚えているのならば、彼女は間違いなく司くんだ。そう断言できる。
だから私は願った。お願いだから、覚えているって言って。
彼女はなかなか口を開かない。すんすんと鼻を鳴らして泣き続けるだけ。余裕がなくなると、せっかちになってしまうのが私の悪い癖だ。ついつい、せかしてしまう。
「ねえ? 覚えて、ない?」
「……覚えてるよ。紫苑」
細い声になってしまったけれど、彼女はたしかにこう言った。私の腕の中でこう言った。覚えているって。
良かった!
この娘はちゃんと司くんだ!
希望は潰えていなかった。私は嬉しくなった。ついつい、彼女を抱きしめる力を強めてしまうくらいに。
「一回、紫苑がどうやっても泣き止まなくて……私が困っちゃって……得体の知れない激安自販機で、レモンスカッシュを買ってことなきを得たときもあったよね……」
「うん。あった、あった」
「……そのときの九十円。まだ返してもらってないなあ。あれは十年前だったから……年利十パーセントだから……借金、百八十円。早く……返して?」
「よく覚えてるねえ。このしゅせんどー。りんしょくかー」
思い出話のおかげだろうか。ちょっとした軽口を叩ける程度には、司くんは気を取り直したみたい。
私は司くんから身体を離す。彼女の肩に手を置いて、距離を取る。彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃであった。ひくひくとしゃくり上げてるし、鼻をずるずるとすすってる。まるで小さな子供の泣き顔みたいだ。
司くんの泣き顔は、私の知らない表情だった。でも、この顔をしている女の子が、司くんではない、と私は思わない。この娘は私と彼だけの思い出を知っていた。だから間違いなく司くんだ。
「司くん、大丈夫だよ。あなたは私が知っている司くんだから。私の幼なじみの司くんだから。だって、覚えているじゃない。私とあなたしか知らない思い出を」
「本当に? 本当に私は紫苑の幼なじみなの? 本当に司なの? 私は……あなたのそばに、まだ居てもいいの?」
「もちろん」
「でも――」
「もし、自信がなくなったら」
私は一呼吸おいた。次に紡ぐ言葉を、より強調させるために。
「そのときは、さっきみたいに思い出の答え合わせをしよ? そうすれば、あなたが司くんである、って証明になるよね? 大丈夫。私はあなたのそばに居るから。いつだって付き合ってあげるから。ね?」
「紫苑……紫苑……! ありがとう……」
彼女がまた手で顔を隠した。再びぐずぐずと泣き出した。まるでマリア様をはじめとする、聖人を拝むかのような口ぶりで、彼女はありがとう、ありがとう、とささやき続けた。
その口ぶりのせいで、私は罪悪感を得てしまった。
ごめんね。私は聖人じゃない。
自分勝手な人間なんだ。
場合によっては、私はあなたを見捨てるだろう。
だから罪の意識を得てしまった。
もし、彼女が私との記憶を失ってしまったら――私は彼女を拒絶するだろう。
あなたは司くんではない、と叫ぶだろう。
拒絶するだけならいい。
私は彼女を、司くんを殺した仇敵と見なすだろう。
憎悪を彼女にぶつけてしまうだろう。
よくも、よくも司くんを! 許せない!
そんな風に思うはずだ。
それは嫌だった。
私は司くんを、この娘をできれば嫌いたくない!
だから。
だから!
だから神様、お願いします。
この人の性格を、大きく変えてしまっても構いませんから。
この人が普通の女の子のように、男の人を好きになっても構いませんから。
だから。
どうか、どうか。
どうかこの人と。
私とこの人が築いた思い出には手を出さないで。
壊さないで。
忘れさせないで。
私との思い出が彼女の中にあれば。
私はこの娘を司くんと認識できるから。
私はこの娘を好きでいられるから。
だから神様。
お願いします。
これ以上私たちを苦しめないで。




