第十話 私は大丈夫
遅れてやってきた魔法少女に、私は保護された。ここに居ては危ないからと、私を廃倉庫の外に連れ出してくれた。今、私は夜空の下に居た。
司くんが変身してしまってからのことを、私はよく覚えていなかった。遅れてやってきた魔法少女が言うには、私は冷たいコンクリートにぺたんと座り込んで、司くんと怪人の戦いを眺めていたらしい。
なにを見ていたのかを、私は全然覚えていなかった。多分そのときの私は、病院の待合室で暇を持て余している患者さんみたいに、虚空をぼうと見つめていたはずだ。焦点が合っていなかったのだろう。だから記憶にないのだ。
倉庫には電気が通っていないようだ。敷地内の電灯は、一つも灯っていなかった。
ただでさえ、地面のアスファルトがところどころ割れたり、剥がれたりしていて、足下を取られやすいのだ。駆けつけた魔法少女協会の車たちが、ハイビームで倉庫を照らさなければ、まともに身動きできないだろう。
ステージ上の役者さんさながらに、光を集めている倉庫の周りは、とても慌ただしかった。よれよれスーツ姿な協会の大人たちと、華やかな衣装を着ている魔法少女たちでごった返している。
みんな忙しそうに、あっちこっちを行ったり来たりしていた。大人たちも魔法少女たちも、誰一人として倉庫の中に入ろうとしない。建物の外で、小難しい顔して話し合っているだけだ。
それを鑑みると戦いは、私たちの勝利に終わったみたい。戦いが続いていたら、魔法少女たちは援軍のために、倉庫へと突撃してゆくはずだからだ。今、忙しそうにしているのは、事後処理ってやつだろう。
私には仕事が与えられなかった。当然だ。私は協会員でもなければ、魔法少女でもないのだから。なんなら事件の被害者だ。仕事が割り振られる理由が一つもない。
そうだとしても、みんなが忙しそうにしているのに、私だけ手持ち無沙汰というのは、とても居心地が悪かった。
彼女たちを見ていると、自分の所在なさが強調されてしまう。申し訳なくなる。働いている人たちを、直視できなくなる。私はたまらなくなって、顔を上空へと背けた。
今日の夜空は雲が一つもなかった。黒一色。でも、私はきれいだとは思えなかった。天空に広がる黒色は、使い古したタイヤみたいに、灰色がかっていて締まりがないように見えた。きたならしい。
倉庫を照らしている協会のミニバンに寄りかかりながら、私は美しくない夜空を眺め続けた。
ぼんやりとしている私に、用がある人が居るみたい。足音が近付いてきた。軽さから考えると、音は女の子のもの。私を外に出してくれた、あの娘の足音かな? そんなあたりをつけながら、私は音がした方へと顔を向けた。
そして私は息を呑んだ。推測が外れたからだ。足音の主は、私を茫然自失に追い込んだ張本人――セイントシスターになってしまった司くんだった。
司くんは変身を解いていた。例によって男の子に戻れていない。
司くんは二度と男の子に戻れない。今後は女の子として生きなければならないのだ。その事実を突きつけられて、私は泣きそうになってしまった。
いや、善人ぶるのはやめよう。私が泣きそうになった理由は、それだけではないだろう? 理由はもう一つあるだろう? 彼女に恐れを抱いているから、泣きそうになっているのだろう?
司くんが、私の知らない誰かに変わっているかもしれない。私の知っている司くんが、この世から消え去っているかもしれない。私はこの可能性を否定できないでいた。なんて怖い可能性だろう。
だから私は司くんに会いたくなかった。会って言葉を交わしてしまえば、どうしても知ってしまうからだ。話し方を、考え方を、表情の作り方を見ただけで、この娘が司くんであるのかどうかがわかってしまう。
もし、まったく知らない姿を見せられたのならば――それを考えると、今にも涙があふれてきそう。
セイントシスターが口を開こうとする。声を聞いてしまえば、この娘の正体がわかってしまう。知りたくない。私は耳を塞ごうとした。
でも、間に合わなかった。声が私の耳に届く。
「紫苑。大丈夫か? 怪我はないか?」
容姿に違わぬ可愛らしい声。しかし、イントネーションには可憐さが欠けていた。私はそれに聞き覚えがあった。愛想が感じられない抑揚のつけ方は、司くんのものに違いない。私はほっとした。
なによりも私をほっとさせたのは、彼女の言葉遣いであった。私の記憶が曖昧になる直前、彼女は女の子そのものな口調で、怪人に啖呵を切っていた。でも、今の言葉選びはどうだろう。誰が聞いても男の子のものだ。
私は確信した。この娘は間違いなく司くんだ。姿は変わってしまったけれど、この娘はちゃんと司くんだ。
どうやら最悪の可能性は避けられたみたい。おかげで、鼻の裏あたりにずっと居座っていた、塩辛いむずむず感がずいぶんと弱くなった。自分のことながら、あまりの現金さに苦笑いを浮かべるしかない。
「う、うん。私は大丈夫。それよりも司くんは?」
「見ての通り、怪我はない。鎧袖一触だったからな。だから私は――」
私の心は、ぴしり、って音を、たしかに捉えた。
それは、私と司くんの間にあった空気が張り詰めた音だった。




